第289話 片側だけの世界にさようなら

「これより竜玉を用いた硝子体最適化術を行う。作業開始」


 7月28日、患者クリスは左目の視力回復のために手術を受けることになった。

 手術と呼んでもいいものなのか怪しいところなのは百も承知。

 それでも治る可能性があるのなら、彼女はそれに賭けてみることにした。

 執刀するのはアラン・ドレイク。

 そしてリーゼ・クラーク、タリア、リリー。

 そこにサポートとして医師1名と看護師2名が入る。

 場所はアトラの病院を借り、午前10時にそれは始まった。


「すぅぅぅううう、はぁぁぁあああ」


「アラタ、少しは落ち着きなよ」


「それが出来たら苦労しない」


 院内に居座られても邪魔だからということで、アラタとノエルとシルは近くの広場で時間を潰していた。

 中央に噴水のある、綺麗な場所だ。

 噴水を中心に円環を描くように、ベンチがいくつも置かれている。

 昼間からそこで横になっている人間もいれば、荷物を隣に置いたまま寝ている者もいる。

 そして従来の使用法通り、3人で腰かけているグループも。


「一口食べる?」


「今は無理。全部出そう」


「心配性だなあ」


 ノエルは手に持っていたクレープにかぶりつく。

 シルも同じものを食べていて、アラタだけが何も食べていないし飲んでいない。

 それくらい、アラタにとってこの手術は緊張するものだったのだ。

 彼の責任ではないことは、彼自身理解している。

 アラタがそんなことを口にすれば、逆にクリスから怒られるであろうことも。

 ただ、そう簡単に割り切れる性格をしているのなら、アラタはもっと生きやすかった。

 ノエルは最後の一口を食べ終えて、口元についたクリームを拭く。

 シルはまだ食べている最中のようでクレープに夢中だ。


「アラタ、何か食べた方がいいよ。朝ご飯食べていなかったじゃないか」


「そう……なんだけどな」


「大丈夫だよ。あれだけのメンバーで臨んだのだから、きっとうまくいくよ」


 アラタは答えない。

 ただ、青白い顔をして地面を見ている。

 ドドド、と噴水が水を突き上げている音が響いていて、その音を背景に人々の喧騒が辺りを包んでいる。

 なんてことない日常の中の1ページであることを疑わないような、夏の午前中。

 日向にいると何もしていなくても汗が出てきて、服を濡らす。


「日陰行こう。暑い」


「そうだな」


 丁度シルが食べ終わったところで、3人は広場を後にした。

 クリスが手術を受けている病院を背にして、そこから逆方向の公園の中に入っていく。

 樹木が所狭しと植えられているこの公園なら日陰も有り余っていた。

 3人は大きめの木の下に落ち着いて、辺りを駆け抜ける風に当たる。


「ふぃ~、今日も暑いな~」


「もう夏だな」


 日頃から外に出て活動している2人はそれなりに日焼けしている。

 日焼け止めを塗っているノエルでさえも、流石に全く焼けないというのは不可能だ。

 唯一白いのはシルだが、この幼女は妖精の一種なので、そもそも日焼けするのか怪しい。


「今何時?」


 アラタが訊く。

 この世界で懐中時計は高級品だ。


「10時25分」


 ノエルは見るからに高そうな時計で時刻を確認した後、蓋を閉じてそれを仕舞う。

 まだ手術は始まったばかりだ。


 アラタはバッグの中から1冊の本を取り出し、それを開く。

 タイトルは、『魔術回路入門』、著者はアラン・ドレイクだ。

 魔術とは、魔術回路とは、魔力とはというところから始まり、基礎的な考え方や回路構築にかかるコストや技術、その難易度まで網羅的に解説してある、まさに入門書だ。

 アラタほどの使い手が今からそれを読むメリットはそこまでないのかもしれない。

 ただし、この勉強目的が魔術に関するものだった場合は、の話だが。

 彼はこの本を、文字学習のために使うつもりらしい。

 なぜか日本語が公用語、というよりそれ以外の言語が使われているところを見たことが無いアラタは、文字が日本語ではないこの世界でそれなりに苦労した。

 じゃあ言語も違う方が良かった? と、あのいけ好かない幼女が笑いながら言いそうなところが余計に癪に障る。

 とにかく、一通りの読み書きを習得した彼だったが、まだまだ勉強の日々は続く。

 しかし、今日の進捗は芳しくない。

 当然だろう、こんな状態、気持ちで勉学が捗るはずが無かった。


 アラタはすぐに本を閉じると、袋にしまってある刀に触れた。

 湾曲していて、強く、美しい。

 美術品としての価値もあると評価されるのも頷ける。

 ただ、それを愛でる気持ちも起こりそうにない。

 何も手に付かない、そんな感じだ。


「アラタ、はい」


「何これ?」


 アラタが一人の世界に入っている間にどこかへ出かけていたのか、ノエルは何か小さな包みを持って立っていた。

 隣のシルは既にそれを持っていて、彼女の両手には1つづつ包みがあった。


「サンドイッチ」


「いや、それは分かるけど」


「一緒に食べよ?」


「お腹空いてない」


「何か食べないと、今日一日持たないよ」


「……分かった、ありがとう」


 やっとこさアラタがそれを受け取ると、ノエルはニコニコしながら隣に座る。

 サンドイッチと言って買って来たそれは、日本のコンビニで売っているような綺麗な三角形のそれではなく、パン屋で売られているような丸いパンに具材が挟まれている。

 食パンもないこともないのだが、そこまで広く大勢力を築いているわけではないパン界隈において、サンドイッチの形がこうなるのは至極当然の流れだった。

 チーズとレタスとハムが挟まっている、ベーシックで一番安いサンドイッチ。

 一口噛むとチーズの塩気が広がって、それと一緒にレタスの瑞々しさも飛び出してくる。

 申し訳程度の肉要素として薄いハムが採用されているところが安さの理由だとしても、十分美味しい。

 美味い食事は、生きる活力を与えてくれる。

 アラタの表情が少し柔らかくなった。


「普段からそれくらい優しそうならいいのに」


「余計なお世話だよ」


 クレープを食べて、それからサンドイッチも食べて、恐らくこれから昼食も取るであろうノエルに対して、アラタは肥満を忠告しようとしてやめた。

 それこそ余計なお世話だったから。

 それに、ノエルは痩せてはいないが色々貧相だと、アラタは思っている。

 冒険者らしく下半身の土台はしっかりしているというのに、剣聖の力に頼ることが多いからか上半身が少し華奢だ。

 アンバランスだし、あまり良い状態ではない。

 こんなに食べているカロリーは一体どこへ消えてしまったのかと気にもなる。


「なに?」


「何でもない」


 しかし、少しそういうそぶりを見せるとすぐに勘づかれるからアラタも動きにくい。

 シルとのリンクほど筒抜けでもないが、隠し事が難しいほどに鋭い。


「ずっとこんな毎日が続けばいいのに」


 ふと、おセンチな気持ちになったノエルは、ガラにもないことをいう。


「もちろん手術のことは関係ないぞ」


「分かってる」


 あくまでもクリスの手術がどうとかは関係ないと前置いた。


「アラタは、いつまで私たちとパーティーを組んでくれる?」


「大公が終わりというまでかな」


「本当か?」


「ウソつく必要ないだろ」


「それもそうだ」


 黙ってサンドイッチを食べ続けているシルには、アラタの気持ちが少し流れ込んできている。

 アラタの性格や、考えが伝わってくるのだ。

 それらを加味すると、彼の言葉はやや言葉足らずで、それでいて足らない部分を捕捉するわけにはいかなかった。

 そんなことをすればノエルが落ち込んでしまうだろうから。

 絶妙なバランスで、ぎりぎりで成り立っている日常だったとしても、シルやノエルにとっては待ち望んでいたものなのだ。

 ならせめて、今この瞬間だけは何も考えずアラタがいてくれる毎日を過ごしていたい。


「アラタ?」


 軽食を終えて、立ち上がる。

 平静を装っていても、食事をして少し余裕が出来たとしても、手術が気になって仕方がないみたいだった。


「病院に行ってくる」


「私も行こう」


「シルも」


 3人は元来た道を引き返して、噴水広場を通り抜ける。

 そこまでくれば後は目と鼻の先で、道路一つ跨いで病院だ。

 手術室へは裏口から出入りする必要があり、先ほど出てきた扉に回るべく建物の反対側へと回った。

 手術中なら追い返されて終わりだろうが、そう思いながらも動かずにはいられない。

 そんなとき、懐かしい感触がアラタの中に去来した。


 ——クリア、明瞭だな。


 瞬間、アラタは無意識に【身体強化】を発動させていた。

 建物の外側に居ても、この感触で相手がどこにいるのか予測できる。

 何回も練習した、何回も実践した、何回もやり取りした、何回も命を助けられた。


「アラタ!?」


 病院の外壁にある僅かなとっかかりに足をかけて、駆け上がるように3階まで登る。

 ノエルは突然の奇行に驚きつつも、シルを連れて裏口から建物の中に入った。

 空いている窓から侵入した不法侵入者は、【気配遮断】で入院患者に気取られることなく音もなく建物内に入り込んだ。

 廊下を走り、そして辿り着いた病室には…………


 ——クリス。


 アラタの呼びかけに、左目を包帯でぐるぐる巻きにしたクリスは答える。


 ——久しぶりの感覚だな。


「…………良かった」


「おい、離れ……まぁいいか」


 ベッドの上に座っているクリスを、アラタは力いっぱい抱き締めた。

 彼に慰められるようなやわな女ではないし、別に彼女がそれを欲したわけではない。

 それでも、アラタはこうせずにはいられなかった。


「俺、俺……ずっと申し訳なくって。だから……だからぁ、良かった、すまなかった」


「その話はするなと言ったじゃないか」


「でもさ……やっぱり俺があの時決断していれば、お前の眼はこうならずに済んだのに。だから俺は……あの時の選択をずっと、ずっと後悔していて……」


 クリスの包帯が少し湿っている。

 涙腺までは破損していなかったので、こういうこともある。


「まったく、特配課やリャンとキィが見たら笑うぞ。そんなんで八咫烏をまとめていたのか、とな」


「ごめん、ごめんクリス。でも、俺は……」


「仕方がない奴だ」


 クリスはアラタと密着したまま、器用に包帯を外していく。

 肌を傷付けたり縫合したりはなかったので、包帯は便宜上の物でしかない。

 術後すぐに異常事態が発生した時の保険だ。

 それを彼女はクルクルと外していき、最後に取り戻した包帯の切れ端を丁寧に畳む。


「久しぶりの両目は酔うな」


「金色の眼になってんぞ」


「まあ色なんてどうでもいい。視力さえあれば事足りる」


「お前らしいな」


「いい加減離れろ。子供かお前は」


「悪い」


 人間の外部情報源は、ほとんどが視界情報である。

 とりわけ奥行きという概念は、眼が2つあることを前提に組み立てられている。

 隻眼でもできないことは無いが、真価を発揮するのは難しい。

 灼眼虎狼の中で最もハンディキャップが大きかった彼女の視力が回復したのだから、これほどうれしいことは無い。

 しかしそれ以上に、アラタは彼女の視力回復を喜んだ。

 あまりに鬱陶しくてクリスが無理矢理引き剥がすくらい、アラタは喜んだ。


 その日、クリスは片側だけの世界に別れを告げた。

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