第177話 志岐の不安
「あれ? 珍しいね、志岐」
おかやんは久しぶりに野球部の練習場に現れた志岐にキャッチャーマスクを外して駆け寄った。夜の室内練習場には夏の大会に向けて練習をする部員が30人ばかりいた。
「うん。ブルペンが空いてたらちょっとだけ投げさせてもらおうかと思ったんだけど、無理そうだね」
新しく2人のピッチャーが入部したと聞いていた。
1人は中学生大会で結構話題になった県外から来たピッチャーらしい。
「何言ってんだよ。お前が投げてくれるって言うんなら、受けたいヤツも、打ちたいヤツも、見たいヤツもいっぱいいる。遠慮すんなよ」
おかやんの言葉通りに、新入生がザワザワと集まってきた。
「志岐さんだ!」
「本物だ」
「すげえ、でけえ。しかもかっこいい」
坊主の暑苦しい軍団の中にあっては、別人種なほどのイケメンだ。
「おお! 仮面ヒーロー見てるぞ、志岐」
「お前がまさか悪の首領とはな」
2・3年生は、毎週寮のテレビを陣取って仮面ヒーローを見ているらしい。
「あ、ありがとうございます」
志岐にとっては家族に演技を見られた気恥ずかしさがある。
「え? 投げるのか? だったら俺バッターボックスに立たせてくれ」
「俺も、俺も立ちたい」
すっかり部員に囲まれてしまった。
「いや、ずいぶんブランクがあるし、コントロールも滅茶苦茶だろうから……」
毎日、つい投球フォームの練習はしてしまうのだが、ボールを持つのは久しぶりだ。
「じゃあ軽くウォーミングアップから投げてみろよ」
おかやんが嬉しそうにグラブとボールを持ってきた。
志岐専用のグラブがまだ残されていたらしい。
キャッチボールで体を慣らしてから、プレートに軸足を乗せる。
久しぶりの感覚に、武者震いするのが分かった。
長年踏みしめてきた感覚。
一気に気持ちが高校球児の頃に戻る。
ワクワクした。
高揚感が違う。
大きく振りかぶって、懐かしさを噛みしめるようにボールを指から弾き出す。
ズバンッとおかやんのミットに気持ちよく吸い込まれた。
少しコントロールはズレたが、暴投というほどではない。
「おお! 久しぶりの割りにそんなにスピード落ちてないよ、志岐」
おかやんがミットの振動を充分に味わってから返球してきた。
「うん。思ったより動ける」
「わわっ! じゃあ俺バッターボックス立たせて!」
「俺も志岐のボール打つのが夢だったんだ」
「コントロールに自信ありませんから、気をつけて下さいね」
先輩達から順番にバッターボックスに立つ。
やっぱり10球を過ぎると痛みが出てくるが、少しスピードを緩めると投げられなくはなかった。後半はかなり打たれたが、50球ばかり投げて、満足した。
「飲むか?」
ベンチで休憩していると、おかやんが飲み物を差し出した。
「うん、ありがとう。あそこで投げてるのが新しいピッチャー?」
ブルペンで熱心に投げている大柄のピッチャーがいた。
「大きいだろ? 球も速い」
「うん、速いな。いいピッチャーだ」
「コントロールもいいし変化球もいい。三振もバンバンとる」
「そっか。じゃあ夏の大会も期待出来そうだな」
少しほっとしたような複雑な表情で志岐は肯いた。
「でも、唯一メンタルが弱い」
「メンタル?」
おかやんは苦笑しながら志岐を見た。
「ランナーが出ると途端に制球が乱れる。味方がエラーでもしようものなら、必ず平常心を失って失点されてしまう。お前と正反対のタイプだな」
「まあ……この間まで中学生だったんだから精神的に弱い部分もあるだろう」
「お前も去年はそうだったじゃないか。でもお前はランナーがいる時ほど冷静だったし、味方がエラーしたら必ず三振をとってその回を終わらせた」
「そんないつも、うまくいかなかったよ」
「いや、お前がマウンドに立ってれば、絶対負けない気がした」
「負けたこともあっただろ?」
「今更だけどさ、やっぱり志岐って偉大だったなあって思ってる」
「はは……そっか……」
「みんなもそう思ってるよ。だからさ、また投げたくなったら来いよ。いつでもウエルカムだ」
「うん。ありがとう」
「それで?」
おかやんは一通り自分の気持ちを伝えると尋ねた。
「え?」
「なんかあったんだろ?」
「なんかって?」
「いや、なんかむしゃくしゃすることでもあったのかと思ってさ。お前ってストレスがあれば、投げて解消するって感じだったじゃん」
「……」
どうやらおかやんは今でもすべてお見通しらしい。
志岐は観念したように口を開いた。
「戦う相手があまりに大き過ぎて、ちょっとへこんでる」
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