第265話 甲斐性無し
「もう夕方か」
アラタが気が付いた時すでに日は傾きかけていて、外は赤に包まれていた。
ベッドから起き上がると、部屋を出て洗面所に向かう。
まだ誰も家にいないみたいで、風呂も洗われていなかった。
アラタは風呂掃除をして給湯用の魔道具に魔力を流す。
初めてこの機械を使った時は随分と魔力を消費した印象だったが、今となっては大した量ではない。
この異常な魔力増大の原因ははっきりしている。
彼の持つエクストラスキル【
そして、彼の師であるドレイクは言う。
身の丈に合わない魔力量の増加は、寿命を縮めると。
エリザベスのいなくなった世界で彼はもう寿命なんてものを気にして生きていない。
だから今でも日常的に魔力を消費して容量増加を図っている。
歯を磨き、顔を洗い、髪を整える。
色んな場所を転々としてきた彼の髪を切ってくれる人は固定しておらず、いつも微妙に異なる髪形をしている。
大学生、秋葉原で事件に遭った時は茶に染めていたはずの髪は、転生した時に黒髪に戻っていた。
服も違えば、染髪した色も消えている。
それでも肘の怪我と手術痕が消えないのだから、悪意を持って設定されたとしか思えない。
それもまあ、今となってはどうでもいいことだ。
アラタは金貨を5枚と、銀貨以下の小銭を適当に財布に入れて屋敷を出た。
その辺をふらついていれば誰かに会える。
そんな考えで飲み屋などがある歓楽街の方へと歩いて行った彼だが、生憎今日はカイルの姿が見えない。
顔見知りの間柄に聞いてみても知らないと言われ、今日は用事があるのだと考えることにした。
他にも酒を飲むくらいの仲の知り合いはいたが、どれも今日は見かけなかった。
見かけたとしても既に他の人間と歩いたりしていて、声を掛けるのがはばかられた。
「……一人でいいか」
「今日ヒマ?」
俺の背後を取るとは……なんて達人じみた警戒をしていない彼の背後を取ったのは、いつぞやのレイという花屋の女性だった。
「レイさん。久しぶり」
「お久しぶり。ねえヒマ?」
結構グイグイくる彼女にアラタは後ずさりながら、一応答える。
「ヒマだけど。うん、ヒマ」
言質を取ったところで、レイはにこりと笑うとアラタの手を取った。
「私も今日一人なの。付き合ってよ」
「それはまあ……うん、いいよ」
「今日は飲むぞー!」
そう言ってレイは両手を振り上げて、一緒にアラタの右手が吊り上げられた。
初めに彼女が選んだのは、いつぞやの大衆居酒屋だ。
カクテルも少し出している変わった店だが、今日はそういったものをここで飲むつもりは無いと彼女は言う。
詳しくはお楽しみと言いながら、彼女はエールと結構ガッツリとした食事を頼み始めた。
「アラタは何食べる?」
「そうだなぁ…………」
「ブッブー、決めるのが遅いマイナス50ポイント!」
「何それ?」
「レイ・ポイントだよ。プラスだと良いことあるかも、マイナスだと……」
「あーそういうやつね。じゃあプラス目指して頑張るわ。とりあえずスケアクロウの焼き鳥盛り合わせ」
「それだけでいいの?」
「後で頼む」
「マイナス10ポイント~」
「それどうやったらプラスになるの?」
「自分で考えてよ。マイナス5ポイント」
既にマイナス65ポイントを獲得しているアラタがプラスに転じることが出来るのはいつになるのか。
少なくとも今日中は無理そうだ。
スケアクロウとは元来畑に立っている案山子のこと。
みずぼらしいなどの意味も含まれていて、その名を冠する鳥は痩せていて可食部が少なかった。
ただし味はそこまで悪くなく、人間が飼育して栄養状態をコントロールすることで食卓に並ぶことも増えた。
元々戦闘能力が低く、魔物や危険生物が跋扈するこの世界では餌の入手に苦労していたのだろう。
人に飼われたスケアクロウは結構でっぷりと太っていて、普通の鶏と大差ない。
そしてたまにアラタのように、鶏よりも好きだという人間も出てくる。
「レイさん」
「レイでいいわよ」
「レイはさ、俺に恨みとかを持っているんじゃないのか」
唐突な質問に、レイは目を丸くする。
しかしすぐに『ああ』と何かを思い出したようにマイナスポイントを付与した。
「私のこと疑ったからマイナス20ポイント。この純粋な花屋の娘になんてこと言うのかしら」
わざとらしく花屋であることを強調する彼女に、アラタは少し踏み込んだ。
「今日は夜の仕事ないの?」
「……知ってたの?」
「昨日行った店で声が聞こえた気がした。確証は無かったけど」
「マイナス10ポイント」
ちょうど飲み物が空になり、アラタが追加注文しようとしたときに彼女が制止した。
「次のお店行こ」
「いいけど、どこ?」
「バーだよ。秘密のお話するとこ」
「へー」
別に水商売してたからどうしたって話だけどな。
そう頭の中にありきたりな言葉が浮かんだ彼だったが、同時にこうも思った。
そういう物の考え方をしている時点で、その仕事を特別視しているのではないかと。
そう考えるとどんどん思考がねじれてきて、結局どこからが差別なのか分からなくなり、彼は回線をシャットダウンした。
ごちゃごちゃになって分からなくなったことは忘れるに限る。
レイについていくと、ある建物の2階に上がった。
バーとかそういった隠れ家的な店は地下か半地下にあるという漠然としたイメージを持っていたアラタは少し意外だったが、実際にはそうでもない。
あくまでも彼の貧弱な脳内イメージによる産物と現実の齟齬があっただけで、鉄筋コンクリート工法もない異世界では地下に建物を作ることは珍しい。
「いらっしゃいませ」
壮年のマスターがカウンターの内側から声を掛けて、レイに席を促す。
基本的にバーテンダーに案内されないうちに勝手に席に着くのはNGだ。
「私にはいつものを。アラタには……」
「お任せでお願いします。少し甘い方が好みです」
「かしこまりました」
2人が着いたのはバーカウンターの少し奥まった位置。
彼らから見てバーテンダーは右側の方にいる。
「どこまで話したっけ?」
「レイの仕事の話」
「水商売している女は無理?」
「いや、そんなことないよ」
「プラス10ポイント」
初めてプラスポイントがついたアラタは少し嬉しそうだ。
「ギムレットとホワイトレディです」
2人の前に置かれた白いカクテルは、ライムの香りがするのがギムレット、レモンの芳香を放つのがホワイトレディだ。
どちらもジンベースのカクテルで、ショートカクテルに分類される。
氷などは入れてなく、作ったその時の冷たさを持っているうちに飲み切るカクテルだ。
「ホワイトレディって、女の子みたい」
「マイナス?」
「ううん。その代わりプラスも無し」
評価基準が掴めないまま、時間は過ぎていく。
会話のほとんどは他愛のない話で覆い尽くされていた。
アラタの近況とか、重い話のストックには事欠かない彼だが、そんな話をしては酒がまずくなる。
それを察してかレイもそっち方向の話は意図的に避けているようだった。
「ありきたりな話だけどね、借金があるの」
「ギャンブル?」
「アラタと一緒にしないでよ。父親が作った借金がね……」
「関係ないだろ」
どこまでも甘い考えの人、とレイはロックのウイスキーを口にした。
「法律的に関係なくても、取り立てはやって来るわ」
「そういうことする奴は大体潰したはずなんだけどな」
「昔は違っても、空きが出来たら人間そういう風になっちゃうのよ。私が返済しているところも元は普通の金貸しだった。健全なね」
「取り立てが激しくなったのはいつ?」
「ここ最近。去年の暮れ辺りからかな」
アトラの
じゃあやっぱり……
アラタの中で、行動と結果が紐付けられていく。
正しいことだと思ってやって事でも、全ての人にとって良い結果になった訳ではなかったのだと、目の前の女性が語っている。
そんなの知らねえよと言い切ることが出来たらどれほどよかっただろう。
世の中不幸な人がたくさんいて、そんなのイチイチ気にしてる余裕は無いと割り切れたらどれほど生きやすいことだろう。
ただ、多くの人はそんなに強くできていない。
それを強さと捉えるのかは別としても。
アラタは金貨を5枚出した。
「何? これ?」
「レイが借金取りに追われるようになったのは、多分俺のせいだ。だから、渡しとく」
暗いバーの微かな光を浴びて、金貨が輝く。
キラキラという感じより、鈍くギラりと光るように。
「マイナス10万ポイント」
「インフレしたな」
「そんな安い女じゃないわ」
「ごめん…………でもさ。この手は何?」
アラタの左側に置かれた金貨に向かって、そろりそろりとレイの手が伸びている。
少しづつ、3歩進んで2歩下がり、それでもちょっとづつ進攻していく。
「何でもないわ」
「結構苦しいの?」
「馬鹿ね。苦しいなら今日もお店に出てるはずでしょ」
「たまの休みだったんじゃないか? なのに——」
「シッ。それ以上言わないで」
口に人差し指を当てられたアラタは黙った。
唇にレイの冷たい指が触れてきて、不謹慎だが少し気持ちいい。
「私にお金を渡したところで根本的な解決にはならない。それに、アラタが戦ったことで理不尽な生活を強いられていた人は減ったはずでしょ」
「けど新しいそんな人が、レイが……」
「全然ダメ。マイナス50ポイント」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「…………私はこういうことしか出来ないわ」
「それはつまり……」
「枕営業ってこと。それならつり合いは取れるでしょ?」
「そういうのは……」
「マイナス1万ポイント。そんなこと言って、期待してる顔してるわ」
「しゃあないだろ。そういう生き物なんだから」
「スるの? シないの?」
黒髪ロングに黒い瞳。
すらりと長い脚に女性らしい曲線を描いた体は、アラタの中にいるあの人を思い起こさせる。
もう届かないと思っても、人ごみの中では似ている人を目で追ってしまう。
初めてレイと出会った時、不覚にも少しドキッとしたことをアラタは覚えていた。
瓜二つではない、むしろ顔はそこまで似ていない。
それでも醸し出す雰囲気が、気配が似ていた。
掴みどころのない性格も、時折意地悪な笑みを浮かべるギャップも。
堪え性の無い男だと自己を批判しつつも、アラタは彼女の手を取っていた。
「する。したい」
「結構飲んだみたいだけど、勃つの?」
「もうすでにちょっと来てる」
「早漏?」
「そんなつもりは無い」
「まあいっか。出ましょ」
お持ち帰りコースというか、お持ち帰られコースというか、2人はぴったりくっついてバーを出た。
アラタの手はレイの腰に回されている。
完全にスイッチが入った様子だ。
「そういやホテルってどこかにあるの?」
「そういうのも無くはないけど、私の家じゃダメ?」
「むしろそっちの方がいい」
まだ夜は早く、これから日付を跨ぐまでかなり時間があった。
人並みに経験のあるアラタは久しぶりの行為にドキドキしつつも亡き恋人への言い訳を考えている最中だ。
愛してるけど、そういったのは別だよね。
それはそれ、これはこれ。
愛してるのは君だけ、好きな人は沢山。
……ダメだ、どうやっても角が立つ。
もう仕方が無いと、アラタは諦めた。
割り切ろうと、楽しまないのはレイに失礼だと、ついには相手を免罪符に使い始めた。
そんな彼の元に迫る3つの影。
2人の目は据わっていて、1人の目からは滝のように涙が溢れている。
「アラタ!」
歓楽街から離れ少し静かになった市街地に、ノエルの叫び声が響いた。
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