第114話 躊躇の代償
「……………………」
紙の上で踊りだした文字を前に、アラタは絶句した。
変だとは思っていたのだ。
彼が手伝っている書類仕事、その名義はエリザベス・フォン・レイフォード、従ってアラタがチェックしたものを彼女が再度軽くチェックして判を押す。
それは普通だが、何回も見返して確認し、間違いはない書類に時折彼女は何かを書き込んでいた。
後で書く内容を変更しようと思った、アラタの見落としたミスがあった、きっとそう言うこともあるだろう、でも、それだけではなかった。
日本語に見える文字列は次の事を示していた。
「ウル帝国第1皇子との内通文書……って、はは、そんなのないよ」
見たくない現実が広がっている、でも、そこから目を離すことが出来ずにいる。
次々と見えてくる真実。
ウル帝国との融和政策とは名ばかり、カナン公国における帝国軍の駐留権を認めること、貴族院の解散、政治、外交にそこまで興味のないアラタでもこの意味することは分かる。
もしエリザベスが大公になり、この内容が実行された場合、カナン公国はウル帝国の支配下に収まる、そう言うことだ。
真夏の炎天下、休憩も取らず動き続けた時のように頭が奥からズキズキと痛む。
あの刺すような、締め付けるような鈍い痛み、アラタは数枚の紙を握りしめ、フラフラと部屋を後にした。
自室までの帰りの道中、いつもと何も変わらない帰り道、警備に声を掛けられることもなく、すれ違った人に気取られることもなく、彼は部屋に辿り着くに至る。
力なくベッドに腰掛けると、横に広げた書類に目をやる。
数ある書類の山の中から、何故この紙を取ったのか。
目に付いたから、それ以外に理由はない。
彼の目の前にある3枚の紙、そこに書かれていたことは、彼の人生を変えるのに十分すぎた。
当代の剣聖は1人で十分。
カナン公国の剣聖は反帝国派に属すると聞き及ぶ。
であれば、戦力をそぐ意味も含めて彼女、ノエル・クレストの暗殺を依頼したい。
剣聖は覚醒前に打ち滅ぼすべし、貴公の働きに期待している。
バルゴ・ウル
「は、はは。すぅー、はぁ」
悪い夢、これは夢だ。
きっと秋葉原で刺されて、意識不明のまま長い夢を見ているんだ。
何がスキルだ、何がクラスだ、何が魔術だ。
壊れない刀なんてあってたまるか、いい加減にしろ。
目が覚めたら遥香か母さん、大穴で父さんがいて、そこは病院の一室で、そこから元気になった俺はもう一度大学に通い始めるんだ。
そうだ、麻雀は控えよう、飲みも、煙草も。
だから、早くこの夢を終わらせて、俺は俺の世界に戻ろう。
——ノエル・クレストの暗殺を依頼したい。
だから、早く醒めてくれよ。
——ノエル暗殺。
なあ、頼むよ。
——暗殺。
『私の夢はな、リーゼとアラタ、他の皆と冒険者として一緒に過ごしたい、だ』
『夢なんてなくても、私たちが仲間であることに変わりはないだろう? もしどうしてもやりたいことが無いと生きていけないというのなら、私が探してあげよう! なんて言っても私たちは仲間なんだから!』
『エヘヘ! どういたしまして!』
俺は、エリーを裏切るのか。
俺は、ノエルを見捨てるのか。
俺は……どちらを護れば、どちらを捨てればいい?
この世界に来て、生き方を教えてくれた人。
恋人の影を重ね、次第に本人に惹かれていった人。
自分を肯定も否定も両方して、仲良くも、喧嘩もした人。
全てを優しく包み込んでくれて、愛していると伝えてくれた人。
「俺は…………ふぅぅぅううう」
もう冬、暖房もついていない部屋だというのに温度は高く、湿度もまた然り。
魔力が漏れ、汗をかき、吐く吐息は熱気を帯びている。
俺に政治的な、大きな目で俯瞰する能力はない。
ウル帝国がどんな国か俺はほとんど知らないし、貴族院が解体されるのなら、エリーと一緒になれるのならその方が願ったり叶ったりだ。
でも、それでいいのか?
目にしてしまった以上、俺はもう無関係ではいられない。
今は違くても、元は、つい最近までは仲間だったんだ。
いいやつなんだ、一緒に頑張った毎日は大変だったけど、久しぶりに楽しかったんだ。
俺はどちらを取れば、両取りなんてうまくいくわけがない、どちらかを選ぶんだ、今。
書類を持ってエリザベスの部屋に戻り、すべて飲み込んだうえで彼女に話すのか、それとも完全武装で屋敷を制圧し、暗殺を阻止するのか、逃亡を図るのか。
どちらかを取ればもう片方は地の底へ落ち、二度と触れることは叶わない。
好きなんだろ、俺はエリーのことが好きなんだろ。
だったら答えはもう……ああくそ、出てくるんじゃねえよ。
ニコニコ、ニヤニヤ、メソメソ、シクシク、これ以上出てこないでくれ。
『こんなに泣いて、そんな大ごとじゃねーんだよ。こんなの、何回でも俺が止めてやるよ』
「…………そうか、そうだったな」
ベッドから腰を上げ、黒い外套を一度脱ぐ。
刀、ナイフ、治療キット、刀袋、ブーツ、黒装束一式、ポーション、書類、後は本。
もう一度特配課の外套を羽織り、アラタは部屋を出た。
執務室に戻りもっとたくさんの書類を、そう思ったが、彼の足は踏みとどまる。
夜遅いこの時間とはいえ、屋敷でここまで人に遇わず移動できた試しはない。
つまり、今この屋敷ではいつもと違う何かが起きているのだ。
【身体強化】、【痛覚軽減】、【気配遮断】、【敵感知】、【暗視】を起動すると、すぐに反応があった。
このスキルの中で他人を対象とするスキルはたった一つ、【敵感知】だ。
「止まれ、そして武装を解除し床に横ばいになれ」
「A1」
直線一本の廊下、ノイマン以下数名は黒装束ではないが武器を手に彼の方を警戒し、その奥には彼女がいた。
「知らなきゃよかった、知りたくはなかった」
「……ねえアラタ」
「俺は君のことが好きだ、愛している。でも、もしあの内容が本当なら、俺は君を止めるよ」
「分かってアラタ。貴方もきっと分かってくれる、だから私を信じて」
空虚に、鈴を鳴らしたような声が廊下に響き、そして静寂が訪れる。
「貴方は【暗号貫通】に目覚めたの。だから私はあの本を燃やそうとした」
「そうか」
「さよなら、私の大切な人」
その夜、レイフォード家の窓が一枚、窓枠ごと粉微塵に砕け散った。
夜の月明かりにガラスの破片が煌めいたが、それ以外にも光る何かが宙を舞ったそうだ。
それはアラタの血なのか、涙なのか、それとも別の何か、それは重要ではない。
重要で否定のしようのない事実がそこにはあった。
レイフォード家は、エリザベス・フォン・レイフォードはカナン公国をウル帝国に売り払おうとしていて、彼はそれを知ってしまった。
千葉新、異世界で二つ目の居場所も2カ月足らずで失う。
彼の女運がないのか、彼自身がトラブルメーカーとなっているのか、それは神のみぞ知るところだが、命からがら屋敷から逃げ出したアラタは追手の追跡を躱しながら市内を駆け抜けた。
一つの黒い影と、それを追う複数の黒い影。
速度は先行するそれのほうが早いが、逃げ道を潰されているのか徐々に両者の距離は詰まっていく。
やがてアラタは抜刀し、今まで自分が毎日練り上げてきた連携攻撃をその身に受ける。
この場にいるのはノイマン、クリス、コーニ―、そしてエスト。
アラタを除いた現特配課の分隊長たち、それに加えて元分隊長。
彼らの能力はある程度把握している。
クラスは大工、盗賊、農家、金細工師。
戦闘系のクラスは盗賊のみ、それも正面戦闘には向いていないクラスだ。
「くっそ、しつけえ!」
クラスの優劣など大した差ではないことは彼が一番よくわかっているし、彼がそれを証明してきた。
この世界では大工だろうと、農家だろうと、金細工師だろうと一人前の戦力になり得るのだ。
クリスがアラタに組み付き、数度短剣で斬りつけると、外套に傷がつく。
普通の刃物では痕もつかない特殊な素材、それを傷つけるだけでなく、その下には浅いが赤い線が引かれている。
「やはりここか」
間合いの近すぎる状態から距離を取り刀の有利な射程で斬り合おうとしたアラタは下がりながら攻撃を躱す。
上半身を捻ったところにクリスの通した刃が通過し、その余波で腰のポーチが切り落とされた。
ポーションや救急キットがそこには収納されていて、普段ならそれだけのもの、また買えばいいのだが生憎今はその中に最重要書類が格納されていた。
「大事なものをここに入れるなと言ったはずだが、焦ると足元がおろそかになるな」
「それはどうも!」
書類は敵の手で押さえられ、これではアラタはただ逃げただけ、彼がなぜ逃げたのか、それを証明するものがなくなってしまう。
相手は特配課でも指折りの使い手たち、彼らから暗殺依頼が記述された書類を取り返し、この危機を脱する。
無理だな。
逃げるしかない。
書類は諦め、逃走一本化を心に決めると、脱兎の如く走り出した。
クリスを引き離し、夜の街を疾走していく。
アラタの目的地は決まっていた。
この状態、切り抜けるには戦力をひっくり返すしかない、だとしたら頼るのはあの人しかいない。
頼むから起きていてくれよ、寝てたら祟るぞ!
「……雷槍」
「炎槍」
黄色を帯びた白、燃えるように、というより燃えている赤色の2本の槍が的に向かって一直線に飛んだ。
「ぉぉおっ!」
目の端で辛うじて捉えられるかどうか、それほど高速な連続攻撃。
横一文字に振りぬかれた刀は雷槍を確かに捉える。
雷属性の魔力を流した刃は雷を切り裂き、上下に裂けた魔術は霧散した。
……もう一本!
逆振りは間に合わない、突きで——
炎槍が伸びた。
伸縮性の話ではなく、思ったより攻撃の軌道が上を向いていたのだ。
結果アラタの繰り出した突きは無情にも空振り、その炎は彼を撃ち抜いた。
本物の槍ではなく、当たったとしても肉体に風穴を開けるようなおぞましいものではない。
しかし、曲がりなりにも炎、火傷はするし衝撃で骨もイカれる。
黒装束の防御を貫通した炎槍はアラタの身体を通過して少しして消えた。
刀を構えたまま固まる影。
やがて力尽きたようにがっくりと膝を突き、右側に倒れた。
「言ったはずだ、心を鎧で覆い隠せと」
「…………そう、でしたね」
アラタもそうだが、追手の4人も仮面を着けていて、表情を窺い知ることはできない。
ただ、ノイマンの声色は震えていて、彼の心情を察するには十分な情報だった。
「バカ野郎が」
もう逃げきれない、そう理解すると、彼の意識はまるで眠りに入るように緩やかに失われていく。
そんな彼の目が最後に見た映像、記憶に残っている最後の視界には、年老いてなお屈強な体を持つ一人の老人の横顔があった。
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