第3話 期待のエース 志岐 走一郎
「おい、貴様! 一年のくせにいい根性してるな!ここでスクワット二百回だ!」
いいカモが来たと命じた三年生は、すぐに誰だか気付いて顔色を変えた。
「すみませんっした!」
彼はその場でスクワットの態勢になった。
しかし上級生達は慌てて命令を撤回する。
「い、いや、志岐だったのか」
「お前ならいい。ランニングを続けろ」
「悪かったな、練習の邪魔をして」
「え? でも……」
日に焼けた肌に、甘さを残して吊った切れ長の目。鼻筋は高すぎず通って、何より顎からエラに向かう曲線の完璧さ。
そして天から地へと垂直に引いた線上を真っ直ぐ貫く立ち姿。
ブレない軸。
地球の重力に見事に調和する重心。
すべてが完璧だ。
「大丈夫っす。ついランニングに夢中になって出迎えを忘れていました。スクワット二百、やらせて頂きます!」
それだけ美しいのに、傲慢になった彼など見た事がない。
「いや、いいって。お前は出迎えなんかしなくていいから、存分に練習しろよ」
「そういう訳にはいきませんっ!」
「やらんでいいと言ってんだろ?」
彼の腕を掴み、やんわりと止めたのは、なんと夕日出さんだった。
その場にいた野球部と、周りで見ていた夕日出ファンも驚いて立ち止まった。
他人に無関心な夕日出さんが、自分からトラブルに関わってくる姿など同級のチームメイトですら、見た事がなかった。
「夕日出先輩……」
「お前は俺達チームの大事なエースなんだ。メニューにない練習をして体を壊すな」
そう。
彼は学園理事長兼、芸能事務所社長が土下座して手に入れた期待のエース。
春の大会で一回戦負けだったのは、いいピッチャーがいなかった事に尽きる。
夕日出さんがホームラン二本打っても、相手チームに一回で十点も取られたら勝てるはずもない。
全国レベルのピッチャーがいなかった。
「お前の体はお前一人のもんじゃないんだ。その事を忘れるな」
「夕日出先輩……」
なんて美しい師弟愛。
絵になる二人。
周りで見ていた生徒達も、ほうっとため息をついた。
「ありがとうございっすっ!」
志岐君は、帽子を取って頭を下げた。
「ああっ! それは……」
思わず私は声を出していた。
今まで麗しい二人に感動していた生徒達の間からクスクスと笑い声が広がる。
「やだ……あれ……」
「あれが噂の……?」
腕を掴んでいた夕日出さんまでも、ぷっと吹き出して、顔をそむけた。
他の野球部員も必死で笑いを堪えている。
「十円……」
「違うわよ。五百円でしょ?」
コソコソ話す女生徒の声が聞こえる。
あああ……。
台無し……。
美談も師弟愛もすべて台無し……。
完璧なほどの顔立ちも、夕日出さんが守ろうとするほどのエースの実力も台無し……。
そう。
彼、志岐走一郎の左側頭部には、あらゆるリスペクトを笑いに変えるほどの、絶妙に間抜けな位置と大きさの五百円ハゲがあった。
「では、練習に戻りますっ!」
周りの失笑も気にならないのか、志岐君はもう一度頭を下げると、笑顔でランニングに戻って行った。
ち……。
違うのよおおお!
坊主頭でなければ……。
髪さえあれば……。
彼がどれほどイケメンなのか……。
今更叫んでも後の祭り。
髪のある彼を唯一見た事のある私にしか、この無念さは分からないのだった。
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