第140話 行動する志岐

「丹下監督、このままイザベルをあの状態にしておいて大丈夫でしょうか? 一度休みを取って、正気に戻らせた方がいいと思うんですけど。あまり食事もとれてないみたいですし。事務所としてはちょっと体調が心配なんです」


 田崎マネはイザベルがどんどん殻にこもって、最近は業務報告もまともに聞いてない様子なのが心配だった。それでも不思議なことにセリフと演技だけはきちんと頭に入っているらしい。


 だがそれも……次第に……。


「最近は演技もアドリブが多すぎて、周りの俳優が合わせるのに苦労している。だがその鬼気迫ったアドリブの方が映像としての質は高い」


「それは私もそう思いますが、完全に自分を蘭子だと思いこんでしまってて、元に戻れるのかと不安になるんですけど……」


「軽い催眠術をかけている。ヒロイン降板でスケジュールに余裕がなかったから強硬手段をとらせてもらった。だが私もここまで深くかかるとは思ってなかった」


「や、やっぱりそうなんですね。でもそれって……」


「軽い術だ。本人が解こうと思えば簡単に解けるはずだ。解かないでいるのは彼女の意志だと思っている。私もこの作品に人生を賭けているんだよ。心配なのは分かるが、彼女の集中が続く間に、重要なシーンを全部撮ってしまうから、もう少しだけこのままフォローしてやってくれ」


「もう少しと言いますと……」


「先にラストシーンを撮ることにする。蘭子が敵グループにさらわれ、助けに来た翔を守るために致命傷を負い、自分の正体を明かして死ぬシーンだ。蘭子の最大の見せ場だ」


「ではそれを撮ったら一度休養をとらせて下さい」


「分かった。あと一週間で蘭子の主要シーンを全部撮り終えるよ」


 田崎マネは少しほっとして、部屋の隅で震えているイザベルの元に戻った。





「あの……大河原さん、良かったら一緒に下の喫茶店にランチを食べに行きませんか?」

 その日志岐は、朝から隣のスタジオまで顔を出して誘いに来た。


「おお、珍しいな。お前の方から誘いに来るなんて」


「良かったらイザベルも一緒に」


 イザベルは相変わらず大河原の後ろに隠れて様子を窺っている。


「どうする? 蘭子も一緒に行くか?」


「翔が……行くなら……」


 志岐はほっとした顔で微笑んだ。


「じゃあ空き時間が出来たら呼んで下さい。俺は次は夕方まで撮影が入ってないんで」


 そうして撮影の合間に三人でスタジオの下に併設されている喫茶店に入った。


「あの……朝頼んでおいたお粥を作ってもらえますか?」


 志岐は注文を取りに来たウエイトレスに、すでに話が通じているように頼んだ。


「何? お粥なんか食べるのか? お前のその筋肉質な体は、そんな食事じゃもたんだろう」


「いえ、イザベルに……。俺は別の物を注文します。ずいぶん痩せたみたいだから食べれてないんだろうと思って。体に優しい物から少しずつでも食べていけばいいかなと思うんです」


「ふーん。そこまでイザベルのことを考えてるのか。やっぱりお前ってイザベルのこと……」


 志岐もイザベルの食事については何とかしたいとずっと思っていたが、これは御子柴の助言のもとで強硬手段をとることにしたのだ。



『とにかく食べさせろ。痩せすぎだ。このままじゃ病気になる。いきなりの主役でナーバスになるのは俺も経験がある。あそこのスタジオの喫茶店は、頼めばいろいろ体調に合わせて作ってくれるから』


 業界でキャリアのある御子柴の助言は頼りになった。


 真っ先にきた特製お粥セットは、シンプルだが七草粥のように野菜も入って体に優しそうだった。


「イザベル、少しずつでいいから食べてみて」

 志岐はお粥をイザベルの前に差し出した。


 イザベルは戸惑ったように大河原の表情をうかがう。


「あの、大河原さんからも食べるように勧めてもらえませんか?」

 志岐に頼まれ、大河原も肯いた。


「蘭子、俺のためだと思って食べてくれ。お前が食べないと、俺が悲しいんだ」


「翔が……かなしい?」


「そう。だから頑張って食べて欲しい」


 イザベルはこくりと肯いてレンゲを持った。


 一さじすくってゆっくり口に運ぶ。

 そしてこくんと呑み込んだ。


 志岐はその様子を見て、ホッと安堵の息をもらした。


「お前さあ、なんでそんなにこいつのことを心配するわけ? そもそも夕日出の彼女だろ? あ、この間振られてたんだっけか。それに御子柴もなんでこいつの心配してんだよ」


「それは……二人のことは知りませんが、俺は……。少なくとも今の俺があるのは彼女がいたから……。彼女が何の見返りもなく俺を救おうとしてくれたから。だから、俺も彼女が困ってるなら全力で助けたい。浮気とかそんなんじゃないです。俺は彼女に見返りを期待するつもりはありません。ただ、俺に出来ることがあるなら、俺の何を犠牲にしても助けたい」


 おとなしくお粥をすすっていたイザベルの手が止まった。

 視線はうつろなまま空間を漂っている。


 でも……。


 でも……つうっと……。


 その青い瞳から涙がこぼれた。



「イザベル?」


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