第10話 志岐君という人
長年志岐君を見てきた私だが、半径
それが、おかやんの取ってきたバリカンで髪を整えるという、あまりに畏れ多い恩恵を授かっていた。
緊張はしない。なぜなら、緊張というのは自分を良くみせようと思うからするのであって、一方的な美しさに心酔する者にはする必要のないものだ。
美しい宝石を見て、緊張で言葉を噛む人などいない。
手が震えているとすれば、ただその美しさに感動して震えているのだ。
髪の生え際すらも芸術の領域だった。なるべく長さを残したかったが、一番短い長さに揃えると、丸刈りにするしかなかった。
柔らかい茶色の毛がはらはらと落ちるのを、私は涙を呑んで耐えた。
「それにしてもみんなひど過ぎるよね。社長に言うべきだと思うよ」
「無駄だよ。無理言って置いてもらってるんだ。我慢出来ないなら退学するしかない」
「そんな! じゃあ親に言って……」
「これ以上心配かけたくない。……おやじも俺の野球には期待してたから」
志岐君は感情の見えない顔で言って、くるりと五百円ハゲをギプスから出た指で撫ぜた。この五百円ハゲに無頓着なのは父子家庭のせいもあるだろう。
母親がいれば、もう少し外見に気を使うはずだ。
「先輩だけじゃなく一年の野球部にも気をつけなよ、志岐。みんなお前が入学するならと、この学園に来たやつらばかりだからな」
おかやんがぽそりと呟いた。
「何よ、そんなの勝手に志岐君に期待かけて自分で決めた事じゃない! 知らないわよ」
「それはみんな分かってるんだよ。でも、志岐は僕達の夢だったんだ。僕だってレギュラーになって志岐のボールを受けるのが夢だったんだ……」
寂しげに
「おかやんっ! あんたまで志岐君を責めるつもりなのっ!」
「せ、責めるつもりなんてないよ。ただ、みんなの気持ちも分からない訳じゃないって言ってるんだよ」
「なによっ! おかやんまで! 志岐君の気持ちも知らないで……うう……っく」
私は決して泣くまいと下唇を噛んで耐えたつもりだったが、決意のダムは呆気なく決壊して、どうと鉄砲水のような涙が溢れた。
私は昔からどうにも涙腺が弱く、嬉しくても悲しくても、すぐに泣いてしまう。
志岐君のポーカーフェイスと正反対だった。
およそ可愛く泣いて自分が好かれようなどという発想のない私は、うおおおおんと獣の遠吠えのように泣きじゃくってしまった。
驚いたのは志岐君だった。
そもそも突然現れて、やけに自分の事情に通じている女子に不審を浮かべている。
「あの……まねちゃん。俺の事を心配してくれるのは嬉しいけど、そんなに泣かなくても。まねちゃんは関係ないんだから」
「関係あるのよっ!!」
言い返されて志岐君は首を傾げる。
「全部私のせいなの! 私が野球なんてやめればいいのにって願ったから……」
「え? どういうこと?」
志岐君は私がそう願ったいきさつを聞いて、ははっと笑った。
「そんな事気にしてたんだ? その願いが叶ったわけじゃないよ」
「でも、私ってここぞって時の願望実現の念力があるみたいなの」
「他にも叶った事があるの?」
おかやんが興味を引かれて話に入ってきた。
「例えば、中学の応援団は志岐君と同じ組がいいと願ったら、毎年同じ組だったわ」
クラスは同じになった事はないが。
「それから、志岐君がこの学園に入るって知って、どうしても同じ学校に行きたいって願ったら、陸上で声をかけてもらえたの」
社長の好きな長距離には転向したが。
「それから修学旅行は志岐君のバスと同じがいいと思ったら、私のクラスは振り分けられて、同じバスに乗れたの」
少しばかり強引な根回しはしたが……。
「まねちゃん、なんか怖いよ……」
どん引きしているおかやんに気付いて、私はしまったと志岐君を見た。
これでは凶悪ストーカーも顔負けだ。
「まねちゃんって中学同じだっけ?」
「ええ。小学校も」
志岐君はくるりと五百円ハゲを撫ぜる。
「あの、さっきからそのハゲをくるんと撫ぜるのは何か意味があるの?」
「ああ。これは精神安定剤みたいなものなんだ。試合で集中する時も落ち着くんだ」
なるほど。
トンチを働かす一休さんと同じ作用があったのか……。
そうやっていつも撫ぜるせいで十円が五百円になり、ハゲ続けていたのだ。
ん? ……てことは?
今、目の前でくるんくるんと撫ぜ続けているのは、私のストーカー行為に平常心を保てないほどに動揺しているという事か?
あああ……。
終わった……。
ファンたるもの、ストーカーの疑いを持たれた段階で早急に身を引くべきだ。
スターを不安にさせるなんて、ファンとしてもっともあってはならない禁忌なのだから……。
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