第306話 起きてほしくなかった現実
ウル帝国による、カナン公国への宣戦布告。
報せはカナン公国全土、周辺諸国を駆け巡り、世界を揺るがす一大事となった。
帝国が侵略戦争のために軍を起こすことが珍しいのではない。
カナン公国という、国土の西側大部分を未開拓領域に接していて、魔物の侵攻を少なからず受け止める緩衝国家としての役割を果たしている国に対して、戦を仕掛けることが異常事態だったのだ。
ただ、帝国によるカナン侵攻はこれが初めてではない。
直近では16年前、そして今回で15回目の侵攻となる。
束の間の平和の終わり、そういうことだった。
その報せを、半分レジャーのつもりで来たゼリーフィッシュ漁の帰りに聞いたアラタは、眼を閉じて嘆息した。
正直彼は、いつかこうなると思っていた。
レイフォード家、特殊配達課、黒装束、八咫烏、そして灼眼虎狼としてウル帝国に赴いたことのある彼は、一般人よりもその辺に関するアンテナが高い。
馬を走らせる中、再び目を開くと、その瞳には確固たる覚悟が宿っている。
「クリス、3人を屋敷に送り届けろ。俺は先に行く」
「分かった」
アラタは少しだけ、馬を引く手綱を緩めた。
つい最近正式に愛馬となった、アングロアラブ種のドバイは、主の意志を汲み取ったように加速する。
そのスピードは競走馬種に相応しい性能だ。
「アラタ!」
彼の背後から、ノエルが名前を呼ぶ。
しかし、アラタは振り返らない、速度も下げない。
その時間が惜しいから。
代わりに、クリスの心の中に呼び掛けた。
スキル【以心伝心】を持つ彼女なら、秘密の通信もお手の物だ。
——クリス、2人をギルドに近づけるな。貴族院にもだ。
——分かった。
クリスはただ短く応えるだけ。
この中では一番付き合いが長い2人は、言葉を交わさずとも、スキルを介さずとも何を考えているかくらい理解し合える仲だから。
——頼む。
そしてアラタは、さらにスピードを上げてアトラまでの道のりを急ぐのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
半ば強引に突破するように、アラタは首都の東門を通過した。
警備の兵たちにはあとで謝罪するとして、彼は何も知らぬ人々が暮らす街中を疾走する。
ハルツと共にウル帝国にいたルークがあの地点に到達したという事は、裏を返せばまだこの町に戦争の報せは届いていないことになる。
明らかに限界を迎えていたルークとその馬よりも、アラタの方が遥かに速い。
メイン通りを駆け抜けて、彼は貴族院前の広場に到達した。
ここから先は土が無く、石畳しかない。
馬の蹄が傷ついてしまうと、アラタは顔見知りの肉屋にドバイを任せた。
「売りもんじゃないからな!」
馬肉として食卓に並んでしまったら、アラタはきっと泣いてしまうだろう。
「任せろ! 駅に連れて行く!」
面倒見のいい肉屋のオヤジは、風のように走り去っていく彼の背中に向けてありったけの声で叫んだ。
その姿はすぐに見えなくなったが、彼の憔悴した顔を見ると、男はなんだか胸騒ぎを抑えずにはいられなかった。
【身体強化】を重ね掛けして道を突き抜けていくアラタは、すぐに貴族院正面入り口に到着した。
しかしここからは、怒鳴り声一つで通してくれるような軽い場所ではない。
生憎のオフで、黒装束一式は持っていない。
あるのは愛刀だけだが、これを抜くわけにはいかない。
結果、正攻法で入場を認めてもらうほかなかった。
「冒険者アラタ、ウル帝国に出向中のハルツ・クラークから伝令を頼まれた!」
「内容を証明できるものは持っていますか」
「無い。だが事態は一刻を争う。頼む」
門番は背丈はアラタより少し小さいくらい、がっしりとした鎧を着て、2人1組で警備に当たっている。
交代や休憩があるとはいえ、1日中こんな重装備ではそれなりに疲れるだろうし、腕前も確かでないといけない。
そんな彼らは当然職務にも忠実で、簡単には通してくれなさそうだった。
仕方なくアラタは、彼の耳元に口を運ぶ。
そして小声で、
「ウル帝国が宣戦布告した」
「……! 通れ! 今なら大公殿下もおられるはずだ!」
「感謝します」
「急げ!」
日常生活のアラタの信頼度は、文字通り地に落ちている。
しかしひとたび仕事の話になれば、信頼の厚さは六法全書よりも分厚い。
逆に彼を急かすように建物に送った守衛は、もう一人の仲間に何があったのか聞かれる。
しかし、男は首を横に振るだけで答えない。
「そんなにまずいのか」
「あぁ。多分すぐにわかる」
なんとも悲壮感に満ちた顔でそう言い放った同僚を見て、守衛の男は本当にまずいことが起きたことを肌で感じていた。
国に、暗雲が立ち込めるような、嵐の前のような強い風が、貴族院前広場に吹いていた。
「大公様! シャノン・クレスト様! アラタです!」
何度も声を大にしながら、アラタは貴族院の中を進んでいく。
真上から見ると円形に近い多角形構造を取っているこの建物は、中央付近に大公の執務室が在る。
どの入り口から入ろうとも、大公がいるであろうその場所まで辿り着くためには、それなりの長さを警備を通過しなければならない。
入って初めの大広間で刀を受け渡し、なおも奥へと進んでいく。
その切羽詰まった彼の様子は、次第に声を掛けようとするものすらいなくなるほどだった。
そしてその末に、騒ぎを聞きつけて向こうからも待ち人がやって来た。
「何事だ!」
「大公!」
「アラタ君か。何があった」
やってきたのがアラタだったことで、シャノンの醸し出す空気感が少しだけ和らいだ。
しかしそれも束の間、次の瞬間に、貴族院中が鳴動することになる。
「ウル帝国が宣戦布告してきました!」
その一報は、まさに国家の一大事。
ある人は反射的に連絡へと走り出し、ある人は左右に首を振って周囲を確認し、ある人は大公の方を向いて固まり、ある人はがっくりとひざを折った。
それが正常な反応というものだ。
それぞれ違った反応を取ったが、思うところは皆同じ。
絶望だ。
だが、下を向いてばかりいられない。
ここから先は時間との勝負になるから。
そして、こんな時、国家元首こそが最も立ち上がりが早くなくてはならない。
「貴族院緊急会議! 軍に連絡して中央軍を起こせ! 冒険者ギルドにも連絡! エリン共和国とタリキャス王国に馬を飛ばすぞ! 急げ!」
「「「は、ははぁっ!」」」
シャノンの魂の叫びに、一同は奮い立つ。
彼が口にしただけで、山のように仕事があることを突き付けられたから。
自分たちが動かなければ、文字通り家族が、国民が死ぬ。
ここが分水嶺、最前線、瀬戸際なのだ。
慌ただしく駆け出した文官をよそに、シャノンは駆け足でアラタの元に駆け寄った。
「私も忙しくなる。聞きたいことや頼みたいことがあるなら聞こう」
チャンスを貰ったアラタは、ずっと胸にしまっていたことを吐露した。
「ウル帝国にノエル……様の同行を許可したのは、この時のためだったんですか」
「そうだ。これ以上の我儘は許さないと念押しさせた」
「……そうですか。大公、本当のところを聞きます。カナンが負けたら、皆はどうなりますか」
「恐らく、ノエルやリーゼ君は処刑されるだろう」
処刑、その響きは、アラタに特別な記憶を呼び起こさせる。
以前彼は、ノエル暗殺を阻止している。
そしてその件がきっかけで、最愛の人から離れた。
彼はもう、また、2度と失うわけにはいかないのだ。
「クリスを残します。いざとなったら先生、アラン・ドレイクを頼って国外へ逃げてください」
「それは分かったが、君はどうするつもりだい」
「俺は————」
※※※※※※※※※※※※※※※
「クリス! なんで邪魔するんだ!」
「あいつに頼まれたからな」
「どけ!」
「断る」
アラタより30分程度遅れて、ノエルたちはアトラの街に到着した。
この時点では、まだ市民には帝国の宣戦布告は伝わっていない。
いずれ正式に発表もあるだろうと、彼女たちは不必要に喧伝するようなことはしなかった。
ただ重い足取りで、暗い顔で、ゼリーフィッシュを持ちながら屋敷へと戻り、貴族院の父親の元に向かわんとするノエルと、それを止めるクリスの間で押し問答が繰り広げられていた。
実力行使で突破しようとすれば、出れないことも無い。
ただ、それでは互いにただでは済まないし、そんなことをしてまで出るつもりは無かった。
ノエルはあくまでも、相手が認めてくれたうえでなら出ようと思っていたから。
そうこうしている間に、そんな命令をクリスに下した男が帰って来た。
「アラタ! どこ行ってたんだ!」
「クリス、来い」
アラタはノエルを無視して屋敷に入る。
今の彼に彼女に構う時間はないから。
「アラタ!」
「いいのか?」
「時間が惜しい。いいか、もしカナンが負けたらお前がここにいる3人を守れ。いいな?」
「言っている意味が……お前が行くなら私も戦場に……うむぅっ」
アラタは自分の部屋で荷物をまとめつつ、近くにいたクリスの肩を抱き寄せた。
2人以外誰にも聞こえない声で、耳元で囁く。
「先生の力を頼りたいところだけど、あの人はどこまで信用していいのか分かんねえ。頼れるのはお前だけなんだ。頼むクリス、3人を任せていいか」
——当然だ。八咫烏の隊長なら、ただ命じろ。
「……あぁ。第1小隊副隊長クリス、命続く限り、仲間を守れ」
命令を受けた彼女は、いつもと変わらない、無機質な無表情で、確かに頷いた。
「任せておけ。もう誰かを失うのはごめんだ」
「助かる」
アラタは緊急で荷物をまとめ終えると、下の階に降りてシルを呼んだ。
まだ小さいというのに、こんなにもしっかりしているのは少し悲しいことなのかもしれない。
「クリスに詳しいことは言ってある。ノエルとリーゼを頼むぞ。クリスも料理は苦手だからな」
2人の間に言葉はいらない。
アラタとシルは、文字通りリンクしていて、彼が何を考えているのか、どんな気持ちなのかシルは感じ取れるから。
鍛えられた一本の剣のように強靭な心。
子供を見る親のように、寛容で深い友愛の念。
遠くに置いてきた故郷への望郷の思い。
なら、余計な事をいうのは野暮というものだ。
「シルに任せて!」
「いい子だ。リーゼ、ノエルを頼むぞ」
「アラタ。貴方は…………」
「頼むぞ。出発前には一回帰って来るけど、しばらく駆け回る」
「ねえってば!」
屋敷の玄関を出ようとした彼の右手を、ノエルはしかと掴んだ。
今度こそ離さないように、逃がさないように。
置いていかれないように。
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