第145話 志岐きゅん

(志岐きゅんんんん?!!!)



 覚醒した私にはあまりに眩しい姿。


 かがんでペットボトルを取る姿も、おつりを取る仕草も、すべてが完璧な導線で動いている。

 お金を入れてボタンを押す姿も見たかったと、目をつむっていたことを悔やんだ。


 垣間見る障害物のない今は、そっとうつむき加減のまま薄目を開けて見るしかない。


(き、気が付いてないのかな?)


 いや、しかしこんなド派手なゴスロリ女が座ってたら、遠目にも気付くはずだけど。


(どうしよう、声をかけられたら……)


 私はこの脳内ドーパミン暴動に屈して、志岐くんの胸にダイブしてしまいそうな気がする。


 必死で顔を上げないように俯く。


 志岐くんは小銭を財布にしまうと、自販機に背を向けたようだ。


(え? 行ってしまうの?)


 それはそれで淋しい。

 せっかく会えたのに一言もしゃべらず行ってしまうなんて。


(行かないで)


 いや、でも声をかけられたら胸ダイブしてしまうかもしれないし……。


(やっぱり黙って立ち去って)


 脳内は過剰なドーパミンの働きで、収拾しゅうしゅうがつかなくなっている。


 志岐くんは黙ったままペットボトルのフタを開けて自販機の前で一口飲んだ。


(こ、ここで飲んで行くのかな……)


 そっと薄目を開けて様子を窺う。


 そこには『ペットボトルの飲み物を飲む時の正しい姿勢』読本とくほんの巻頭グラビアを飾るだろう志岐くんが立っていた。


(志岐きゅんん!)


 危うく脳内ドーパミンに負けそうになった私は、慌てて目を伏せた。



「怖がらないで」


(え?)


 突然発した志岐くんの言葉に俯いたまま目を見開いた。


「これ以上近付かないから、怖がらないで」

 

 はっと、私は自分の記憶を思い出した。

 そういえば蘭子の私は、この麗しい志岐くんさえも敵だと思っていたのだ。

 そして、そういえば怖いとか、そんなことを言ったような気がする。


(もしかして、まだ蘭子に洗脳されたままだと思ってる?)


「体調はどう? もし……もし何か困ってるなら何でも力になるから……。俺、イザベルを傷付けたりしないから……」



「……」



 ダメだ……。


 脳内ドーパミンだけじゃない。


 心が揺さぶられる。


 涙が溢れそうになる。



 どうしていつもこの人は、一番欲しい手を差し伸べてくれるんだろうか。

 甘えちゃダメだと思うのに、望んじゃダメだと思うのに……。

 心はいつも当然のように志岐くんに流れ着いてしまう。


「じゃあ……もう行くから……」


 何も答えない私に、諦めたように言うと立ち去ろうとした。


「……か……いで……」


 ダメだ。

 気持ちが抑えられない。


「え?」

 志岐くんは驚いて振り向いた。


「行かないで……」


 すがるように見上げてしまった。


「……イザベル……?」


「もう少しだけ……そばにいて……」


 言ってしまった……。

 止められなかった。


 志岐くんは驚いた顔で私を見下ろしている。


「俺が……ちゃんと分かるの?」


 私はこくりと肯いた。


「そ、そうか……」


 志岐くんは真っ赤になった顔を隠すように右手を口に当てて目をそらした。

 勘違いしていたことが照れくさいようだ。


「昨日……、診療所に運んでくれたみたいで……ありがとう……」


「い、いや……。気にしないで……」


 更に顔が赤くなったような気がする。

 必死にポーカーフェイスに戻そうとする仕草がなんか可愛い。


(志岐きゅんん……)


 またしても脳内ドーパミンが追加暴動を起こそうとしている。


「と、隣に座っても大丈夫?」

「うん」


 私は少し端に寄ってスペースを空けた。



 志岐くんはポーカーフェイスに戻すため、私は脳内のドーパミンの発動を抑えるため、しばし沈黙の時間が過ぎた。


「撮影は……順調に進んでる?」

 先に口を開いたのは志岐くんだった。


「それが……私が正気に戻ってしまったから……うまく演じることが出来なくて。中断させてばっかりで……みんなに迷惑をかけてます」


「そうか……」


「どうしても蘭子の気持ちになれなくて……。喧嘩に明け暮れる人達にも、そんな翔に執着して命まで捨てようとする蘭子にも、共感出来ないんです」


「共感か……難しいね」


「だって実際にいませんよね。昔ちょっと優しくしてもらったからって、ずっと想い続けて命まで犠牲にしようとする人なんて」


「それを言うなら俺の出てる『兄をたずねて三千里』もたいがいありえない話だけどね。当たり前のありふれたストーリーじゃ面白くないから、ありえないような設定になってしまうのは、仕方がないのかもしれない」


「生き別れの兄を探して小学生の妹が旅をするんでしたっけ?」

 確かにありえない話だ。


「俺なんか妹が命懸けで会いたいと探す憧れの兄だよ。俺は命懸けで探されるような人間じゃないよ」


 いえ、志岐くんなら、私は命懸けで探します。

 憧れる妹の気持ちならよく分かります。


「ありえないストーリーをどれだけ視聴者に信憑性を持たせて共感させることが出来るか。演じるとは、結局それがすべてなのかもしれない」


「ありえないストーリーに信憑性を……」


「良かったら俺のドラマの現場を見ていく? 琴美ちゃんが妹役だけど、見事に演じきってるよ」


「琴美ちゃん……」

 そういえば小学生とも思えない演技をしていた。


「はい。見に行ってもいいですか?」


 私は隣のスタジオに見学に行ってみることにした。



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