第300話 変態再び
落ち着け、落ち着くんだ僕。
いいか、相手はまだ芽吹いてすらいない、少し柔くなってきた小さな種なんだ。
決して早まるな、まだその時じゃなぁい。
水に浸けた豆のように柔らかなそれを、蹂躙するように噛み締めたい衝動は今は抑えるんだ。
それはクールではない、僕らしくもない。
あぁ、一目見るくらいは……いいよね♡
ブルブルブルっと体を振動させた金髪の男は、脱力すると同時に息を吐く。
少しの自己嫌悪の時間の後、何もかもを悟ったような気分になるのだ。
男の髪が金から赤に変わる。
それと同時に、眼の色も変わる。
ノエルのような赤ではないが、ワインレッドのような深い紅だ。
そして、とりあえず男はシャワーを浴びることにした。
※※※※※※※※※※※※※※※
「お前ら、マジで余計な事すんなよ」
「何で私までセットなんですか」
「同レートだろ」
「何を! どう考えたら! 私が! ノエルと! 同レベルなんですか!」
「リーゼ、それは酷い」
少しの精神的ダメージを負ったノエルをよそに、リーゼはアラタへ猛抗議していた。
少し近すぎてアラタの鼻の下が伸び始めるくらいには、勢いが強い。
「その辺にしろ」
しかしクリスの仲裁でそれも止まる。
アラタは少し残念そうな顔をする。
彼には彼なりの思惑があったみたいだ。
「じゃ、行ってくる」
そうしてアラタとクリスの2人は黒装束を身に着けて屋敷を出て行った。
グランヴァインの街中は、これでもかというほどに人が溢れている。
それほど多くの人と資源と情報が流れ込む町ということなのだろう。
城としての防御力はアトラと比べ物にならないほど高いが、人の出入りは驚くほどスムーズだ。
先日アラタたちが体験したようなごたごたが珍しいだけで、他は至って緩いのだろう。
彼は悉くトラブルに巻き込まれる星の元に生まれたらしい。
「前から考えていたんだけどさ」
器用に人混みを躱しながら、アラタは話し始めた。
「魔術とかスキルとかを想定した警備って無理が無いか?」
「そうでもないぞ」
「そうなの?」
彼が異世界に来てから、厳密には戦いの日々に身を投じてから、これがずっと分からなかった。
【気配遮断】、黒装束といったものがあれば、いつでもどこでも入り放題。
流石にそこまでは無理でも、それに近いことは出来る。
例えば、誰にも気づかれることなく大公の執務室の前まで行き、そして帰ってくることだって出来る。
安全面でこれほど不安なことも無いだろう。
しかしクリスは問題ないと言う。
「そこまで隠密能力に長けている人間は稀だ」
「でもいるんだろ? じゃあ危ないじゃん」
「非常事態になればそう言うことも考えられるが、平時に他国の重鎮を殺すようなことは無い」
「非常事態になったら来るんだろ?」
「だろうな」
「じゃあどうするんだよ」
「私たちがこれから行く場所と同じような警戒態勢を敷くんだろう」
「ってことは向こうは非常事態だと思ってるって認識でOK?」
「あぁ」
クリスは頷くと、口を閉じた。
もうそろそろ人の数が少なくなってきて、話していると気取られる可能性が出てくるから。
先ほどの件に話を戻すと、魔力存在の感知装置は1m四方単位で月におよそ銀貨2枚。
隠密系の下位スキルに対する警戒装置は同じく単位面積当たり銀貨2枚。
リャン・グエルの持つ魔術効果減衰系のスキル対策を念頭に置いた冗長化で、この3倍。
さらにさらに、高性能な隠密能力を持つ敵に対する警備を配置するために、一人当たり月に金貨8枚。
考えるのも嫌な計算を行うと、キングストン商会の本部に必要な警備に掛かる金額は、月に金貨3,100枚。
日本円でおよそ3億1千万円だ。
つまり365日ぶっ通しで使用すると、37億2千万円になる。
敷地面積で勝る貴族院やクレスト家でこの仕組みを導入しようとすれば、かかる費用はそれだけ大きくなる。
他の場所も同様である。
従って、よほど実入りの良い商売をしているか、明確に命の危険を感じていない限り、こんな警戒態勢は金を食うだけで良いことなんて一つもないのだ。
数か月前、アラタはここで剣聖と対峙し、傷を負いながら生還した。
その際には献身的な治療を受けさせてくれて、非常に恩のある場所と組織。
何があったのか、アラタは未だ詳しいことを知らない。
ただ、今は敵なのだろう。
キングストン商会の周囲をぐるりと回り、建物を見上げた。
50m四方の土地に余裕をもって建てられた商会本部は、コラリス・キングストンが一代で作り上げた彼の城だった。
アラタ、クリス共に、八咫烏としての本能が叫んでいる。
ここから先は、引き返すことが出来ないと。
「行こうか」
「分かった」
2人は中に入ろうとすることも無く、その場を後にした。
そして向かったのは本部の東側にある高台。
グランヴァインで最も高い位置にあるエリアだ。
「状況を整理しよう」
サンドイッチにかぶりついているクリスの隣で、アラタは望遠鏡を覗きながら言った。
「商会には不特定多数の人間が出入りする。入った瞬間にアラートが鳴ることは無いはずだ」
「しかし……むぐっ、んっ、記録されていたら今後動きにくくなる」
「食うか喋るかどっちかにしろ」
「………………」
「食うんかい」
どっちが大事かと聞かれれば、彼女にとっては一択だ。
格子状の反射対策キャップが取り付けられた望遠鏡は、出来る限りレンズの反射による発光を抑えている。
しかし絶対という物はないので、のぞく時間は最小限に留める。
「黒装束に【気配遮断】ならいけると思うのだが」
「まあそうだけどさ。問題は警備だろ」
「貸せ」
伸ばされた手に望遠鏡を置くと、クリスは残ったサンドイッチを口に放り込んでから40ミリレンズに金色の眼を押し当てる。
「2つの門に2人ずつ、あとは……2人組で行動か」
「何人いるのかな?」
「分からん。少なく見積もっても15人以上、多くて40人。中にどれくらい配置されているかが読めん」
「だよなぁ」
アラタはうつぶせになっていた状態から、左隣にいるクリスとは反対方向に180度反転した。
気温は高く、暑いものの、日陰は風が吹いていてひんやりしている。
本業さえ忘れてしまえば、最高の休日だ。
「なぁ」
「なんだ?」
「フェルメールさんに何とかして会えないかな」
「無理だろう」
クリスは即答する。
そんなことが出来るのなら苦労はしないと。
それを聞いた彼から出てくるのは溜息ばかり。
「その内コラリスさんの所に殺し屋とか送り込んでくるのかなぁ」
「それなら私たちの出番だ」
「剣聖とか、ディランとか出てきたらお手上げだぞ」
「呼んだ?」
「おー、久しぶり…………」
久しぶりに地元の友達と出会ったようなノリで、アラタは返事をした。
クリスが望遠鏡を取り落としている。
赤い髪、赤い眼、忘れるはずもない。
心強くもどこか危機感を覚える、そんな裏のありそうな笑顔がそこにあった。
「へいへい、どうしたんだい? もっと再会を喜び合おうじゃないかヘェ~イ?」
「ちょっと待って、理解が追いつかない。なんでここにいるんだよ」
「そりゃあ、街中でアラタを見かけてからここまで付いてきたからね」
「クリス、先帰ってろ」
「私は……」
「僕からも頼むよ。君は少し邪魔だ」
直線的な言い回しとは裏腹に、ディランの声は非常になだらかだ。
心の底からそう思っていて、しかし怒っている訳でもなければ憎んでいる訳でもない。
だから、こんな顔でこんな声でこんな言葉が出るのだ。
クリスは無言でただ頷き、その場を去る。
一度振り返った時に見えたアラタの顔は、ただひたすらに無、だった。
「で、何しに来た」
アラタは望遠鏡を仕舞って、刀を左手で握る。
そういう意志表示だ。
「酷いなぁ。僕はただ友達に逢いに来ただけなのに」
「なんか引っかかるんだよなぁ」
言い現わしようのない嫌悪感と違和感。
それが彼の感じている全て。
しかしそれの原因をはっきりさせるには、時間も、能力も足りない。
ディランはポケットから一通の手紙を取り出して、アラタに渡そうとした。
アラタはそれを見たものの、受け取ろうとしない。
「なにこれ」
「僕から君へのお願いさ。おつかいと言ってもいい」
アラタは渋々それを受け取る。
見た目は普通の白い封筒で、宛名はフェルメール・キングストンと書いてある。
「何の為に?」
「僕は君の力になりたい。だからそうした」
「俺が訊きたいのはそこじゃねえ。なんでてめーが俺たちのやりたいことを知っているのかって聞いてんだよ」
左手の力が強まる。
刀の鞘を握るその手が確かなものになればなるほど、抜き打ちの精度も高まる。
ようするに、徐々に彼は臨戦態勢を整えているのだ。
しかし対照的に、ディランは戦うそぶりを微塵も見せない。
そもそも剣も持ってない。
ただ平坦に、彼は自分の考えを滔々と垂れ流す。
「キングストン商会が何であんなことになったのか、お前の知っていることを全部教えろ」
「貸しがあるのはアラタの方だと思うんだけど」
「ツケとけ」
これだから、とディランはアラタの肩を叩いた。
そんなところも…………おっといけない。
話が先に進まないからと、ディランは折れた。
「商会の販路は知ってる?」
「帝国を中心に全方位。特に北と西に強い」
「そう。タリキャス王国とカナン公国だね。そして、アラタも知っていると思うけど、カナン公国東部で最近何があった?」
「内乱があったな」
「あれが地方貴族だけの力で達成されたと思ってる?」
「全然。現に帝国のAランク冒険者が参戦してたらしいし」
「じゃあ金と物資とそれを流すための流通網は誰が提供した?」
ディランの言っていることは、ほぼ答えだ。
死の商人、その言葉と今の説明はこれ以上ないくらいにフィットしている。
「キングストン商会はそれを断ることが出来なかったかもしれない」
「それは本人に聞くと良いよ」
「そうする。色々ありがとうな」
必要なことを聞き終えたアラタはその場を後にしようとする。
相手からすれば、本当につれない人間だ。
「ちょっと待ってよ」
「あ?」
「アラタ、貸しがあるのは覚えておいてよね」
「あー。出来ればな」
そう言って立ち去りながら手を振るアラタを、ディランはずっと見つめていた。
覚えていたら。
それならば、嫌がおうにも覚えてもらわなくては。
ディランの金色の眼が、怪しく光っていた。
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