第358話 紅血の中で微睡む

 人間の中には、自分を客観視できない奴がいる。

 それは想像力の欠如であったり、能力不足だったり、ハナからそのような事をする気がなかったり、人それぞれ。

 そして時折、こんな人がいる。

 あまりに自分のことが怖すぎて、嫌いで、見たくないという人間が。

 彼はきっと、とっくの昔に壊れてしまっていたのだろう。

 では、その『とっくの昔』というのはいつのことだったのか、少し考えてみることにする。


 戦場で殺し合いを演じる中で、精神が耐えきれなくなった?

 最愛の人をその手で殺したことで、心が壊れた?

 一度死んだことで、自分の中に積み上げてきた常識が壊れた?

 魂が真っ二つに別れたことで、普通の人間の感性を失った?

 恐らく、そのどれもが追加事項であって、きっかけではない。

 始まりは、それよりも更に遡る必要がありそうだ。

 ここから先は、この世界からでは覗き見ることが難しい。

 ただ1つ言えることは、


 ——彼はとっくに壊れていた。





「…………! っ……タ——」


 あぁ、なんだかとても気持ちいい。

 まるでいつもより早く寝て、その上で1時間くらい早起きした時くらい心地いい。

 今から朝ご飯まではまだ時間がある、何をして過ごそうか。

 スマホをいじるだけっていうのも、時間を無駄に使えている気がして最高に幸せでいいかもしれない。

 散歩もいい、普段はランニングがメインだからたまにはこういう日があってもいい。

 それとも朝からハードトレーニングしてみるか? 最近買ったプロテインの味は中々好きだ。

 なんか少し変だな、いつもと違う時間に起きたからか?


「隊……! ……て——」


 耳が詰まっている気がする。

 プールから上がった時みたいな、そんな感じ。

 耳抜きすれば……あれ、体が思うように動かない。

 動く……けっど、んだこれ、難しい。

 まあいいか、インスタチェックしよ。


「アラ……! 気——」


 あれ、顔認証が動かない、顔むくんでんのかな。

 そういや化粧水切らしてたっけ、あの子持ってるかな。

 ……あの子って誰だ?

 あの子、あの子をあの子なんて呼んだことねえけど、あれだ、あの人だよ。

 つーか彼女じゃん、付き合ってんじゃん、それはねえだろ。

 ……何でだろ、思い出せない。


 というかスマホのロックナンバー忘れた。

 なんだったっけ、誕生日?

 1122、違うな、6桁だこれ。

 あー……せっかくいい気分だったのに、もう面倒臭くなった。

 いいや、もう一回寝よ、おやすみ——


「隊長! アラタ隊長! もう終わりました! 正気に戻ってください!」


 洗面台に溜めた水を、一気に流した時のような、あの爽快感。

 それでいて、排水口で絡めとられた髪が気になる。

 そのままにしていては気になってどこかに出かけることも出来ないから、それを取ってゴミ箱に捨て、もう一度手を洗う。

 よし、これでやり残したことなし、そんなある種の達成感のようなものを、アラタは感じていた。


 息が詰まるような血と土の匂い。

 ヌメッと生暖かい液体の感触。

 足の踏み場もないくらい敷き詰められた人間の死体。

 鎧や肌に付着した、自分の物か他人の物か分からない血と肉片。

 光を一片も宿していない虚ろな目で、アラタは辺りを見渡した。

 立っているのはどれも公国の兵士ばかり。

 生きているように見える帝国の兵士は、みんな後ろ手に縛られて地べたに座らされていた。


「……【狂化】が起動していたのか」


 今頃自分の状況を把握した彼に、副官のアーキムが近づきながら肯定する。


「現在、軍は追撃戦に移行中、俺たちも準備が整い次第中隊として参加するように命を受けている」


「そっか」


「無理そうならそれでもいいらしい。中々話の分かる司令官殿だ」


 彼の周囲には、彼と同じ黒鎧を身につけた兵士が何人もいた。

 しかし、何となく分かる。

 数が足りない。


「1192の人間は何人生き残った?」


「離脱者は抜いて13人だ。アレサンドロとエリックが死んだ」


「301の奴らは?」


 アーキムは首を横に振る。

 流石に全滅したというのはあり得ないので、把握しきれていないということだろう。

 戦いにひと段落ついた戦場では、捕虜の収容が行われている。

 後処理と追撃、どちらに参加すべきか。

 どちらでもいいという指示が下りている分迷うところだった。

 そして、


「動ける奴だけついてこい。追撃にも頭数が必要だ」


「了解。バートン、みんなを呼んでくれ」


「おー」


 301中隊としてこの戦いに参加していた彼らだったが、激化する戦いの中で新入りたちは悉く脱落してしまった。

 脱落と言っても、死亡や再起不能ばかりではない。

 負傷して戦線を離脱したり、体力が底をついてとても戦えないから外して後方に回したり、今日が終わればまた部隊に合流する人間も含まれていた。

 残るのは、開戦当初から付き従っていた第1192小隊の面々。

 その中の3名が戦死、4名が一時的に離脱。

 戦力ダウンは否めないが、戦わないわけにもいかない。


「遅れました、自分で最後です」


「隊長、全員そろいました」


「おう、戦いは終わっている可能性が高いが、伏兵には十分注意するように」


 彼の号令で、追撃部隊を追いかける道のりが幕を開けた。


「アーキム、状況説明を頼む」


「分かった」


 【狂化】が強制終了するまでに体力を消耗しているアラタは、正直なところもうほとんど戦えそうにない。

 それと同じように、隊員たちは皆戦闘力を使い果たしていた。

 それでも今こうして敵陣地に向かって移動している理由は、偏に後処理のためである。

 包囲殲滅作戦が実行されたあの戦場と同じように、戦いがあるところには必ず死体が落ちていて、捕虜も発生する。

 それを管理するには最低限必要な頭数、マンパワーが確かにあって、それを後方に一々要請するのは時間の無駄である。

 だから彼らのように、後方から手伝いに来てくれると非常にありがたい。

 徒歩で移動の最中、アーキムやその部下たちからの報告に耳を傾けるアラタ。

 内容はほとんど頭に残らなかったが、何となく作戦が成功し、公国軍が勝利したという事は理解できた。


「敵は潰走、包囲網の両翼は相討ちに近い形になったが見事耐えきった」


 彼の報告では、例のエミル少佐は任務を全うしたとの事だ。


「敵はシンプルに真後ろから退却、事前に走らせておいた追撃部隊に常に背を食われながら逃走を続けている」


 ざっとこんな感じである。

 川の向こう側に逃げようとしている帝国兵に対して、左右から高速道路の合流のように公国兵が襲い掛かり、軍の背後というこれ以上ないくらい脂の乗った弱点を一切の躊躇なく屠った。

 追撃はコートランド川を渡っている最中も続き、前半戦で舟を温存していた公国軍の包囲網が見事に的中した。

 アラタ率いる301中隊がやられたように、船上から水の中にいる敵兵を次々と沈めていく。

 やっとの思いで到着した中洲にはすでに公国兵が待ち構えていてこれを殲滅する。

 回避に回避を重ね、友軍を囮にしながら器用に追撃作戦をかいくぐって来た帝国兵は、元々司令部のあった地点までついに到達する。


「はぁ……はぁ……やぁっと、着いたぁ」


「元帥殿! 元帥殿はおられるか!」


 最前線で部隊を率いて戦ってきた少佐相当の武官が、ガランとした天幕に押し入った。

 まだ戦いたいという彼の想いを、部下たちが半ば強引に押し切ってここまで逃がした経緯がある。

 彼の部下は、ほとんどが戦死か捕縛された。

 それだけに、彼の眼は非常に血走っている。


「司令部! 誰かいないのか!」


 沸々と、マグマのような粘性の高い感情が沸き上がって来た。

 それはあと少しで口からこぼれ落ちそうなくらい、膨張して煮えたぎっている。

 もし今、彼が何か気に食わない言葉を耳にしようものなら、間髪入れず叩き斬るに違いない。

 相変わらず、返事は無い。

 ここまですれば、確定だろう。


「……叩き殺してやる」


 憎悪に満ちた表情で、男は天を睨みつけた。

 負ければ心は荒み、責任の在り処を正したくもなる。

 誰のせいでこうなったとか、どう責任を取らせるかとか、そういったことに思考が引っ張られる。

 どうやって改善しよう、次はこうならないためにどうしよう、なんて建設的な議論は、責任者の首を刎ねて溜飲を下げてからに限る。


「おい、行くぞ」


「は……」


 残りわずかとなってしまった敗残兵を束ねて、将官は司令部を目指す。

 辿り着いた時が貴様らの最後だと、ありったけの憎悪を込めて、帰還を願った。

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