第339話 遠足の準備は念入りに
乾いた声で、アラタは応えた。
この戦場から離脱してミラ丘陵地帯にいる第1師団の元に帰れという指示に対して、少し考える時間が欲しいと。
アイザック・アボット大将もそれを了承し、アラタは司令部の天幕を退出した。
屋外に出て、馬を引いてきてもらう。
今まで何度も司令部には足を運んでいるから、馬番の兵士とも顔見知りだ。
「いつもありがとう。ドバイも
ドバイというのは、アラタの愛馬の名前だ。
厩務員は自分の世話をしている馬が褒められるのが何より嬉しくて、何なら自分が褒められるより嬉しいという変態の集まりだ。
礼を伝えられた兵士も例に洩れず変わっているようで、ニヘッと相好を崩して笑う。
「そうなのか? こいつ、あなたが出てくるのをソワソワしながら待ってるんですよ」
「あはは、それは何よりで」
「良い馬です。長く乗ってやってください」
「それはもちろん。あと少しいいですか?」
「なんでしょう」
ドバイの手綱を受け取るついでに、アラタは馬番の男の耳元で囁いた。
「脱走兵が出たというのは本当ですか」
そう囁かれた男はビクッと体を震わせた。
脱走という重罪行為の単語に驚いたのかもしれない。
彼は少し大げさなくらい手を顔を左右に振って否定する。
「そんなことあるわけないじゃないですか。ましてやここは公国軍司令部、尚更ありえませんよ」
アラタの眼に彼の態度がどのように映ったのかは不明だが、とにかくアラタは納得した様子で馬に飛び乗った。
「安心しました。ここの人に居なくなられるとドバイが寂しがりますから」
「あはは……そうですね」
「ではまた!」
アラタは手綱を緩め、ドバイがそれに呼応するように歩き出した。
その背中と尻を見送った厩務員の男は、ほっと胸を撫でおろす。
そして、彼の言葉を思い出していた。
「もう少し頑張ってみるか…………」
その日も空は晴れていた。
日本なら夏の終わりは雨が増えて、その度に少しずつ気温が下がることが恒例だが、カナンというかこの辺りではそうでもないらしい。
コートランド川の
そんな時は敵味方を問わず、荼毘に伏してやる。
カナンもウルも、土葬の文化はだいぶ前に廃れている。
アラタは小高い丘に位置している司令部を後にすると、小隊が兵営を設置している前方指揮所に向かって坂を下っていた。
元は司令部に宿泊していた彼らだが、任務の度に嫌がる馬のケツを叩いて坂を下らなければならない状況にバートンがNOを提唱したのだ。
任務の伝達は兵士一人いれば事足りるし、司令部にいては対応が間に合わないことだってある。
馬は斜面、特に急な坂を嫌うので、元から下にいた方が都合がいい。
エルモはそれでも司令部付きの特別待遇が忘れられないみたいで、事あるごとにアラタに対して配置換えを希望している。
対するアラタは非情なもので、そんなに司令部が良いなら朝ご飯だけ食べに行けばいいじゃないかと言い出す始末。
彼に非は無く、あるのはエルモの方なのは当たり前でも、もう少し言い方というものがあるだろう。
しかし小隊の人間はどちらかというとアラタの意見に同意しているので、エルモの立場は非常に弱い。
悲しい男だ。
「覚悟、覚悟…………覚悟ねぇ」
アラタは先ほどから同じ単語を繰り返し呟いている。
彼は1999年11月22日生まれ、時代としてはゆとりの終わり世代に属している。
円周率は3ではなく3.14だし、小学校の教科書には追加で学ぶ小冊子がついた世代だ。
勉学に励まなければならないと再認識して学習指導要領が改定された一方で、体罰やいじめなど前時代的な価値観は徹底的に排斥された時代でもある。
暴力ダメ、絶対、そんな時代だ、素晴らしいことである。
ただ、弊害もあった。
SNSが広く利用されるようになったのは彼が小学生や中学生の頃からで、その時代から別の問題が発生した。
すなわち、ネット弁慶という病気である。
対面で表立って自分の考えを表明できないが、ネットの中ではやけに強気。
彼らの居場所はそこにあるのだから別に咎めるほどでもないが、顔が見えず相手が生身の人間であるという感覚が鈍くなると、途端に人は攻撃的になる。
誹謗中傷、名誉棄損、etc.
そして彼らは上の世代からこう評される。
あなたたちは『ズレている』と。
まあおじさんおばさん世代でもネット上での活動が目に余る例は腐るほどあるので、結局は世代ではなく個々人の問題と捉えることが正確かもしれない。
しかし、アラタの肌感覚ではこの限りではない。
誹謗中傷が原因の一つでプロ野球を諦めた身としては、他人事ではない。
彼らは無責任で、他人に無頓着で、周りに興味がなく、そんな孤高の存在である自分を格好いいとすら思っている。
相手が何を考えているのか、何を求めているのか考えず、察せず、理解できず、常に地雷を踏み抜き墓穴を掘る。
どちらかというと昭和のスポ根世代の薫陶を受けて育ってきたアラタと噛み合わないのは仕方のないことだった。
そして、それは世界が変わろうとも同じ、人類史の摂理そのものだった。
カナン公国でも日本と程度の違いはあれど、世代による価値観の相違が激しい。
第十四次までの帝国戦役を経験している世代と、そうでない世代の意識の差は明瞭だ。
アイザック・アボット大将の言う、祖国に命を捧げる覚悟が無いというのはそこにある。
アラタだって、別に国のために死ねなんて部下や仲間に言うつもりは無い。
ただ、その状況が来ればそうするし、異邦人の自分がそうするのだから公国人は皆すべからくそうするだろうと勝手に思っていた。
そんなものは自分の勝手な妄想だったと、今なら思う。
馬を走らせ兵営に戻る際中、見える景色はいつもと同じはずなのに、アラタにはひどく色褪せていて醜悪で惨めに見えた。
トロトロ動く鈍間な新兵、上官が立って集合を待っているというのに歩いて向かう部下、いつまでも終わらない雑談、覇気のない顔、細い手足、手入れされていない防具。
確かに、司令部側が絶望してもおかしくないと、そう思える。
今までアラタは自分のことやその周りのことしか見ていなかったのだ。
自分が、第1192小隊が、第206中隊が、第32大隊くらいまでが良ければそれでよかったのだ。
その内訳は自分の選んだ波長の近い精鋭だったり、ハルツの息のかかったしっかりとした冒険者だったり、仮にも自主的に戦場にやって来て国を守ろうという尽忠報国の士だった。
残る多くの人は、良くも悪くも普通の人で、それらが圧倒的マジョリティならそちらに合わせて戦わなければいけなかった。
彼らを見ていると、アラタも気分が悪くなる。
自分に出来ることをしようと考えても、周りが
どうしたら上から下まで一致団結して頑張ることが出来るのか。
そんな答えを探しながら、アラタは第1192小隊の兵営に戻っていった。
※※※※※※※※※※※※※※※
ドンドンドン。
家の扉を叩く音が鳴る。
「はい」
中からは30代くらいのエプロン姿のお手伝いさんが出てきた。
家事にひと段落ついて休憩中だったらしく、手からお菓子の匂いが醸し出されている。
「あ、あの、その、あの、レ、レレレ……」
身長150cmも無さそうな小柄で青い髪の少女は、テンパっているのか要件を口に出来そうにない。
しかし、まあそれでも問題はないのだ。
「アリちゃん、少し待っていてね。旦那様はまだ準備に時間がかかっているようなの」
「………………ぅん」
コクコクと首を小刻みに振ると、アリと呼ばれた少女はその場に立ち尽くしていた。
いつものことながらどうしたものかとお手伝いさんは困ってしまう。
こんな時は、いつものことながら彼女の後ろ側にいる人たちの力を借りるほかない。
旦那様とやらの持ち物である屋敷の入り口にある門と塀、そこから顔半分だけだしてこちらを窺っている筋肉変質者たちが数名。
彼らはいつでもアリを呼ばれた少女を守っている。
——イエニ、アゲテヤッテクダサイ。
——分かったわ。
「アリちゃん、旦那様はもう少しかかると思うからおあがりになってくださいな。美味しいお茶菓子もあるのよ」
いつものことながら、ここの男たちはこの子を甘やかしすぎなのでは? と彼女は常々思っていた。
そんなんだからいつまで経ってもあがり症が治らないと思う反面、仮に過保護を止めてもこのままなんだろうという謎の確信がある。
それならまあ、出来る限り甘やかしてしまっても構わないだろうと家政婦は思った。
「さ、いらっしゃい」
「お、お邪魔しまっふ」
「お待たせアリソンちゃん」
「旦那様!」
家政婦から家主と呼ばれた割には、彼は随分と若そうに見える。
まあ平均寿命も違えば、クラスがあるこの世界で若くして大成するケースが少なくないというのもある。
ともかく、金髪に金色の眼は甘いマスクでも少し威圧感があった。
しかし、アリ改めアリソンと呼ばれた少女は意外にも平気そうだ。
先ほどまでの様子からすると昏倒してもおかしくないのに。
「もう出るから、お菓子はまた今度ね」
「いってらっしゃいませ」
「あぁ、行ってくる」
男はそう言いながらアリソンの手を引いて出発したのだった。
そして今に至る。
彼らは馬を飛ばしながら、ウル帝国の首都から見て西へ西へと向かっている。
その道中は非常ににぎやかだ。
「遅い!」
「さっきから謝っているじゃないか」
「もうみんなとっくに行っちゃったの! あなたのせいで私まで遅れることになって……まったくもう!」
「お嬢、せめて俺たちもカウントしてくれませんかね」
「そうだよ、騎士団の皆も忘れてやるなって」
「モルトク達はいいの!」
「だってさ」
「へへ、お嬢……照れるぜ」
「君たちそれでいいんだ……」
恐らくかなりの変わり者であろう旦那様をドン引きさせる騎士団の連中のアリソン愛は、一体どれほど深いのだろうか、底が見えない。
金髪の男が一人、青髪が一人、残りは差はあれど皆兜付きの甲冑に身を包んで街道を駆け抜けていく。
アリソンが言ったように、男が遅刻したせいで随分と出遅れてしまった。
到着したらまずは謝罪回りからだと今から頭が痛い。
「レン、なんで2日も遅れたの? 本当に怒られるよ」
「まあね。友達に逢えた時のプレゼントを少しね」
「どうだか」
「それより、僕やモルトク君たちとは普通に話せるんだから、いい加減その口下手治した方がいいよ」
「あなたの遅刻癖も何とかしなさいよ。日を跨いで遅刻なんて聞いたことないわ。ねえ皆?」
「ですね」
「まあ、確かに」
「それはそれで大物とも……」
口々にレンという男に対する評価を口にする騎士団の面々。
その一人一人が強者の風格を備えている。
間違いなく強い。
そんな彼らが西に向かっている、となれば…………
「もうすぐ会えるね、アラタ」
「気持ち悪っ! その顔ヤメテ」
「酷いなあ、これでも結構モテるのに」
「いいからやめて!」
キンキン声で少女が叫ぶと、渋々レンは元の表情に戻り、心の中で笑った。
アラタがどんな顔をするのか、今からワクワクとムラムラが止まらない。
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