第213話 竜虎相搏(烏鷺相克7)

 4月6日。

 その日は、夜通し降り続いた雨が上がり、森はしっとりと湿っていた。

 降雨量は結構なものがあり、場所によっては泥沼のようにぬかるんでしまっている。

 こんなところに踏み込めば、たちまち泥だらけになって洗濯に手間取ること確実だろう。

 朝日が水たまりに反射して、一枚の写真のような光景が広がっている。

 そして、その中に踏み込む2人の男。

 1人は仮面を着け、黒一色の装備に身を包んでいる。

 そしてもう1人は、何の変哲もない通行人Aのような服に、剣を提げている。

 朝6時半。

 両者は、まるで磁石のように引き寄せられて、この場所にやって来た。


「今日で全てが終わる」


「終わらせない。俺の中ではようやく始まったばかりだから」


 ここに来るまでに泥だらけになった2人の靴は、これまた違いがある。

 その手に剣を内包する男の靴は、高さがくるぶしくらいまでの普通の革靴だ。

 化学繊維なんてものが存在しないこの世界で、革靴は極めて一般的なそれと言える。

 対して刀の持ち主は、ひざ下まであるブーツを装着していた。

 これまた紐まで真っ黒な長靴は、魔力を流すと隠密性能と、防具としての防御力を向上させる機能が組み込まれている。

 賽の目のように細かく刻み込まれた魔力伝達用の回路が、攻撃を受けると破損する。

 するとその箇所から魔力が溢れ出し、瞬間的に衝撃を相殺しようとするのだ。

 そして、一通り魔力噴射を完了すると、その部分は特殊な染料が流れ込み封鎖される。

 魔力が流れなくなる代わりに、その場所からの魔力漏れを防ぐ仕組みだ。


「よく眠れたか」


「おかげさまで」


 そう答えるアラタの目元には疲労の色が滲んでいる。

 クリスの体が万全ではない状態で、2人仲良く寝こけることは流石に出来なかった。

 ユウの襲撃があるかもしれないというのが頭の片隅にあったのと、魔物の襲来が考えられたためである。

 事実、雨が降っているにもかかわらず山狼が近くをうろついていた。

 結局奴らが攻撃してくることは無かったものの、夜通し警戒を解くことは不可能。

 徹夜で、彼の体力は万全ではない。


「ま、殺しはしない」


 相手の状態に関わらず、無力化するけど殺しはしないという、ユウの傲慢な言葉を受けて、アラタの中で何かが沸き立つ。

 マグマのようにどろりとしていて、高温で、今にも発火しそうなそれを、努めて鎮める。

 冷静さを失っては、彼に勝つことは出来ないから。

 力も、頭も、技術も、心も、全てを懸けて望んで、それから初めて同じ舞台に立てるかどうかといった実力差。

 彼にとって幸いだったのは、ユウが彼のことを非常に甘く見ているという点だ。

 そこに、彼はなけなしの勝機を見出す。


 体の右側に、敵に柄を向けて構える。

 脇構えという、五行の構えの内の一つだ。

 刀身の長さを隠し、自身の左側に攻撃を誘導する構え、かつ後方への対処を念頭に置いた基本形。

 そして、アラタは走り出す前、この構えを好んで使っていた。


「フッ!」


 無酸素運動を始めた。

 距離はほんの十数メートル。

 刀に込める魔力は無属性、回路も同様だ。

 まず、放たれたのは閃光。

 雷撃を真正面から仕掛ける。

 そして、その陰に隠れるようにアラタの両脇から合計5つの礫が射出された。

 射撃と走行、流石に前者の方が速い。

 ユウはそれを待ち構えるだけ。


「シッ!」


 短く吐き切られた呼吸に次いで、低い位置からの突き。

 それをひらりと躱したユウに、石弾が迫った。

 ただ、狙いはそこまで正確ではなく、一つ二つ捌くだけで、残りは勝手に外れていく。

 両者の距離、50cm。

 アラタは刺突を繰り出した勢いそのまま、左足で横薙ぎの蹴りを出す。

 中段蹴りはユウが頭を下げることで空振り、お返しとばかりにユウから剣が差し出された。

 アラタのそれよりも数段速く、鋭いそれを、彼は紙一重で躱す。

 潜伏している時は、雀の涙ほどの殺気も放たない癖に、戦闘状態に移行すればそれだけで人が気絶しそうなほど濃密な殺意。

 首筋に赤い線が入り、ほんの少しだけ血が垂れた。

 出来るだけ防御箇所を網羅的にカバーしても、可動範囲の広い部分はどうしても薄くなってしまう。

 こうして首元を狙われると、素肌に攻撃が届く事だってある。


 これが後少しでも右にずれていたら、そう考えると思わず血の気が引いていく。

 だが、そんな精神状態では斬り合いなんてとてもできるはずもなく、彼の表情に変化はない。

 仮面の下に顔を隠した男は、半回転しながら胴を打ち込んだ。

 ユウはその間に剣を引き戻していて、これをしっかりがっちりと剣で受ける。

 昨日使っていた剣とは違うそれで。

 こうして2人は鍔迫り合いに移行するかに思えた。

 遠くからこの戦いを監視し、援護のタイミングを見計らっているクリスの眼にそう映ったということは、彼らがそう演じていたのだろう。

 演じていたということは、相手にその場に留まっていてほしいという意思の表れ。


 次の瞬間、アラタの足音から鋭い岩石が生成され、彼に襲い掛かる。

 対してユウの背後には、アラタが仕込んだ雷撃が時間差で発生し、彼もろとも打ち抜こうと走り出した。

 土棘に跳躍で対応したアラタの首元を、敵の左手がむんずと掴む。

 そしてそのまま腕力にものを言わせて半回転、彼の放った雷撃の盾にされた。

 魔術は既に完全に発動し、術者のコントロール下から離れている。

 魔力で再現された雷を消すことは出来ず、アラタの体は徐々に思考を置いてけぼりにして動き始めた。

 右手一本で刀を逆手に持ち替え、背後に感じる雷撃を全て掬うように鮮やかに振るった。

 すると光は刀に吸い込まれるように消え、代わりに刀が淡い光を帯びる。

 持ち替えた刀で、自分の放った雷撃を吸収したのだ。

 やってみろと言われて、言われたとおりに出来る人間が、いったい世界にどれだけいるのだろう。

 魔力の塊を、魔道具に流し込み、その効果が自分の体に及ぶ前に制御下に置く。

 発想自体はありきたりだが、それをこの場で成功させる技量の精緻さと、胆力は並ではない。

 はっきり言って、神業だった。


 雷撃を吸収した勢いそのまま、アラタは金色の刃を振りかざす。

 頭に向けられ、そのまま脳みそを半分にしてやろうかという攻撃は、これまた残念ながら外れた。

 しかし、この技はこれで終わりではない。

 刀の軌跡には5つの煌めき。

 時間差で発動された雷撃は、刀の軌道上からわざと放出した魔力の残滓によって構成されていて、ユウに襲い掛かった。

 ほぼゼロ距離、先ほどの一閃は躱されたがこれは躱しきれないだろう。

 5つ、全ての雷撃の着弾をその目で確かに確認した。

 敵の体ごと、自分の胸ぐらを掴む手が揺れるのを、アラタは感じていた。

 確かな手ごたえ、ぐらつくユウの体幹が、それを物語っている。

 胸元にあるユウの左手を取ると、至近距離で風刃を使ってその手を切り刻もうとした。

 風刃とはその名の通り、風属性の薄い刃で切り傷を付けることを目的とする魔術の一種。

 アラタのそれは、肉ならある程度切り裂くことが出来るほどの代物。

 大体5cmくらい、人体に放つことを考えればかなり強力だ。

 何より、発動までおよそ1秒というその尋常ではない装填速度が、アラタがこの魔術を好む理由である。


 魔力が揺らぎ、放出され、回路の構築が完了したタイミングで、ユウはたまらずアラタを掴むその手を離し、拒絶するように蹴りを入れる。

 蹴っ飛ばされた反撃に、逆胴を打ち込んだアラタだが、鋒は彼の体が後ろ向きに弾き飛ばされたことで一歩届かず空を斬る。

 およそ人の出せる威力ではない打撃を受けたが、【身体強化】と黒装束の防護があれば、肉体がミシミシと悲鳴を上げる程度で済んでいる。

 何もしていない、生身の状態でこの蹴りを受けたと仮定したら、多分良くて内臓破裂、運が悪ければ風穴が空いていたことだろう。

 そんな衝撃を受けておいて、地面を転がる程度で済んだのは、異世界ならではと言えるのではなかろうか。


 泥だらけの地面を転がり、体をひねりながら受け身を取る彼の体に異常はない。

 芝生が生えているところでようやく止まったアラタはすかさず立ち上がると、間髪入れずに再び距離を詰める。

 雷撃を5発当てたと言っても、それまでにあれこれやってようやく5発。

 しかも遠隔起動、ハイスピード行使のせいで威力は十分ではない。

 それでも、それ以上起動に時間を使っているようではその間に体がなます斬りになってしまう。

 先の攻防だって、色々なアクションが少し遅れていれば、彼はユウの手によって胸元を押さえつけられた状態で首を刎ねられていただろう。


 魔力にはまだ余裕があるアラタだが、雷槍や炎槍、炎雷などを使う余力を残しておくつもりなら、あまり無駄打ちは出来ない。

 魔術も、身体強化も、刀に流す魔力も、丁寧に、繊細に使う。

 何事も馬鹿正直に突っ込むだけでは、望む結果は得られないということを、この戦いにも活かす。

 バチャバチャと茶色の水滴を跳ね上げつつ、ユウとの距離を減らしていったアラタは、ここで逆向きに加速度をかける。

 逆向きの加速度ということは、急制動をかけ、最終的に後ろ向きに体を動かすことに繋がる。

 停止距離はほんの0.5m。

 アラタの突進に合わせて繰り出したユウの剣は外れ、その切っ先が彼の鼻先三寸を掠めた頃、彼の体は完全に停止した。

 そして、そこからは後ろ向きに動き出す。

 頭よりも高く、上段に構えられた刀剣は、縦向き、真一文字に振り下ろされる。

 軌道の途中でグンと伸びるそれは、まるで彼の投げていたストレートのように美しく手元で伸びる。

 引き面が入れば、竹刀でもない真剣なら、確実に相手は斬殺される。

 位置、角度、速度、完璧。

 だが、敵だって百戦錬磨。


「これでもダメか」


 ガィンという鈍い音が響き渡り、一瞬両者の動きが止まった。

 剣を水平に、頭上でアラタの刀を受けているユウの表情に変化はない。

 しかし、今まで両者の刃物は互いに空振りばかり、真剣勝負なのだから武器の損耗を防ぐ意味でも、体を護る為にもその方が合理的なのだが、それがようやく打ち合わされた。

 不十分な体勢からの胴と、それに対応した時とは違い、今度は明確に渾身の力が込められている。

 そして、少しだが、確かに欠損しているユウの剣。

 今度は、鍔迫り合いにもつれ込む。

 そして、魔術を発動する前準備、地面の陣地争奪戦が、開始された。

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