第207話 三度目の正直(烏鷺相克1)
「大事なのは、こいつとお前は死ぬべきか否か、絶望するべきか否か、それだけだ」
少年は、1本だけ腰に差したショーテルを抜いた。
作業中、本当なら両方ともどこかに置いておきたかったが、リャンがもしもの為にと彼に装備させたのだ。
そんな彼は今、河原で突っ伏している。
キィの眼から見て、血を流しているようには見えず、かと言って意識があるようにも見えない。
眠らされているだけならどれほど安全か、そう思ったが、そんな可能性は限りなくゼロに近い。
そんなに配慮してくれるのなら初めからリャンを襲ったりしないし、河原に放置したりもしないだろう。
きっと暖かい部屋、ふかふかのベッドを用意してくれるに違いない。
キィは、【敵感知】を起動させたままにしていた。
アラタも持っているこのスキルは、自分に敵意のある人間の存在を把握することが可能な代物だ。
俗に言う、視線を感じる、気配を感じるといった現象に関して、より鮮明に、より正確に掌握することのできる能力ということらしい。
そして、キィのそれは今も発動していた。
しかし、反応がない。
意味深な言葉を口にしつつ、リャンを昏倒させ、自分の方を向いているこの人間に敵意がないわけがない。
なのに、スキルには反応が無かった。
キィのスキル感度はアラタやクリスのそれよりも敏感なのに、だ。
「リャンを殺したの?」
子供らしい、声変わりもしていない声帯で、キィは問いかける。
内容は極めて物騒で、とても年頃の男の子の言葉には思えない。
しかし、純粋な疑問が込められたこの質問に、男は案外気さくに答えてくれた。
「死んではいないが、これから死ぬかはお前次第だ」
さっきよりもさらに、ショーテルを強く握る。
もう1本の剣は拠点に置いてきた。
リャンの剣は敵の向こう側、回収できそうにない。
少年は、魔力を練り、周囲を確認し、スキルを起動する。
少年兵養成所と呼ばれた、孤児院の出身者。
その中でも指折りの成績と実戦経験を持つ、有望な殺しの才能を持つこの子供の額に汗が流れた。
「悪くはないが、良くもないな」
「子供なんだし、大目に見てくれないかな」
キィの流す汗の量が、一気に増えた。
緊張していることもあるだろう、しかし、一番の理由は魔力消費からくる発汗だ。
先ほどからキィは、先制攻撃の為に魔力を地中に流し込んで仕込みを行っている。
使う魔術は土棘、石弾、土壁。
どれも彼が得意な魔術で、アラタがいつもそうしているように、陽動、牽制、あわよくば仕留める為にそれを使う。
しかし、今回キィの魔術は発動できそうにない。
正確に言えば、使うことは出来る。
何ができないかというと、敵に当たる位置での魔術行使が出来ないのだ。
彼が地中に流し込んだ魔力は、本来なら敵の方へと延びていき、最終的に足元から攻撃を浴びせることを想定していて、普段からそういう使い方をしている。
ただし、今地中ではそれとはまったく異なる事象が発生していた。
彼は、孤独を感じるほど、この世界で、この場所で、この立ち位置で閉じ込められていた。
流した魔力は自らの足元からまんじりとも動かず、押し出そうにも何かに邪魔されてこれ以上外に広がることが出来ない。
自分の後ろ側から迂回して展開しようと試みても、全方位敵の魔力で囲まれているのか、浜辺の砂で押し固められたみたいに身動きを取ることが出来ない。
このままでは魔力が逆流する、そんなところまで押し込まれていて、キィは必死に抗っている。
魔力供給をカットしてしまえばその危険性も消えるが、そうすれば自分がそうしようとしたみたいに、今度は自分の足元から敵の魔術が襲い掛かってくる可能性が非常に高い。
つまり、今2人は地面という魔力回路のリソース争奪戦を繰り広げている。
魔力で押し合い、占領し、敵の近くで魔術を炸裂させるための前哨戦。
それは静かに、しかし激しく、目で直接見えない地中で繰り広げられていた。
逃げるの……無理そう。
勝つの……無理そう。
引き留めるの……無理そう。
アラタだけじゃ……無理そう。
クリスと2人なら…………
それなら僕は——
魔力を放出し続けている状態は、例えるなら走り続けていることと同じである。
徒歩と大差ないスピードなら、息も切れずずっと走り続けることが出来るが、全力なら息をすることすらきつい。
キィの現状は、全力ダッシュをしているのと同じ。
それでは、満足に肺に空気を送り込むことが出来ない。
「むっ」
一瞬で、ガクッと手応えの減った様子に白髪の男は声を漏らした。
全力で押し合っていて、急に力を抜かれた時の感覚、それは男に瞬きほどの意表と、この場における魔術的制御権を手に入れたことを意味している。
スゥゥゥウウウッ。
まるで栓の壊れた蛇口のように、大地から土の棘が突き出してきた。
出口を探していたように、それは無造作に、無秩序に、乱雑に、煩雑に繰り出され、一つ一つの精度なんてとても気にしていない。
制御権を完全に明け渡し、攻撃が発動されるまでの僅かなタイムラグの中で、キィは真上へと飛び上がった。
魔術を躱し、届いた分はショーテルで捌き、それでいて目一杯空気を吸い込んだ。
これが、彼なりにやろうとした精いっぱいのこと。
ここからさほど離れていない拠点に向けて、大声を上げて異変を知らせ、逃げるように伝える。
「逃————」
「合格だ」
その声が、アラタ、クリス、エリザベスに届くことは無かった。
※※※※※※※※※※※※※※※
「今なんか聞こえなかった?」
野兎を捕まえてきたアラタは、燻製にするために獲物を捌いている。
この世界に来たばかりの頃は、ウサギを食べるなんて野蛮な奴らだとノエルやリーゼを笑っていた彼だったが、ほぼ鶏肉みたいな味の獣は、アラタの好みにしっかりと合致した。
「分からないな。エリは聞こえたか?」
エリザベスはううん、と首を横に振る。
風の音だったのか、一応【敵感知】で周辺を索敵してみた2人の結果は同じ、特に異状は無かった。
春の強風が吹き荒れ、土埃が舞い上がる。
強い風が一度吹く度に、キロ単位の砂がどこかへと運ばれていく。
それに含まれた植物の種子や微生物は、舞い降りた先で新しい命を芽吹かせる。
そうして徐々に植生は変化して、環境は作り出され、変化していく。
そう、変わらないものなんてどこにもないのだ。
苦しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、楽しいことも。
みんなみんな、巡り巡って
旅の終着が、見えた。
カチン、と金具の鳴る音が聞こえた。
それはクリスの短剣が合わさった音だ。
2本の短剣がぶつかり、金属音を響かせる。
つまり、先ほどまで休憩しながらアラタの作業を眺めていた状況から変わり、彼女が剣を取らなければならない状態に移行したということである。
「アラタ」
「エリーを後ろへ」
冷静になれ。
アラタは自分にそう言い聞かせる。
平静を装え、悟られるな、仮面を着けて、感情を表に出すなと、そう努める。
川の方から何かがやって来て、それがアラタにとってこれ以上ない絶望の象徴だったわけだが、そいつが両手に引きずってきたものを、リャンとキィを見て、アラタの頬は紅潮した。
「名前と所属を言え」
抜刀したアラタは、クリスとエリザベスを後ろに下げる。
【敵感知】に引っかからないという現象は彼も体感している真っ最中で、未だに現状が呑み込めていない。
ただ、レイテ村での邂逅が、アトラダンジョンでの死闘が、この男はヤバいと、そう教えてくれる。
「名前はユウ、所属は無い」
3度目の遭遇で、ようやくアラタは男の名前を知った。
苗字は無いのか名乗らないだけなのか、いずれにせよ所属を明かす気はないらしい。
大公選後のこの時に、エリザベスを伴って逃走中の彼らに、未開拓領域近くのこの場所で、偶然出会うことなどあるはずもない。
「所属なし、ね。友達いなそうだもんな」
「必要ないからな」
アラタの中で、所属を明かさない説と所属が無い説が拮抗していたが、今のやり取りでそれが少しだけ後者に傾いた。
何らかの目的があるにせよ、本当に派閥に属していないのかもしれない。
「ユウ、何の用ですか」
玉を転がしたような声で、彼女は問う。
「なに、相談役たちがお前を殺せと煩くてな。理由もあることだし死んでもらうことにした」
「知り合い、相談役……レイフォード家か」
レイフォード家の当主は今もエリザベスであることは確かなのだが、アラタは相談役という名前に聞き覚えがある。
首飾りを寄越した奴ら、自分とエリザベスの仲を引き裂き、その前にはノエル、リーゼとの離間も画策した連中。
彼の中で、敵の姿がようやく確定した。
「アラタ、クリス、ここを離れて」
敵から目を離せないアラタは、想い人の声を背中で聞く。
彼女の顔を見たい、隣にいたい、髪を撫でたい、でも、そうする余裕はない。
徐々に近づいてくる足音が、自分に向かっているものでもないことを、彼は理解している。
しかし、理解していると言っても、それを認めることなんて、そんなことは到底できようはずもない。
「クリス。エリーを連れて逃げるか、俺とここで戦うか、どっちがいい?」
「愚問だな。足止めしたところでいずれ追いつかれる。ここで勝つ以外に、私たちの取る方法は無い」
「だよな」
クリスの両手は、今まで多くの物を取りこぼしてきた。
アラタもそれは同じ、八咫烏とは、何かを失ってきた、そんな人間の集まりだ。
居場所を、大切なものを、大切な時間を、大切な人を、失い、捨て、壊し、生きてきた。
だからこそ、彼らは今その手にある物を必死に守ろうとする。
全力で取り組まねば、必死にならなければ、ふとした瞬間にそれは無くなってしまうと、彼らは
「アラタ、私は…………!」
「こいつに勝って、そのあとに聞かせてほしい」
刀を下段に構え、相手の動きを見つめるアラタの背中を見て、エリザベスは口を噤んだ。
無力な、戦えない自分では、彼らの世界にこれ以上踏み込むことは出来ないから。
「わ……ふー。2人とも、勝って」
「任せろ」
「おう!」
幼馴染の声援を受けて、奮い立つ2人。
それに対して、ユウと名乗った男はリャンとキィをそこに降ろした。
見たところ、目立った外傷もなく、脈までは分からないが、息をしているようにも見える。
気を失っているだけであると、そう信じたい。
「……それでいいんだな」
身の毛もよだつ、冷たい視線。
爪と指の間に、氷の針をツプッと差し込まれたような、底冷えするような冷たさと、熱さにも似た痛み。
確かに敵は正面にいるはずなのに、上下前後左右360度、全方位から見られているようなプレッシャーを感じる。
ペットのケージの上から見下ろされているような、途方もない実力差を、彼らは戦う前から一方的に押し付けられていた。
その中で、男は一歩、足を前に踏み出す。
相手が自分より強かろうが弱かろうが、戦うと決めたなら、道は前にしかないと、立ち向かうしかないと、今までの人生が物語っているから。
「八咫烏総隊長、アラタ・チバ」
「第1小隊副隊長、クリス」
「……ユウだ」
八咫烏の2名が名乗りを上げ、相手の番とばかりに自分の方を見つめてきて、答えないという選択肢は無いかと男も名前を口にする。
「三度目の正直だ。今回は勝つ」
燃えるような目で、決意を口にしたアラタを前に、ユウは少しワクワクしていることに驚く。
自分の中に、まだそんな感情が残っていたのだと、久しぶりに自分に驚かされたのだ。
知らず知らずのうちに、私は乗せられているのかもしれないと、ユウは笑う。
「二度あることは三度ある。今回も勝つ」
ガラガラと雑に剣を引き、だらんと片手でそれを構えた。
「行こう」
「おう」
烏と鷺の全てを懸けた血戦が、幕を開けた。
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