第143話 目覚めた真音

「田崎マネ?」


「ああ、良かった。目が覚めた? そろそろ撮影に戻らないと……と思ってたところだったの。どう? 体の調子は?」


「はい。なんだか久しぶりに頭に栄養が回ったような……ちょっとすっきりした気分です」


「ホントだわ。受け答えも久しぶりにしっかりしてるし。点滴したのが良かったのね」


「それに……とても温かな腕に包まれていたような……。ひどく心が安らいだ気分です」


「ああ。志岐くんがここまで運んでくれたのよ。それに彼が点滴した方がいいって言ってくれたの」


「志岐……くん……」


 その名を聞いただけで押し寄せる感情の渦を必死で振り払う。


「次のシーンはいよいよ翔が蘭子を助けに来て、それを庇う蘭子が死ぬシーンよ。そこさえ演じきれば、後はアップになるシーンもないから」


「蘭子が死ぬシーン……。あれ? 出来るかな? 頭のもやが晴れて、どうやって演じていたのか分からなくなってきました」


「ええ!? ちょっと大丈夫? ここからが一番重要なシーンなのよ? しっかりしてよ」



 そして案の定……。


「おい! どうしたんだ! その下手くそな演技は! さっきまでの蘭子はどこへ行ったんだ!」


「す、すみません」


「あー、もうやめやめ。今日は蘭子のシーンはここまでにしよう。他のシーンを撮りましょう、監督」


「……」


 丹下監督はしばらく考え込んでから「蘭子!」と私を呼んだ。


「は、はいっ!」

 まさかまた五円玉を見せられるのかと思っていたが、今回は何もなかった。


「どうやら私の術は解けてしまったようだな」


「じ、術……」

 やはり妙な術にかかっていたのだ。


「もう一度同じように催眠術をかけることはもちろん出来る。でもそれはお前の本当の実力ではない。ただ術に踊らされているだけのあやつり人形だ」


「あやつり人形……?」


 丹下監督は肯いて私を見つめた。


「お前は私のあやつり人形になりたいのか? それとも演技者になりたいのか?」


「そ、それはもちろん演技者に……」


「ならば自分の意志で蘭子になりきれ! 頭の中に蘭子の記憶はあるはずだぞ? お前は間違いなく蘭子になりきって演じてたんだ。それを思い出して自分のものにしてみろ」


「蘭子を私のものに……?」


「私はド素人の俳優にはたまに催眠術をかけて役になりきるイメージを持たせることにしている。今回ほど強硬にではないが、一時いっときの体験として感じてもらう手段としてだ。しかし、もちろんそれは実力ではない」


「……はい」


 そうだ。私は監督のあやつり人形になって踊っていただけだ。

 自分では何一つ掴んだ実感はない。


「今回は長く催眠状態の撮影を続けてしまったが、私はあやつり人形を作るつもりはない。ここからは君のこれまでの記憶を元に自分で蘭子をイメージして演じてみろ」


「で、でも……自信がありません……」


「これは私の今までの経験から感じることだが、催眠や洗脳に深く入り込む者は、演者としてのセンスがいい。君はその意味ではピカ一の才能を持っている」


「さ、才能? 私に?」


「少し自分の才能を信じて成りきってみないか? 蘭子に」


「蘭子に成りきる……」


「ここからのクライマックスは君本人の意志で蘭子に成りきって演じてみろ」



 私は監督に言われたことを反芻はんすうしながらぼんやりとパイプ椅子に座っていた。


(自分の意志で蘭子に成りきる……)


 確かに監督に言われたように蘭子に成りきっていた時の記憶は残っている。

 本当に翔しか信じられなくて男の人が怖かった。


 うつろな目、囁くような話し方、おびえた表情。

 それらは確かに体が記憶している。


 出来るような気がする。


 でも……。



「おい、蘭子! 今日は俺に付き纏わないじゃん。どうしたんだよ?」


(大河原さん……)


「こっちに来いよ。隣に座っていいぞ」

「いえ……結構です」



「ん?」

 


「俺ちょっとトイレ行くけど……」

「どうぞご勝手に……」



「え?」

  


「蘭子、頭なぜなぜしてやるからおいで」

「なに言ってんですか、気持ち悪い」



「あれ?」



 すっかり正気に戻った私は、もう蘭子の気持ちとはほど遠かった。



 田崎マネが首を傾げながらスタジオに入ってきた。


「大河原くんどうしたのかしら? 廊下で落ち込んでたけど……」


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