第321話 鷲の眼
仮面を着けていると、酷く蒸れる。
アラタ、キィ、リャンら元八咫烏のメンバーはそう思った。
マスクの中は蒸されている状態で、大粒の汗は重力に逆らいきれずに顔面を撫でていく。
はっきり言って、非常に不快だ。
任務のためだ、仕方がないと心の中で言い聞かせつつ、一行は歩いていく。
八番砦を出て川を渡り、十一番砦の右側を通過していく。
敵軍の監視が目を光らせている可能性は大いにあったが、よほどの手練れでもない限り黒装束を起動した精鋭部隊を捕捉することは出来ない。
大公選の以前から、カナン公国の暗部で蠢いていた特殊配達課の生命線。
そうやすやすと攻略されるような技術ではない。
一行はほとんど言葉を交わすことなく帝国軍の方へと向かっていく。
絵面としては地味な事この上なくても、必要以上の会話はご法度。
簡単な情報のやり取りはハンドサインで行う。
出陣してから約1週間が経過して、隊員全員が一通りサインを把握した。
だから軽い雑談というかコミュニケーションなら言葉を発することなく交わすことが出来る。
だが、流石に警戒し過ぎだ。
——話しても?
「……まあいいか」
アラタが口を開いたところで、一斉に話始めた。
彼が軽く咳ばらいをしたことで多少ボリュームは絞られたが、喋ること自体を辞めようとはしない。
「結構しんどいな」
「ですね」
「まだ10km以上先だし、用心するにもほどがある」
口々にまだ早かったと口にする。
アラタも流石に締め付けすぎたかと反省したが、当初の判断が間違っていたとも思っていなかった。
先日の一件のように、敵方もカナン公国軍側に偵察や監視の目を送り込んでいるはずで、それらはこちらが気付かないうちにかなり近くまで接近していることが想定される。
そう言った連中に見つかっているようでは、はなからこの作戦は破綻してしまう。
命を取るか快適さを取るか、初めからつり合いの取れていない2択問題だ。
ここで快適さを取って安全管理を怠るようなら、彼らは早々に全滅するだろう。
「小隊長殿」
第5分隊のエリックが近づいてきた。
「なに?」
「本当に徒歩で良かったのでしょうか」
「良かったも何も、馬じゃ簡単にバレて潜入できない」
「それはそうですが……」
「逃げるときの話か?」
「そうです」
「そうだなあ」
いくらスキルのある世界と言えど、人間の速力と体力には限界がある。
それに【身体強化】を第1192小隊が全員もれなく会得しているわけではない。
むしろそのスキルを保持している方がマイノリティだ。
そんな中、敵に見つかり騎馬で追跡を受けたらどうなるのか。
まあ想像する必要すらないだろう。
そんな想定の中で、アラタはあえて徒歩を選んだ。
まあ彼の中ではあえてというほどの理由ではない。
「行方不明になった斥候たちもさ、馬には乗っていたわけだ」
「そう聞いています」
「じゃあさ、馬の脚で千切れない追跡部隊がいたとか、そもそも馬に乗る前に殺されたとか、そう言うことになるわけだ」
「確かに」
「馬、要らなくね?」
「…………小隊長殿のおっしゃるとおりかと」
「エリックの言いたいことは分かるよ? もう少し先まで馬で走って、そっから徒歩でいいじゃんってことでしょ?」
「そうですね」
「それじゃ多分バレて終わりだ。俺たちが到着するころにはしっかりばっちり敵が包囲を完成させて待っている」
「考えが足りませんでした」
エリックはアラタに頭を下げた。
彼も傭兵とは言え一応クラーク家に深いかかわりのある人間、格式はアラタよりも高かった。
しかし、クラーク家はその格式とは裏腹にそう言ったことを誇示することを嫌う風潮がある。
そんなマインドは使用人レベルにまで共有されていた。
「まあ黒鎧にも慣れてないしな。これ結構すごいから、まあ色々試してみてよ」
そう言いながらアラタは仮面を取り、裏側にびっしりついた汗を拭った。
もう9月の中旬に差し掛かろうという時期でも、日中は非常に暑い。
黒い服を着て外を出歩くなんて論外である。
黒装束を仕立ててもらう際に、アラタは色の注文を付けられるのか聞いたことがある。
メイソン、ドレイクの答えは共にNO、今の技術では出来ないとの事だった。
確かに何らかの塗料をぶっかければ出来なくもないが、それでは意味がない。
洗髪するように染めるような仕組みでないと、必要以上に黒装束が重くなって実戦能力に問題が出てくる。
カラーリングよりも性能が大事。
いかにも特殊配達課や八咫烏のような考え方だった。
一般的に、人の歩行速度は時速4km/h程度と言われている。
ただしこの基準は世代や性別、人種や職業別クラスタに分割すると簡単に上下することは考えるまでもない。
第1192小隊の集団的歩行速度は、時速7km/h前後だった。
つまり敵軍が陣を構えているとされている地点までおよそ2時間。
悠々と帰還できるという前提条件で言えば、帰りにも同じ時間がかかる。
彼らが八番砦を出てからおよそ2時間と少し。
ついに敵の陣容が明らかになろうとしていた。
「……分かんねえなあ」
第2分隊のエルモはそう漏らした。
確かに、分からないのだ。
少し脇道にずれて林の中から敵軍の様子を窺うと、なるほど確かに敵軍は広々とした平野に陣を張っている。
2万以上いてもおかしくないし、逆にそれより少ないと言われてもまあ分かる。
正面からだけの偵察では限界があった。
「山に入るかぁ」
「絶対敵の警備がありますよ」
「じゃあどうすんだよ」
「誰か転移術式とか強めの感知能力とか持っている人はいないんですか?」
「無理ですよ。感知能力があっても軍隊規模の人間が集まっていたら脳が焼き切れてしまいます」
「あぁもうお前らうるさい。一回黙れ」
アラタが一喝したことで隊員たちは静まり返る。
議論が白熱することは結構だが、それはあくまで秘密裏に隠密行動の中で済ますべき案件。
アラタは正面の敵を見て何とかここからだけで敵の概算を出すことが出来ないかどうか試みる。
奥行がある程度確保されていると仮定して、この横幅の陣地を形成しているのなら、と考えてみても答えは出ない。
何せ仮定や想像が前提に来てしまう話しかできないわけで、非常に困った。
この辺りには人も住んでいないから現地住民の協力も得られそうにない。
とにかく動かなくてはどうにもならないと、アラタは指示を出した。
「動くぞ。左側の斜面の途中まで登り、敵本隊の様子を探る」
恐らくここまでは今までの偵察部隊も来ることが出来たのだろうと、誰もが思った。
それくらい警備は手薄だったし、大した情報も手に入っていない。
本当に重要な事実は、この先にある。
裏を返せばそう語っているも同然である。
リスクなしにリターンを得ることは出来ない。
チップは自分たちの命。
第1192小隊は、敵陣地奥深くに向けて本格的な潜入任務を開始した。
※※※※※※※※※※※※※※※
「こりゃ俺たちは砦から出られないだろうな」
「だな」
アラタが嘆息している隣で、アーキムが同意した。
彼らは山の中腹付近をぐるりと回る形で、敵軍が集まっている平野を見下ろしている。
アラタはこれほど大規模な人間の集団を数えることに慣れていないので、代わりにウォーレン、テッド、カイ、サイロスに丸投げしていた。
彼らの計算をすり合わせていくと、敵軍の数はおよそ2万から2万5千。
こちらの倍以上いることは確実だった。
コートランドを挟んで対峙している本隊からの報告や、敵軍の総数を予測した情報と照らし合わせると、これだけの敵が集結しているのにも関わらずまだ敵軍の総数に達していないというのは少しヤバい。
カナン公国は間違いなく窮地に立たされている。
とまあ、部下から敵の規模や大まかな陣の張り方、様々な情報を持って帰還する。
遠足は上手くいったので、あとは帰るだけ。
問題はその帰り方だ。
「こんなはげ山ありましたっけ?」
そう訊くダリルの足元には黄土色の地面が広がっている。
腐葉土たっぷりの雑木林なんてどこにも無い。
この山一つ丸ごと採石場にでもするつもりだったのか、見晴らしが良い代わりに見つかりやすい。
「あー鶏肉食いたいなぁ」
空を見上げながら、第4分隊のバッカスは呟いた。
広がる雲の中に焼き鳥でも妄想しているのか、彼は空を見上げたままだ。
もうそろそろ帰ろうかという時になっても、それは相変わらずだった。
「全員帰るぞ……バッカス」
アラタが軽く声を掛けても、彼は指示に従おうとしない。
とりあえず後でシバくのは確定事項として、今は一分一秒が惜しい。
ふざけている時間は無いと、アラタは彼の肩を掴んだ。
「おい、いい加減に——」
「隊長あれ、おかしいです」
「何が?」
「あの鳥、さっきから同じところをグルグルと。サタロニアオオワシなら木か何かに留まって様子をうかがうはずです。やっぱりおかしい」
「……お前らはどう思う?」
「あまり詳しくないです」
「俺もです」
「さぁ…………」
確信の持てない返答に、アラタも困る。
もし仮に鳥がおかしな挙動をしていたとして、それをどう解釈すればいいのか分からないから。
戦場において、『鷲の眼』がどのような影響を及ぼすのか、彼らはそれをまだ知らない。
「隊長、急いでここから撤退すべきです。今すぐ、迅速に」
「まあ理由は後で聞かせてくれ。とりあえず撤退するぞ」
バッカスの真意はともかくとして、この状況でふざけるような人間は部隊にいない。
ともすればと、アラタは山を降ろうと歩き始めて、そして止まった。
「手遅れだ。全員戦闘準備」
アラタは刀を抜くと、腰元にぶら下げているポーチから瓶を取り出した。
個人的に持ち込んだ、劇物レベルの強力なポーション。
彼はそれを一気に飲み干すと、空の瓶をしまった。
「全員動くな。武器を置いて降参しろ」
身の丈ほどもある、大剣。
海外のボディビルダーを思わせる、隆々とした筋骨。
イカつさの噴き出している主張の強い顔面は、見た者の記憶によく定着している。
特に、その人間離れした膂力とクラスの力とセットになれば、生涯忘れることは出来ないだろう。
「剣聖、オーウェン・ブラックか」
アラタが呟くと、辺りに動揺が広がった。
思わず一歩後ずさる。
逃げる場所なんて無いと言うのに。
ウル帝国が誇る特記戦力にして、Aランク冒険者。
ノエル・クレストと同じクラスを持ちながら、彼は既に第3段階をクリアして剣聖の力を完全に我が物としている。
完成された剣聖、その恐ろしさはアラタも知っていた。
しかし、だからと言って降参することは出来ない。
前にしか道はなく、彼の背中には多くの部下の命がかかっている。
「スゥーゥゥゥ、ハァーァァァ」
剣聖の背後には、何人もの敵兵の存在を感知している。
彼を倒したから、押さえたからと言って脱出が成功するとは限らない。
ただ、やるしかない。
アラタは刀を構えた。
「今度こそ勝つ」
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