第五章 映画 乱闘ボーイズ編
第128話 乱闘ボーイズ 撮影
「こういう業界の仕事は最初の挨拶が大切ですからね。礼儀正しい身なり……は無理だから、せめて姿勢と言葉遣いはきちんとね」
「はい」
『乱闘ボーイズ』の撮影に……ゆうべ言われて今朝から参加することになった。
つけられたマネージャーは、以前寮のタレント部屋を案内してくれた
メイクは石田さんがポップギャルからの派遣という形で、出来る限り協力してくれる。基本のメイクは石田さんがしてくれて、映画の撮影時には助手の人がメイク直しに付き添ってくれるらしい。今日は初日なので石田さんと助手の二人がついてくれて、まるで大女優のようだった。
「改めましてユメミプロ、イザベルです。事務所も全力でバックアップしますので、よろしくお願い致します」
「よ、よろしくお願いします!」
田崎マネと一緒に監督から順に挨拶に回る。
「おお。待ってたよ。ヒロインの降板で、君の出番だけ撮り直しがたくさんある。今日からしばらく忙しいと思うけど頑張ってね」
「はい」
丹下監督は見た目は、剛田監督と違って紳士な雰囲気だ。
アクションの
映画には監督、助監督の他にも、大勢のスタッフが関わっていて挨拶回りだけで朝の時間が潰れた。渡されたばかりの台本をチェックする暇もなかった。
結局すでに顔見知りの主役、大河原さんへの挨拶は最後になってしまった。
「イザベルってユメミプロだったんだ。え? もしかして夢見学園の生徒?」
「そ、それは……」
大河原さんには私が
事務所的にもポップギャル的にも、それは好都合らしく私は架空のイザベルという人物になりきることになった。しかし、細かな設定までは決めていない。
「イザベルは学校には行ってません」
田崎マネが素早くフォローしてくれた。
「そうなんだ。まあその服装とメイクじゃ学校には行けないか」
大河原さんは、あっさり納得してくれた。
「しかし、この間の回し蹴りには痺れたよ。監督も言ってたけど、いい作品になりそうな予感がする。絶対すげえ映画にしような!」
いつもは暑苦し過ぎる大河原さんの熱意が、なんだか心地よかった。
大勢のスタッフを動かしているプレッシャーもあるが、それ以上にやり甲斐のようなものが
こんな気持ちは久しぶりかもしれない。
……と思っていたが……。
「おい! 大根!! なんだそのセリフは!! 棒読みもたいがいにしろよ!!」
撮影が始まって、ものの数分で、私のあだ名は大根になった。
期待はずれのため息があちこちから洩れている。
仮面ヒーローの子供番組ではごまかせる棒読みも、映画の大画面では耐えられないほどの大根役者らしい。
「まじかよ。経験浅いとは思ってたけど、ここまで下手くそとは思わなかった」
大河原さんが頭を抱えている。
「それでなくともヒロインの出番だけ撮り遅れてるってのに勘弁してよ」
「す、すみません……」
「じゃあもう一回最初から。ここは主人公、
「は、はい……」
もちろん私は全力でなりきっているのだが、そう見えないところがすでに大根なのだ。
敵対する二つの不良グループの乱闘シーンから始まる物語は、大河原さん演じる主人公、翔がボロボロに殴られて地面に転がっているところからスタートする。
イザベル演じる
「バカじゃないの? 殴り合って何が楽しいのかしら。ほんと、男ってバカ」
パラソル片手に(マダム・ロココに無理矢理持たされた)ゴスロリ服で颯爽と現れ、翔の怪我を手際よく手当てする。
「なんだよ、お前は! ほっといてくれ!」
迷惑そうに蘭子のハンカチを振り払う翔。
「いいから見せて。ほら、ばい菌が入ると大変なことになるわよ」
元アスリートとしては怪我人の手当ては慣れている。
よく出来た特殊メイクだ。
つい本気で手当てしたくなって消毒スプレーを探してしまう。
最悪の場合、
いや、待て私。
これは映画のワンシーン。
大河原さんの傷メイクに唾を吹きかけるわけにはいくまい。
危なかった。
「はい、カーット、カーット!!」
二人のシーンはまだ続くはずだったのに中断されてしまった。
唾をかけるのは思い留まったのに何故?
スタッフを見回すと、全員頭を抱えて考え込んでいる。
目の前の大河原さんも痛々しいメイクのまま頭を抱えていた。
「あの……私、ちゃんと噛まずに言えましたよね? 唾も吹きかけなかったし、完璧だったはずでは……」
「唾? いや、セリフを噛まずに言うなんて当たり前だろ。そうじゃなくて、なんというか……」
「君のそのお節介な看護婦のおばちゃん
「しかも
滑舌が良くて何が悪いんだ!
聞き取れなかったら困るじゃないか。
「色気がかけらもない」
「どこが謎の美少女なんだ」
スタッフからダメ出しの嵐が巻き起こった。
「しかも蘭子は悲しい過去を持つ薄幸な少女の設定なのに、その
失礼な。
私だって悩みの一つや二つぐらいあるのに。
だいたい
いや……。
蘭子は健やかであってはいけないのか……。
「す、すみません」
「あー、もう今日は別のシーンを撮りましょう、監督。君、明日までにもっと役を作りこんできてよ」
助監督が丹下監督の顔色を
「……」
丹下監督はしばらく無言で考えていたが、やがて納得するように肯いた。
そして告げた。
「明日までにこの子が役を作りこめるとは思えないな」
「!」
まさか早くも降板?
スタッフ全員がお互いに顔を見合わせて動揺している。
「脚本家に連絡してくれ。蘭子のセリフを極限まで減らそう」
とりあえず降板ではなかったようだ。
「そして君!」
監督は、紳士的だが凍るように冷たい視線を私に向けた。
「今から自分が幸せと思うことをすべて封印しろ。肉を食べることが好きなら、肉は一切食べるな。ゲームが好きなら、撮影終了までゲーム禁止だ。一番好きなものを封印しろ。そして笑うな、喜ぶな、幸せを感じるな」
丹下監督は剛田監督より温厚に見えて、もっとストイックに非情な人だった。
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