第100話 入隊
抜刀。
【痛覚軽減】、【身体強化】、【敵感知】、起動！！！
ティンダロスの猟犬、そう名乗ったノイマンに対してアラタは魔力を練る時間も惜しみ、まだ十全に力が流れていない状態の刀で斬りかかった。
鞘を握り、柄を握り、鯉口を切り、そして流れるように斬りつける。
本人の出来る限り最速で、周囲から見てもまさに間髪入れず即行動に出たアラタだが、相手も状況も悪い。
この場に彼の味方をする者は誰もいない。
そしてアラタ一人で全員を斬り伏せることが出来るかと言われれば間違いなく不可能である。
つまり彼は詰んでいたのだ、刀を抜いた時点で。
胴を狙った居合は躱され、しゃがんだノイマンに対しアラタは大上段から両断しようと試みる。
だが、四方八方から飛んでくる敵感知の反応、その中でもひときわ強く大きく刺すような反応の後、彼の右側から投げナイフが飛来した。
頭のこめかみ付近を狙った攻撃は前かがみの姿勢から上体を引くことで外れる。
真っすぐな軌道を描いたナイフとすれ違うようにアラタの視線は右へと流れ、キャンセルされた一太刀は左袈裟斬りに切り替えられ短髪の女性、クリスに迫った。
この時点で既に刀には魔力が
入る、物体を捉えた確かな手応えは敵を斬ったそれとほぼ同じだ。
しかし、そこから肉を斬り骨を断つ感触が続かない。
布を斬り、そこから先は空を斬ったのだ。
クリスの身に着けたローブは肩口の留め具が破壊され、床にパサリと落ちた。
持ち主はそれを気にするそぶりもなく、お返しとばかりにアラタの左わき腹に蹴りをお見舞いする。
華奢ではないが、かと言ってそこまで重さがあるようには見えない彼女の肢体から繰り出された一撃は存外重かったようでアラタの身体が宙に浮いた。
……くっそ。
着地したアラタを待っていたのは、床を粉々に粉砕し、魔術によって生成された水を含ませることで作られた即席の沼地だった。
深さは大したことは無く、ひざ下まで浸かってしまう程度のものだ。
頭まで沈み溺死してしまうような恐るべきものではなく、沼の
だが、これが戦闘中に突如現れるとしたら？
答えはアラタが身をもって体感している最中だった。
両足をドップリと泥に漬け込んでいるアラタは四方から武器を突き付けられ、ゲームオーバーだ。
刀を放し、両手を上げつつ密かに魔力を練るが、魔術回路を構築しようとしたところでそれを実現することは叶わず、保持していた魔力が無に還る感触に包まれた。
前もどこかで……この状況、フリードマンの時のあれか！
「分かったみたいだな。まあなんだ……少し落ち着け」
アラタの捨てた刀を拾いあげ、泥を拭い机の上に避難させるノイマン。
初撃を防ぐために抜かれた剣は鞘に納められ、彼には敵感知が反応しない。
だが、アラタの中で敵感知のスキルへの信頼は絶対ではない。
「レイフォード家が裏で飼っていたのか。道理で見つからないわけだ」
「落ち着けって、俺たち別に悪人じゃ——」
「悪人だろ？ お前らの素性は分からないけど、その情報や身柄には懸賞金が掛けられている。世間でお前らはいくつもの事件の容疑者で、即討伐も許可されているんだよ」
ノイマンはどうしたものかと無精ひげをジョリジョリと触りながら天井を見上げる。
その殺気の無さから、今すぐアラタを殺そうとかそのようなことは考えていないことは理解できるが、解せないのはわざわざ自分たちの正体を明かした点だ。
悪人が自らを悪人だと市中で触れ回りながら悪事に手を染めることなどありえないように、普通世間一般に忌避されていると知りながらその組織の構成員であるとカミングアウトすることには基本的にメリットが存在しない。
「剣を収めろ。アラタを引っ張り出してやれ」
彼の指示で猟犬たちは武器を収め、アラタを解放した。
それはいつでも殺せるという意思表示なのか、それとも本当に危害を加える気はないのか、アラタは判断に迷う。
少なくとも、今こうして目の前にいる人たちは、言われなければ猟犬だと思えない人相をしているし、そもそも殺すつもりなら俺は今生きていない。
落ち着きを取り戻し、話せる状態になったのだと判断したのかノイマンは椅子を二つ持ってきて、一つをアラタの前に置き、もう一つの椅子を背もたれを前にして自分が座る。
「まっ、せっかくここに来たんだ。仲良くしようぜ」
前後左右不均等なせいで、ガタガタと座り心地の悪い椅子に腰かける。
「仲良くするかどうかはまだ判断しない。それよりも、何で俺を殺さない？ 何で正体を明かした？」
「何でって、職場に来た新しい同僚を殺すってやばくないか？」
当然のことを当然のように、この異常なシチュエーションで言ってのけるあたり、ノイマンと言う男を始めとしてここにいる者たちは一般人とは異なる価値観を有する集団であるようにアラタには思えた。
だが、それをいちいち掘り下げていても仕方がないのでスルー、心のうちに秘めておいて話を続ける。
「まあいいや。お前らは自分たちを悪人じゃないって言ってたけど、本当にそう言い切れるのか？」
面と向かって正面から問われたノイマンは、どう答えたものかと逡巡し周囲に助けを求めるが、皆の視線は、『お前が話せ』と言わんばかりで誰も助けてくれない。
俺一応ここのトップなんだけどな、と全く威厳の無い猟犬のトップは自ら組織の紹介に入る。
「俺たちはさ、囮捜査って言うほど高尚なものでもないが、警邏の連中や冒険者に出来ない方法で治安維持に尽力しているんだ」
「具体的には？」
「例えば……最近貴族院がやっているアトラでの盗賊狩り。ありゃあ俺たちの掴んだ情報を基にして動いているし、何なら俺たちはずぅっと奴らの動向を追って、管理して、誘導して、被害を減らそうと活動してきた。貴族内部の不穏分子の粛清や公に認められていない闇取引の証拠集め、その他諸々、だから俺たちは雑用係なんだ」
…………筋は通っている、のか？
Eランク冒険者では機密性の高い情報に触れる機会も権限も実績も持ち合わせていない。
だから準備が必要なものを除いて、クエスト受注まで何をするのか分からなかったのだ。
ただ、彼が参加するクエストはどんな情報に基づいて実行されるに至っているのか、気にはなっていたし、もしノイマンの言葉が真実ならフリードマンの闇奴隷市を摘発した時、こいつらを連れたエリザベスがいた事にも辻褄が合うのだ。
「だけど……急にそんなこと言われても、信じられるわけないだろ」
「そりゃそうだ。だから相談役達はお前をここに寄越したんだろう」
相談役、エリーの言っていたお婆様達ってやつか。
エリーの元にいて、俺がいずれ猟犬に関する情報に触れる可能性を恐れた？
いや、自慢じゃないけどエリーに説得されたら俺は多分猟犬の活動に目を瞑るだろう。
なら……俺を監視しておくために、目を離さないためにここに放り込んだのか？
わかんねえ、どこまでばれているのか、スパイだとばれているのか？
それとも警戒している最中なのか？ ぼろを出せばすぐに処分できるように。
いくつかの選択肢がアラタの頭に浮かび上がり、ある一つの答えを選んだ。
「監視だ」
「何の？」
「取り敢えずお前ら猟犬の監視の為にここにいることにする。言っておくけどまだお前らを信じたわけじゃないからな」
「聞いたかエスト？ こんなこと言っちゃって、土壇場で俺のこと助けてくれるんだぜ？」
「隊長、それは同意しますが、男同士のツンデレは自分には耐性がなく……少し外の空気を吸ってきます」
「皆、ツンデレってなんだ？」
「隊長は知らなくていいです」
「隊長は知る必要ありません」
「ツンデレを汚さないでください」
敬語で接すれば何を言っても許されるのか、ノイマンに対する部下たちの態度は辛辣でしかなく、少し落ち込んだノイマンはアラタの肩を叩く。
「ま、これから仲良くしような」
「……人望ないんすね」
ついさっきまで命のやり取りをしようかとしていたことなんてすっかり忘れ、猟犬の人員ともそれなりに打ち解けたアラタは外で身に着ける黒装束を受け取り見た目はすっかりティンダロスの猟犬だ。
信じたわけじゃない、それはアラタの本音であり、これからも彼のスパイ生活は続いていく。
心の中に抱く疑念はまだ晴れておらず、シロである証拠もクロである証拠も得られていない。
ただ、それがどんなに受け入れがたいことでも、どんなに信じたくないことでも、正しい証拠があればそれは真実足り得るのだ、否定することはできないのだ。
特にここは異世界、アラタの元居た世界の常識が通用するわけではないのだから。
アラタ・チバ、19歳。
ウル帝国歴1580年、翌年の春に大公選を控えたこの時期に、最有力候補エリザベス・フォン・レイフォード傘下の非公式諜報部隊、レイフォード物流事業部特殊配達課、またの名をティンダロスの猟犬に入隊。
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