第237話 女神ペレの伝説

「眠れないのでーすか?」


 なんだか寝付けなくてトイレのついでに水でも飲もうとダイニングに降りてみると、ランプの薄明りの中で、ペリーが大きなテーブルに一人突っ伏しながらジンを飲んでいた。


「溶岩洞窟で何かありまーしたか?」


 ペリーは尋ねながら前の席に座るよう、手でうながした。


 私は素直に椅子に座って恐る恐る尋ねた。


「あの洞窟では、本当に隠していた真実が見えるのですか?」


「そうでーす。少なくとも私はそうでーした」


「ペリーが?」


 私ははっと目の前のペリーを見つめた。


「女神ペレにはたくさんの伝説がありまーす。真偽も分からないものばかりでーすが、その中の一つに妹に恋人を奪われてしまうという伝説がありまーす」


「妹に?」


「そうでーす。ペレが大切に育て、可愛がってきた妹でーした。ペレは信頼する妹に別の島に暮らす恋人を迎えに行かせたのでーす。でも妹はなかなか戻ってきませんでーした。そして、やっと帰ってきた二人は、ペレを差し置いて愛し合っていたのでーす」


 ペリーの瞳が話しながらどんどん激しい怒りに燃え盛っていく。


「妹の学費を稼ぐために身を粉にして働いて支えてきた姉を裏切ったのでーす」


 ん? 学費? 身を粉に働く? 女神がそんな庶民的な生活を?


「許せない! こんなひどい話がありまーすか? 妹は悪魔でーす」


 だんっとコップを置いて、目のすわった酔っ払いの顔を私に向ける。


 も、もしかして、これはペリー自身の話?


「そ、それはひどいでーすね。あんまりでーす」


 しまった。ペリーの怒りに動揺して同じ口調になってしまった。

 ペリーはぎろりと私を睨みつけた。


 ひいいい。

 ふざけたわけじゃないんです。ごめんなさいいい。


 そのまま妹の代わりに殴られるんじゃないかと思ったが、急にペリーはしゅんとして俯いた。


「嘘でーす」


「え?」


「それは私が信じたかった伝説でーす。本当は違いまーす。あの洞窟に入った瞬間、私は自分の醜い心に気付いたのでーす。自分の信じたいように物語をゆがめていた愚かな自分に……」


「物語を歪めていた?」


「そうでーす。妹は優しく美しく、とても誠実な女神でーした」


 あれ? 女神の話に戻ったのね?


「愛する姉のために、必死の思いをして恋人を迎えにいったのでーす。途中で何度も怪物に襲われ、やっと辿り着いた時には恋人が亡くなっていたのを、時間をかけてよみがえらせ、大変な思いをして連れ戻ってきたのでーす」


 ペリーは苦しそうに呟いた。


「裏切ったのは恋人だったのでーす。自分を蘇らせ、献身的に尽くしてくれる優しい妹に、いつしか惹かれるようになっていたのでーす。妹も次第に恋心を抱いてしまいまーした。でも、誠実な妹は姉を裏切れないと心を封印し、仮面をつけたのでーす」


「仮面を……」


 私はどきりとした。


「妹は自分の心を隠して、私と彼を祝福しようとしまーした。でも彼は自分の心をいつわれませんでーした。私に……妹を愛していると……告げたのでーす」


 しん、と部屋が静まり返った。


 再び物語はペリー本人の話に戻ってしまったみたいだ。


 なんだか未来の自分を見ているような気がした。


 いつか志岐くんは私に言うのかもしれない。


「ごめん。まねちゃんの気持ちは嬉しいけど、俺は和希を愛してるんだ」


 いつか和希は私に言うのかもしれない。


「ごめん。真音。志岐を好きになってしまったみたいだ」


 その時、私はどうするの? どうすればいいの?


 賢明な人はどうやって対処するの?


 私はすがる思いでペリーに尋ねた。


「ペリーはその時どうしたんですか?」


 だがペリーの答えは予想外のものだった。


「ボルケーノ……」


「え?」


 いや、今なんの話してたっけ?


 火山の女神ペレの話じゃなくてペリーの話だったんじゃないの?


「ボルケーノでーすね。怒り狂って大噴火しましーたね。あらゆる家具を投げつけ、妹が大切にしているものをすべてぶっ壊して荒れ狂いまーした」


 ひいいい。そういうこと?


 このド迫力のペリーが荒れ狂ったら、確かに大噴火といってもいい騒ぎになったことだろう。想像しただけでも恐ろしい。


「大切なものをすべて壊された妹は怒りまーした。腹を立てて秘めていた恋心を正直に彼に話すことにしましーたね。妹の本心を知った彼は、天にも昇るように喜び、妹を抱き締めまーした。熱い心の通じ合った二人は、恐ろしい姉から離れ末永く幸せに暮らしていることでしょう。物語は妹のハッピーエンドで終わりでーす」


「ペリー……」


「マナは意地悪でーすね。真実など教えてくれなくて良かった。世話になった姉を裏切る悪魔のような妹と愚かな恋人の物語で良かったのでーす。そう信じて生きた方がずっと楽でーす」


 愛する恋人を失い、大切な妹を失い、自分の尊厳すらも失った。

 被害者にもなれない哀しみはどれほどのものなのか……。


 ぽたぽたとテーブルにペリーの大粒の涙が落ちる。


 私は何を言うこともできずに、落ちる涙を見つめていることしか出来なかった。


「ペレは……多くの悲しみと怒りを内包した女神でーす。燃えたぎるマグマのような怒りを、時々噴火させながら、これ以上誰も傷つけないように、自分を見失わないようにと、くすぶり続ける怒りと哀しみをしずめながら、この島に鎮座しているのでーす」


 そうしてペリーも女神ペレの哀しみと共に、ここに一人で暮らしている。


「全部忘れて、一から生き直すことは出来ないのですか?」


 私は自分自身の希望も込めて尋ねた。


「忘れるには、あまりに多くのものを失いまーした。そして……あまりに深く愛してしまっていたのでーす」


 ずきりと心が鈍い痛みを放つ。


 それは……近い未来の自分の言葉のように思えた。




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