第210話 嫌がらせかくれんぼ(烏鷺相克4)

 とっぷりと日が落ちると、気温は急激に下がる。

 4月になったと言ってもこの法則からは逃れられない。

 それに真夏がやってきて、寒さから逃れることが出来たところで、今度は熱帯夜が待っているだけなのだが。

 アラタ、クリスは黒装束に魔力を流し込み、仮面を着け、【気配遮断】を起動している。

 男の方はずっと点けっぱなしに出来るのでそのまま、女の方は常時使用する体力は無いので距離が近づいた時だけ。

 夜の森には、まるで大雨が降る前のような強い風が吹いている。

 不穏で、生暖かくて、湿気を含んだ風。

 野球選手兼現場の気象予報係を先輩から仰せつかっていたアラタは、一雨来るかもしれないと、そう思った。

 日本での彼の仕事は朝の天気予報をチェックすることから始まるので、テレビも新聞もない異世界では多少精度が落ちる。

 それでも、これは降るだろ、そう彼は思った。


 ……見えなくもないが、向こうも見えているな。

 さて。


 2人に囲まれる形で夜を迎えた白髪の男には、いくつかの選択肢が用意されていた。

 数え上げればきりがないが、有力なものはいくつかに絞られる。

 まず、2人を殺す。

 そのうえでエリザベスを追いかけ、始末するという選択肢。

 他には、2人を無視してエリザベスを殺りに行く選択肢。

 何らかの方法で、逃げたエリザベスを引き戻し、エリザベスを殺す選択肢。

 どの選択をしたとしても、エリザベスが死ぬことに変わりはない。

 そうならないようにするには、この男を止めるほかない。

 そして、男の中には、いくつかの選択肢に加えて、いくつかの事情があった。

 それは彼の心の奥底に秘められた、まさにトップシークレットとも言える内容。

 彼の持つ、スキルに対するレジスト能力をもってすれば、その防壁は容易には破れない。

 世界の理に干渉するほどの強力なスキル、すなわちエクストラスキルや、彼のスキル耐性を相殺するほどのレジスト能力を持つ人間でなければ、この意味は理解できない。

 そして、心の根っこの部分にあるものこそ、その人間の行動原理足りうるのだ。


「勝負はまたの機会に預けておくとしよう」


 揺れる木々の音の中、良く通る声で彼は通達した。

 相手はもちろんこの戦場にいる彼以外の2人。

 俺はエリザベスを追うから、お前らはずっとここにいろ、そう言っているのだ。


 ブラフだ。


 アラタは当然そう考える。

 それが自然だし、合理的だ。

 リャンがついているのなら、逃げる最中でもある程度の妨害工作は当たり前のようにこなしていく。

 痕跡を消す、トラップを仕掛ける、ミスリードを誘う、何でも。

 だから、アラタは彼のことを信じることにした。

 曲がりなりにもカナンに送り込まれた工作員としての彼の能力を、一度は裏切り、思惑を完膚なきまでに叩き潰した後、これからは心を入れ替えて仲間に尽くすと誓った彼の心意気を。

 アラタという人間は、根本的に性善説信仰のお人よしなのだ。

 然るべき人間に然るべき期待を寄せれば、然るべき結果が帰ってくると信じている、甘い人間なのだ。


 まずいな。


 それに対して、クリスは焦っていた。

 彼がそう考えたように、ユウの言葉が誤解を誘う物である可能性など百も承知。

 しかし、もしブラフで無かった時、取り返しのつかないことになる可能性を、彼女は重視した。

 損得勘定に関する人間の心理として、莫大な利益を得ることが出来るかどうかより、微小な損失を偏重する傾向がある。

 つまり、損失が出る可能性というのは、人から正常な判断能力を奪うのだ。

 この場合、ユウを抑えて最終的に勝つという利益より、本丸であるエリザベスを失う損失を恐れるということになる。

 両者は厳密には相対していないので、比較対象にするのは少々不適切な気もする。

 しかし、彼女の頭の中にはこの2つがぐるぐるとループしていた。

 やっと会えたのに、これからだという時なのに、ここで、そうさせるわけにはいかない。

 そんな強すぎる意志は、人を誤った道に誘導してしまう。


「クリス!」


 アラタの声が響き渡る。

 声の方からガサガサと木々をかき分ける音が聞こえ、彼が移動していることがわかる。

 大声を出したことで気配遮断の効果も消えて、距離を取っているとは言え少し無防備な状態に突入してしまった。

 そんなリスクを冒してまで、アラタがクリスに伝えたかったこととは。

 彼の方を見ると、弓を持っていない右手でハンドサインを送っている。


 ステイ、動くな、待機。


 同じサインを何度も何度も、念押しする。

 それはもう日本の伝統芸能、『押すなよ、押すなよ』に匹敵するくらい執拗に。

 アラタの判断は、この場から動くな。

 クリスの本能が、彼に従う。

 特配課、黒装束、八咫烏という組織の中で磨かれた彼女の気質が、命令違反を良しとしない。


「何だ、来ないのか」


 拍子抜けしたような声で、ユウは歩き出した。

 すかさずアラタが矢を放つが、暗視を持っているユウには効果的ではない。

 気配を完全に断ち切った状態からの一射なら効果はあるかもしれないが、彼は先ほど自分の居場所を晒したばかり。

 手練れ相手の戦闘では、スキルを使っていると言っても効果は完璧ではない。

 男はそのまま南方向へと歩みを進めていく。

 東へ逃げたはずのエリザベス達の方角ではなく、南側を。

 クリスはぞっとした。

 迂回して集合地点4に再結集するという隊長アラタの指示。

 ベースキャンプに向かって直進するような愚をリャンが行うわけなく、彼は一度東へと向かい、その後方向を変えたはずだった。

 それをこの男は、ユウは彼らの目指す方角に向かって、真っ直ぐと歩き出したのだ。

 たまたまかもしれない。

 ただの方向音痴という可能性もある。

 彼からすれば、カマかけの意味も含めて適当に向かう方角を決めたのかもしれない。

 しかし、この現象だけを切り取ってみてみれば、論理的な思考はどのように下されるのか。


 ……バレているのか!?


 そうクリスが考えるのも、当然だった。

 追手が予想しないであろう、未開拓領域方面への逃走。

 そして人間界の境界線を目前にして現れた白髪の男。

 ピンポイントでこの場を読み当てなければ、こうはならない。

 とすれば、考えられる答えは一つ。

 ユウは、エリザベスの居場所を常に把握している。

 その仮説は、先ほどのクリスの取ろうとした行動を完全に支持している。

 いや、考えている人間が同じなのだから、似たような思考回路で似たような結果を出力すると誰もが考える。

 当の本人を除いて。


 特に反撃を受けることなく、再び潜伏状態に移行したアラタから、再びサインが出た。


 動くな、絶対に。


 かなり強い内容の命令強制。

 彼はクリスの心中を察していた。

 不安だろう、心配だろう、胸が張り裂けそうだろう。

 でも、ここは耐えなければならないと、アラタは決める。

 全責任は俺に、なんて格好の良いことは言えない。

 もしこの判断が間違っていて、最悪の事態を見過ごすようなことがあれば、彼がどんなことをしても責任の取りようなんてない。


 行く。


 クリスから、そういった趣旨のサインが送られた。

 ダメだと、そう返す。

 行く、と再送される。

 それでもダメだと、アラタは繰り返した。

 そして、白鷺しろさぎは闇に溶け込む。


「あっ!」


 アラタがそれに気づいた時、ユウの姿は、気配は、存在は、きれいさっぱり消えていた。

 そしてハンドサインを送り合って、言い合いをしていたはずのクリスも、やっぱり消えていた。


※※※※※※※※※※※※※※※


 あとで殺されるかもな。


 ユウを追いかけて走っているクリスは、本気で怒った時のアラタの顔を思い浮かべていた。

 温厚な彼が怒る時、それは本当に彼が許せないと、心の底から思った時に他ならない。

 リャンに裏切られ、自分が殺されそうになった時も、彼は笑っていた。

 頭のねじが飛んでいそうな行動が目に付く彼だが、彼なりの行動指針というか、考えの指標のようなものは確かに存在していた。

 その中で、命令違反の上独断専行は決して軽いカテゴリではない。

 内容次第では粛清もありうるような、重要度の高い憤慨事項だ。

 アラタに内容を伝えてからユウを追いかける時間は無かったのは仕方がない。

 問題なのは、クリスがわがままを押し通そうとサインを繰り返し送っていたことで、アラタの動き出しが遅れてしまったことにある。

 これに関してはアラタも改善するところはあるのだが、彼女が意固地にならなければこうはならなかった。

 仮面の中で後悔を噛み締める女は、走りながら矢をつがえた。

 森の中、真夜中で、背後からやってくる矢を、避けれるものなら避けてみろ。

 そう心の中で叫びつつ、彼女は軽くジャンプした。

 空中で綺麗な射撃体勢を取ることで、少しだけ精度は改善する。

 矢を射る基本から離れた技術のため、クリスがいかに幅広く技を習得しているかどうかが良く伝わってくる。

 その矢をこともなげに躱したユウは、いったい何者なのかと問いたくなる。

 どこで何をしていたら、後方から飛んでくる矢を躱せるようになるのか。

 【敵感知】を持つものは、程度の差はあれど似たようなことを行うことは出来る。

 アラタは後方から迫る剣撃を躱すことだって出来るし、クリスもキィも背後から迫りくる敵の存在くらいは感じ取ることが出来る。

 でも、敵の放った矢を感知して回避するなんて、この男は自分たちより数段上の使い手であることを、これほどまでに突き付けられることはそう多くないだろう。

 射撃でも一向に足を止める様子の無いユウに、痺れを切らしたクリスの暴走は止まらない。

 弓をその場に捨て、剣を抜いた。

 この状況で、アラタがいないこの状態で、ユウを相手に近接戦を挑むつもりなのだ。

 元々の想定で挙げられていたことだが、どこかまでエリザベスを逃がせば任務完了ではない。

 この男を倒さねば、追手を悉く撃滅せねば、護衛対象に平穏が訪れることは無い。

 だから、全力を以てユウを倒すと、アラタはそう作戦方針を固めたはずだった。

 しかし、実戦になってしまえばこんなもの。

 幾度となく視線を潜り抜けてきた彼女でも、これほどの相手を前にするといつも通りのパフォーマンスを発揮できない。


「止まれ!」


 隠密などどこに行ったというクリスの声が森に染み渡る。

 闇の中で、剣が打ち合わされた火花散る。


「思いあがるな」


 鉄骨がぶつかったような一撃に、クリスの剣が大きく破損した。

 まだ戦えるし、曲がってはいないから鞘に納めることも出来る。

 しかし、体の方はそうもいかない。

 今まで食らってきた衝撃が嘘だったと思うくらい、生物として違う次元にある力学的エネルギーをその身に受けて、彼女の体は硬直した。

 ユウはその一瞬を見逃してくれない。


「カッハ! グ、グゥウ」


 これ以上ないくらい完璧に決まったチョークスリーパー。

 気道を塞ぎ、対象者は気を失うか死亡するまでもがき苦しむ。

 スリーパーホールドほど被術者に優しくないこの技を受けて、クリスは必死に抵抗を試みる。

 後ろ側へ相手を叩きつけようとしたり、魔術を発動して逃れようとしたり、相手の体を攻撃して逃げようとしたり、ありとあらゆる手段で技から逃げ出そうとした。

 しかし繰り返すが、今回この技は完璧に決まった。

 男女の対格差もさることながら、ユウの体術は熟練の域にいた。

 涙も、鼻水も、汗も出尽くして、いよいよクリスの気が遠くなっていく。

 命令違反に近いことをして場を乱した挙句、一人で突っ込んでこのざま。

 心に去来するのは、アラタに対するすまなかったという気持ち。

 ここで自分が落ちてしまうことの意味を、彼女は知っている。

 少人数の戦いで、かろうじて保たれていた均衡が、自分のせいで崩れる。

 申し訳ないという気持ちと、遠のいていく意識の先に、にこやかに笑いかける幼き日のエリザベスを見た。

 そして、彼女の意識は喪失した。

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