第90話 真音、憑依される (三人称)

「まねちゃん、大丈夫?」


 志岐は目の前で突然意識を失った真音まおとの体を慌てて受け止めた。


「どうなったんだ? 志岐君」

 ディレクターの声がイヤホンから聞こえた。


「分かりません。気を失ってます。とにかくここにいるのは危険なので、まねちゃんを連れてそっちに戻ります」


「分かった。気を付けて戻ってくれ」


「はい」


 志岐は真音の膝裏に手を添えると、ひょいと抱き上げてすぐに走り出した。


 何かしら良くない気配は感じていた。

 真音の体に黒い影が入ったのが見えた気がする。

 一刻も早く連れ出さなければ……。


 慌てて部屋を出る志岐の姿は、すぐに定点カメラからは見えなくなった。


 ひどく焦っている。

 マウンドで絶体絶命のピンチに立った時でさえ、これほど焦ったことはない。


 この子といるといつもこうなる。

 自分でも情けないぐらい動揺してしまう。


 何にも動じないように訓練してきたはずの心は、いつもその中心を貫かれて慌てふためいてしまう。

 真っ直ぐに何の見返りもなく向けられる、その善意に揺さぶられてしまう。


 好きだとか恋だとかはよく分からない。


 ただ、この子の善意にだけは全力で応えたいと思う。

 この子が危険に晒されるなら、全力で守りたいと思う。


 きっと自分は好きとか恋とかを知る前に、本物の愛に出会ってしまったのだと思う。


 自分のすべてを捧げて悔いのない愛。

 見返りを何一つ望まぬ愛。


 この子を自分のものにしたいわけではない。

 独占したいわけでもない。


 そういうものが恋だというなら、これは恋ではない。

 やはり愛なのだ。


 この子を危険に晒すものが許せない。

 この子を不幸にするものが許せない。


 自分でもどうかしていると思うぐらい、この子を傷つけるものに腹を立ててしまう。


 ただ、幸せでいて欲しいのだ。


 それなのに、いつも自分のために危険に飛び込むようなマネをする。

 全然勝算などない無謀な行動にいつも心配して、冷や冷やさせられて、怒鳴りたくなることばかりなのに、そのいじらしさに胸を打たれてしまう。


 こんな想いを知らない。

 この気持ちは何なのか……。



「……へ……い……」


「え?」


 腕の中の真音が何か呟いた。


「きょう……へい……」


 ちょうど階段の踊り場まで来ていた。

 窓からぼんやりと差し込む月明かりが真音の顔を照らした。


 ドキリとする。


 何か様子が変だ。

 月明かりのせいか、どこかなまめかしい。


「まねちゃん、気が付いた?」


「やっと……迎えに来てくれたのね……」

 真音の手がそっと志岐の頬に添えられた。


「え?」

 驚いて立ち止まる。


「下ろして」


「え?」


「もう大丈夫だから……」


「う、うん」

 言われるままにそっと床に立たせた。


 痩せているせいか、身長よりずっと小さく見える。

 そして自分を見上げる瞳にもう一度ドキリと心臓が跳ねた。


 やっぱりいつもと違う。


「ずっと待っていたのよ、恭平」

 そう言って突然腕を背に回し、抱きついてきた。


「ま、まねちゃん!」

 あまりのことに思考が止まる。


「来てくれると思ってたわ、恭平」


「き、恭平って……まねちゃん……」


「私よ、霧子きりこ黒闇くろやみ霧子。忘れたの?」


「黒闇霧子……?」


「もう。じゃあ思い出させてあげる。あら、背が伸びた? ちょっとかがんで」


「こうですか?」

 志岐は膝を曲げて、少し屈んだ。



 そして……。



 次の瞬間……。




「!!!」




 真音の唇が自分に重なっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る