第366話 向かうところに敵は無く
コンコンコン、とナラの木をノックする音が大気を震わす。
オーク材とも呼ばれる材木は、戦場に多く持ち込まれてこうして建材として活用されている。
一般兵はほとんどがテントで寝泊まりするのに対して、彼の宿舎は木造の平屋だった。
コートランド川での激戦に敗北し、数十キロ後退してはいても、指揮官連中は寝床にこだわりが強いらしい。
負けた後なのだし、またすぐに移動するのだから全員テントを使えばいいのに、アラタならそう言いだす事請け合いだ。
コンコンコン。
もう一度ノックする。
それでも反応はない。
「ウォーカー様、参謀部のテラです。失礼いたします」
ドアノブを回し入室すると、何とも言えない良い匂いが脳を刺激する。
アロマでも、香水でもなく、もちろん石鹸でもない。
それが本当に嗅覚に影響を及ぼす類の物質なのかすら分からない。
ただ、ここ数日テラがディラン・ウォーカーと接していて分かったことがある。
彼はイケメン特有の、あのどこから発せられるのか分からないフェロモンの持ち主だという事だ。
生活習慣に気を付けるなど、後天的な努力で人間はある程度清潔感を獲得することが出来る。
しかしディランのそれは、後付けの努力では決して得られない領域のそれなのだ。
なぜテラにそんなことが分かるのか? 分かるものは分かるのだ。
とにかく、ある種神秘的な雰囲気を纏わせながら、男はベッドの上に転がっていた。
いつも通り全裸で。
「ウォーカー様、司令部で皆様がお待ちです」
そう言って揺り動かしてもまるで反応がない。
精巧な人形か、もう死んでいるのかとも思えてくるほどの無反応。
それでも自発呼吸はしっかりとしていて、脈も、体温も感じられる。
ただ寝こけているだけなのだ。
テラはさっきより少し強めに彼の身体を揺らした。
「ウォーカー様! 朝です! 起きてください!」
まだ反応がない。
「ゥゥゥウォォォォォォオオオクァァァァァアアアアアアアア様ぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」
「………………おはよ」
「司令部で皆様がお待ちです。お急ぎください」
ようやっと目を覚ました彼は、ゆっくりとベッドから起き上がると、眠そうに薄目を空けている。
昨日は10時に寝たというのに、もう朝の9時だ。
「テラ君はさ、少し刺激に欠けるよね」
「はい?」
「いや、ね。僕も命の危険が迫れば跳ね起きるだろうけど、君は少々無害すぎる。こちらの危機察知能力が働かないんだ」
「言い訳してないで急いでください。フェンリル様がお怒りです」
「あー……それはまずいね。まあいつものことだけど」
ディランは服を着ると、台座に掛けてあった剣を手にした。
見るからに高そうな、金細工のあしらわれた宝剣。
それを腰のベルトに吊り下げると、ようやく男は宿舎から出てきた。
「遅い!」
「いやーごめんごめん。そこのテラ君があまりにも人畜無害すぎるからね」
「いいから皆に謝んなさいよ! ほら! 司令部の皆さま、この馬鹿が本当にすいません、以後気を付けさせますのでどうか……ほら!」
「あはは、みんなごめんね。仕事は頑張るから見逃して♡」
ディラン・ウォーカーの隣で平謝りしているアリソン・フェンリルの殺気が臨界点に到達しようとしているというのに、彼はどこ吹く風といった有様。
彼女の反対側に控えているモルトク達は戦々恐々、気が気でない。
彼女が癇癪を起して暴れ出せば、この司令部ごと吹き飛びかねない。
そんな時唯一止められるとするならば、このへらへらした男以外いないわけで、奇妙なパワーバランスだ。
「ウォーカー殿、別に気にすることは無い。作戦開始時刻までかなりあるのにご足労願っているのはこちらの方だ」
「いえいえお気になさらず」
「あんたは少し気にすんのよ!」
「お嬢おちついて」
アリソンが呻っている間にも、司令部勤務の将校たちによる作戦確認が進められていく。
「ま、作戦というほどの物でもありませんけどね」
自嘲気味にエヴァラトルコヴィッチ中将はそう言うと、兵士5千人分の駒を南北に広く展開した。
敵対する公国軍から見ると、横1列に見えている。
そのさらに先を行くのは、特注された非常に精緻な造形をしている騎士の駒だ。
両刃の剣を体の前で構えていて、その躍動感と堂々とした佇まいはそんじょそこらの職人に作り出せる代物ではない。
まあ、この場合駒なんて石ころでも何でも構わないわけで、話を前に進めていく。
「10時30分、宮廷武官殿らが敵地に侵入、河川敷の守備隊を無効化したのちに、防御の要衝3カ所を破壊、そのうしろを横陣ですり潰す」
「こんな感じで満足ですか?」
「えぇ、申し分ない」
「しかし…………」
宮廷武官の人数はたった2人、付き従う騎士団も10名に満たない。
エヴァラトルコヴィッチら司令部の不安も尤もなものだ。
だが、問題ないとディランは言う。
そして不思議なことに、彼がそう言うと本当に問題なさそうな気がしてくる。
「僕についてくると良い。そうすれば向かうところ敵なしだ」
ディラン・ウォーカーはニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。
※※※※※※※※※※※※※※※
「多いなぁ」
河川敷に到達するなり、ディランは弱音を吐いた。
ここに至るまでに、すでに公国軍の見張りや偵察をかなりの人数殺害しているというのに、彼は至って通常運転だ。
「ねえモルトク」
「何ですかお嬢」
「私川渡りたくない」
「何でですか? お嬢空飛べるでしょ」
「臭いが嫌」
「我儘言わないでくださいよ。ほら、嫌なら鼻クリップ用意しましたから」
「それも嫌、滑稽だわ」
「じゃあ香水でも嗅いでいてください。ほら」
モルトクは荷物の中から彼女の私物を取り出して手渡した。
アリソン的に、勝手に荷物を漁られるのは問題ないらしい。
「……なによ」
その隣で不思議そうな顔をして見つめている好青年が1人。
「いや、過保護だなって」
「あんたに言われたくないわ」
「て言うかさ」
ディランの服には少量の返り血がついていて、今も飲み水を使ってまで顔に付いた分を洗い流している。
「
「遅刻した罰」
「まあいいけど」
水で濡らしたハンカチで血を拭い終えると、いよいよ予定時刻となる。
「じゃあみんな、行こうか」
今日、一つの戦場が終わる。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ほ、報告! 敵襲です!」
「規模は?」
「およそ20です!」
「ほぅ…………」
コートランド川に沿うように陣を敷く公国軍第2、第3師団の初動は完全に出遅れた。
川向こうまで獲得域を広げて、それに応じた探索網を構築していた公国軍だったが、ここまで虚を突かれるのは想定外だ。
しかしそれも敵の20名という情報のインパクトに掻き消されてしまう。
なるほど、軍として突破させることは出来ないから選りすぐりを出してきたのだと。
「河川敷で殲滅しろ。物量は惜しむな」
「はっ」
緩やかに戦闘状態に移行していく中で、アイザック・アボット大将をはじめとした司令部の人間はそこまで焦りや緊張を感じてなかった。
先の戦いであれほどの状況を御し切ったのだから、ちょっとやそっとのことでこの軍は崩れない。
そう思っていた。
「急報! 河川敷突破されました!」
「なにっ!?」
「報告! 敵軍5千が出現! 渡河を開始しています!」
「向こう側の見張りは何をしていた!」
「それは……とにかく! ご指示を!」
「……全軍、総出撃の用意をさせろ」
何かが迫ってくる。
何かがおかしい。
そんな漠然とした不安感が、軍全体に伝播するのは時間の問題だった。
「これは……閣下、まずいですぞ」
第2師団長、マイケル・ガルシア中将の顔には青い縦線が入って見えた。
血の気を失っている。
それも、この悪夢のような光景を目にすれば仕方がない。
河川敷が突破されたというのは、誤報でも誇大報告でも何でもなかった。
「遠くから矢を射かけろ! 味方に当たってもだ!」
「圧し殺せ! 圧殺しろ!」
「味方ごとでいい! やれ! とにかく傷を与えろ!」
「ダメだよ、仲間は大切にしなきゃ」
絶望の宝剣が無限の斬撃を刻み込む。
一振りで全員を殺すような、そんな都合の良い剣ではない。
殺傷能力の高い魔術を行使しているわけではない。
ただ、彼が一度剣を振れば、同じく一つの命が散る。
驚くほど簡単に、自然に、違和感なく、まるで初めからそうなることが運命付けられていたかのように。
生身で受ければ助からない。
防具の上からでもお構いなし。
剣で防ごうにも、剣が折れる。
槍で、盾で防いだつもりでも、まるごと斬り裂かれる。
距離を取って矢を、魔術を撃っても当たらない。
足運びが尋常ではない。
【身体強化】を使用しなければその動きを目で追う事すらままならぬほど、細かく機敏で俊敏な足運び。
絶望を運搬する宅配業者だ。
そんな中で、当の本人は非常につまらなそうにしている。
無表情なのではなく、あからさまに退屈している。
理由は何となく察しが付くが、この乱戦で自分の周りほぼ全員が敵だというのにそんな顔を出来るのは、世界広しと言えども数えるほどしかいないはず。
——退屈だ。
向かうところ敵なし、まあ好きな言葉だけど、実際にやってみるとつまらない、実に退屈で憂鬱だ。
ほらほら、隙を作ってあげたよ……ダメだ気づいていない。
奥の彼も、怯えてないで剣を投げるくらいすればいいのに。
あーあ、全然ダメ、射撃に意志が籠ってない。
こう、もっと燃えるような情熱と、凍り付きそうな殺意を両立できる人はいないものかな。
君も違う、君も、そこの彼も、彼女も、君も、お前も、貴方も、全部だめ。
——退屈だ。
ウル帝国宮廷武官、ディラン・ウォーカーの第十五次帝国戦役における戦果は定かではない。
一人殺して喜ぶような戦果の規模感ではないし、仕留めた獲物のことを逐一記憶・記録しておくような性格の人間ではない。
公国軍の最大数が2万なのに数千人を殺害したという説もあれば、数十人を斬っただけで残りはアリソン・フェンリルの大規模魔術による死者だという説もある。
答えは出ないし、確認のしようがない。
ただ、彼はひたすらに退屈していた。
そして退屈ついでに、公国軍1万4千を葬り去った。
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