第4話 長距離ランナー 神田川 真音

「まねちゃんさあ、告白しないの?」


 私の名前は真音と書いて「まおと」と読むが、子供の頃からまねちゃんと呼ばれている。


 この学園で私をまねちゃんと呼ぶのは、おかやんだけだ。


 そもそも同じクラスの女子は三人しかいないし、みんな寡黙なアスリートばかりで、あだ名で呼び合うタイプではない。


 スポーツ9組は、授業料免除の特待生ばかりで、陸上選手は結果を残さなければ、普通科落ち、高額授業料の取立てという、退学まっしぐらの未来しかない。呑気にあだ名を付けて馴れ合ってるヒマはないのだ。


「告白って誰によ?」


「決まってるじゃん。 志岐一筋のくせに」


 スポーツ9組の授業風景は、早弁はやべんと居眠りが基本だ。


 唯一真面目にノートを取っているのは教室の真ん中を陣取る志岐君だけだ。


 そして私は最後尾の席でその志岐君の後ろ姿をひたすらスケッチするのが日課だ。この美しさを何か形に残さずにはいられない。


 慣れた手つきでサラサラと輪郭を描いていく。


「勘違いしないでよ、おかやん。私は芸術をでるいちファンのように、見ていたいだけなのよ。彼の領域に入り込むつもりは無いのよ」


「でも話してみたいとか、もっと近付きたいとかあるんじゃないの?」


 隣りの席のおかやんは、早弁を終えると、たまに暇つぶしに話しかけてくる。


「あのねえ。善良なファンというのは、スターを遠くから眺めて、秘かにその幸せを祈るものなの。自分がその幸せに入り込もうなんて思った瞬間からファン失格よ」


「時代遅れだなあ、まねちゃんは。今頃のアイドルは放課後会えるがコンセプトだよ。スターとは、手の届くもの。もしくは明日自分がなるかもしれないものだよ」


 お前が言うかという、肉とあぶらののった顔でおかやんは腕を組んで肯いた。


「ファンのあり方は人それぞれだけど、少なくとも私は彼の人生に関わるつもりも、その選択に口出しするつもりもないの。たとえそれが自分の願う方向とかけ離れていたとしてもね」


「まるで志岐がかけ離れてるみたいな言い方だね」


 おかやんの言葉に、私はよくぞ聞いてくれたとこぶしを握りしめた。


「当たり前じゃないのっ! 志岐君が野球を始めてしまったのは大きな誤算なんだから」


「ええっ? 天才エースの志岐に憧れてるんじゃなかったの?」


「違うわよ。私が初めて志岐君に会った時は、彼は野球なんてやっていなかった」


「一体いつの話だよ」


「小三の終わりに、関西からこっちに引っ越してきた時よ」


「そんな昔からファンだったの?」


「それから小、中同じ学校だったけど、同じクラスになったのは小三の一ヶ月だけよ」


「それで今までって、すごい執着だね」


 高校からクラスメートになったおかやんは、さすがに少し引いたらしい。


「だって、志岐君の髪がどれだけ素敵か知らないでしょ? うっすら茶色のサラサラストレートよ。その髪があの甘く整った顔をどれほど魅力的にするか知らないでしょ?」


「坊主頭の志岐しか知らないもん。あいつ伸びたら茶髪なのか」


 今では刈り過ぎて色も分からない。


「しかも均整のとれた見事な曲線の骨格」


「そうかなぁ……」


「だからっっ! 野球のハードなトレーニングのせいで、中学に入った頃からムキムキ筋肉がついて、うう……お尻も太もももすっかり太くなっちゃって……」


「下半身強化はピッチャーの基本だからね」


「小四の時、突然野球を始めて、いきなりの十円ハゲ。私がどれほど失望したか」


「あのハゲ四年生からあったのか……」


「そうよ。ちょっと憧れてた女子もすっかり興ざめして……。それから三流男子扱いになったのよおおっっ!」


「ところで、それ何描いてるの?」


 おかやんはひょいと私のスケッチブックを覗き込んだ。


「もちろん志岐君の麗しい後ろ姿よ。首から肩にかけた頸部後面筋。三角筋と僧帽筋の見事なバランス。そして座っていても百会ひゃくえから丹田にかけてブレなく伸びた正中線。これを描かずしてファンを名乗れないでしょう」


 私の絵は皮膚を透かして筋肉まで詳細に描いてある。


「保健室の人体模型みたいだね。怖い、怖い。怖いよ、まねちゃん」


 おかやんは本気で顔を引きつらせている。


「あの……おかやん。何度も言うけど、私が志岐君のファンだって事、絶対本人に言わないでよ」


「頼まれなくても絶対言わないよ。夏の大会前の大事な時に、エースをストーカー恐怖に陥らせるわけにはいかないからね」

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