第72話 最後のマウンド①
日曜日の朝、八時。
練習が始まる前と言っていたが、結局引退した三年生も含め、野球部全員が見に来ることになって、まるで本当の試合のように大勢に見守られながら、志岐君はマウンドに立った。
どうやら志岐君は夕日出さんが私の周りに現れ出した頃から、この勝負のことを考えていたらしく、夜中にグラウンドに来ては、月明かりの下で一人練習していたようだ。それで授業中に居眠りするぐらい疲れていたらしい。
この一週間はおかやんにキャッチャーをやってもらって放課後練習させてもらっていた。
野球部達は驚いたことにブルペンを使っても誰一人文句を言わなかったらしい。
今もヤジでも飛ばされるかと思ったが、全員がとても静かに二人の対決を見守っていた。
バックネット裏の特等席に立つ私にも、邪険にするどころか、むしろ進んで案内してくれた。夕日出さんの発言力は凄い。
だが、それだけではないようだった。
志岐君がウォーミングアップの球を投げ始めると、何人かはそっと涙まで拭っていた。あれほどいじめていたくせにと思ったが、その涙に嘘は感じられなかった。
夕日出さんがバッターボックスに入ると、今度はなんと社長が審判姿で現れた。
志岐君はその二人に帽子を取って、頭を下げた。
五百円ハゲではなく、柔らかな茶髪が風になびくのが不思議な感じだ。
この髪の長さが過ぎた月日を感じさせた。
長かったような、あっという間だったような日々。
ここにいる全員がそれぞれの思いで苦しんだ。
みんなが先に進むために、この対決は不可欠なものだったのだと、今になって実感してきた。
覚悟を決めたように志岐君が振りかぶる。
久しぶりのフォーム。
相変わらず完璧だ。
前と何一つ遜色のない動作。
この姿を目に焼き付けておこう。
指先から剛速球が放たれ、おかやんのミットにバスンといい音をたてて吸い込まれた。
「ストライークッ!」
社長が腕を振り上げ叫ぶ。
夕日出さんはミットを見てにやりと笑った。
きっと期待通りの球だったんだろう。
おかやんが返球して、2球目。
「ボールッ!」
少し外に外れた。
夕日出さんは、まだ動かない。
3球目、初めて夕日出さんのバットが弧を描いた。
バスンとボールはミットへ。
「ストライクッ!」
空振りだ。
4球目、ボール。
5球目、再び夕日出さんのバットが振り下ろされる。
キーンといういい音がした。
「ファール」
打球は大きく外にそれた。
6球目、7球目、8球目。
夕日出さんは感覚を掴むように志岐君のボールに食らいつき、ファールを放つ。
9球目、ボール。
カウント、ツースリーで、いよいよ10球目。
志岐君が限界と言っていた最後の球。
全員が固唾を呑んで見守る中でも、志岐君の表情は落ち着いている。
ゆっくりと、大きく振りかぶる。
そして、すべてを出し切るように大きくしなって、全身の力を指先から放つ!
きっと、今までで一番速い。
夕日出さんの胸元を抉る球。
少し高い。
夕日出さんは態勢を崩しながら、辛うじてバットに当てた。
「ファール」
見逃していたらフォアボールだった。
フォアボールで終わらせたくなかった。
夕日出さんの執念だ。
しかし次は11球目。
「まだ出来るのか?」
夕日出さんはマウンドに問いかけた。
「大丈夫です」
志岐君は肯いた。
そして、もう一度振りかぶった。
一瞬チリッと痛みが走ったような顔をしたが、そのまま腕を振り下ろす。
覚悟の一球は、しかし、夕日出さんのバットの真芯が捉え、カキーンと空高く跳ね返された。
フェンスを越え、場外へ。
ホームランだった。
志岐君はその打球を振り仰いで、最後まで見つめていた。
見学していた野球部の面々も、夕日出さんも、おかやんも、社長も、ただ、黙って打球を見つめていた。
静かな、静かなホームランだった。
静寂の中、志岐君はゆっくり帽子を取り、もう一度、深々と頭を下げた。
「ありがとうございましたっ!」
夕日出さんに、社長に、おかやんに、野球部のみんなに、そしてマウンドに感謝を込めて……。
あまりに美しく、そして悲しい光景。
私は必死に我慢していたが、絶対ダメだと自粛していたが、どうにもこうにも悪いクセが止まらなくて……。
「うあーんん。おーいおい、うあーん」
遠吠えの号泣をしてしまった。
うるさいと怒られるかと思ったが、意外にも私の号泣に勇気を得たのか、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。
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