水浸し

「沙耶、私は平和って大事だなって思うんだ。」

「そうね。平和って素晴らしい事ね。」


平和と言う物は、失って初めて尊いと気付く事がある。

それを失わずして尊いと知っているのだから、とても幸せな事なんだ。


「沙耶、私は暴力はいけないと思うんだ。」

「そうね。暴力は良くないわね。」


争いは何も生まない。

もし何かを生むと言うのであれば、それは悲しみや悲劇だろう。


「沙耶、慈悲の心って大切なだと思うんだ。」

「そうね。優しさは大切よね。」


他者を思いやる気持ちがあるからこそ、平和を維持できるんだ。

慈悲の心無くして私たちは豊かな人生を送る事は出来ないだろう。


「沙耶、理性的な行動って必要だと思うんだ。」

「そうね。理性は必要よね。」


感情に操られず、自身をコントロールしてこそ人間だ。

理性的な振る舞いこそが、平和を維持していくためには必要なのだ。


「沙耶、世の中には不幸な事故ってあると思うんだ。」

「そうね。悲しい事に、そういう事もあるわね。」


悪意が無くとも、間が悪く事故が起こってしまう事もある。

しかしその事故を誰かのせいにするのは良くない事だ。


「で、何か言い残すことはあるかしら?」

「いや、でも今回に関しては仕方が無いと思うんだけど。私はそこまで悪くないと思うんだけど。」

「悔い改めないって事ね?」

「いや、あの、そう言う訳でもないんだけど………。」


今回は、なんて言うか、運が悪かったんだ。

だからそんな目で私を睨まないで欲しい。


「それでは解説は僕、竹塚と実況は伊江がお送りいたします。」

「実況も何も、見てれば分かると思うけどな。」

「そんな事より私を助けてくれ!」

「ちょっと敦、聞いてるの?」


くっ、友達なら助けてくれよ。

なんで呑気に愉快な実況解説を始めようとしてるんだよ。


「さて、転ぶ安達、空を舞う食器トレー、それを見事にキャッチしたものの乗っていたコップまでは手が回らなかった入屋。当然の如く慣性の法則に従ってコップだけが食器トレーから飛び出した結果、入屋の食事が水浸しとなりました。これに対して安達は弁明を行いますがこれは苦しい。入屋は表情こそ無表情ですが恐らく感情は荒れ狂っているでしょう。」

「安達も無駄な抵抗をしないでさっさと謝れば良いのにな。喋れば喋る程、自分の首を絞める事になるからな。」


だって私、そこまで悪くないから。

運が、間が、タイミングが悪かったんだ。

それを転んでしまったのは事実だけど、それを言うなら原因を突き詰めていくべきだと思うんだ。


「それに私は思うんだよ、そもそも滑りやすい床にも問題があるんじゃないかなって。」

「おっと、ここで安達お得意の責任転嫁が発動しました!」

「何か問題があった時に自分以外の存在に責任を擦り付けるのはいつもの事だからな。」

「そうですね。むしろ安達が責任転嫁をしないところを見たことがありません。」


外野、責任転嫁って言うんじゃない。

これは事実を明らかにして議題に挙げているだけだ。


「そうね。床に問題があったかもしれないのね。」

「そう、そうなんだ!」

「でも転んだ敦の責任も大きいわよね?」

「えっと、それはその………。」


流石に床が無ければ転ばなかっただなんて言い訳は出来ない。

転んだと言う事実を突きつけられると何も言えなくなる。


「しかし入屋は正論で安達の得意技を封殺しました!」

「いくら安達が言い訳を重ねる奴でも、正論を言い負かせる程に口は回らないからな。」


くっ、確かに床が悪かった理論は通じなかった。

しかし私にはまだ手札が残されている。


「だけど待ってほしい。幼馴染の贔屓目無しにしても沙耶は私なんかとは比べ物にならない程、運動神経や反射神経に優れていると思うんだ。」

「それは、まぁ、そうね。でもおだてたって敦が許される訳じゃないわよ。」


まずは事実の確認からだ。

運動神経と反射神経の良さは本人も認めた。


「安達が急に入屋の事を誉めだしたな。流石にそれで許してもらえる程、入屋も単純じゃないとは知ってると思うんだけどな。」

「いいえ、安達はその先の一手を打ったんだと思います。」

「その先の一手?安達にそんな事を考える知能なんてあったのか?」

「安達は言い訳限定で頭の回転が普段よりも1.2倍くらいになりますから。」


外野、まるで私が普段は一手先も考えられないような馬鹿みないな言い方は止めるんだ。

とにかく、これで新しい理屈を展開できる。


「沙耶は私よりも運動神経も反射神経も良い。それならばコップを落とすことなく食器トレーをキャッチ出来たはずだ!つまり沙耶にも少しだけ、僅かでも、若干ながら、非が無い事も無いと思うんだ!」

「敦。確かにあたしはあんたよりも運動神経も反射神経も良いって認めたわ。」

「それなら………」

「でもこう考える事も出来るわよね?だからこそコップを落としちゃったけど、食器を落とすことなくトレーをキャッチ出来たって。つまりあたしはあんたのミスの被害を最小限に止めたって事よ。」


私のミスって部分を凄く強調された。

いや、でも、ほら、それほどまでに優れた運動神経と反射神経を持っている沙耶なら問題なく全てをキャッチ出来ていてもおかしくは無かったわけで………。

でもそれを言ったら本格的に制裁されそうなんだよ。

どう反論すれば良いんだ………。


「安達は見事に墓穴を掘ったな。」

「入屋は暗に安達が全面的に悪いと言っていますね。これには安達も苦虫を嚙み潰したような顔をして何も言い返せません。」


これ以上沙耶にも問題があった的な発言、出来る訳が無いだろう!


「で、言い訳は終わりかしら?」

「ぐぐぐぐ………。」

「今、謝ればびしょ濡れになった食事を交換するだけで許してあげるわよ?」

「…………もし謝らなかったら?」

「ん。」


沙耶が指差したその先には、先程飲み干したであろうペットボトルが潰されていた。


「ごめんなさい!」

「よろしい。」


私だってびちゃびちゃになった食事を食べるのは嫌だけど、それ以上に命が惜しい。

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