第326話 貧困は思考力を奪う

 彼が日頃飲むラインナップとしては、お茶、スポーツドリンク、炭酸飲料、これくらいだった。

 それが異世界にやって来てからというもの、どういうわけか紅茶やコーヒーに触れる機会が増えている。

 彼としては出来れば炭酸ジュースをリクエストしたいのはやまやまなのだが、そもそもそんなものはほとんどない。

 まあこれも異世界に来てしまった弊害だと諦めつつ、アラタはコーヒーを口にした。

 紅茶の種類に関しても言えることだが、この世界では存在しない地名に由来する品種や商品名が平気でまかり通っている。

 残念なのは、そのおかしさに気づくことが出来ないアラタ君の教養の無さだが、これは仕方のないことだろう。

 紅茶やコーヒーの種類を知らなかったところで死にはしないし、知っていたところで格式高い人間になれるという話でもない。

 とにかく、彼の中ではブルーマウンテンというコーヒーが出てきたら、そういうものもあるのかという解釈で止まる。

 いま彼が考えなければならないのはコーヒーのことではなく、目の前にいるラパンという男が提案してきた内容だ。


「どうでしょう。お引き受けくださいませんか」


 アラタはカップの中身を啜ると、押し寄せる苦みに顔をしかめた。

 どうにも苦みの中にある風味や旨みを感じるには、彼の味覚はお子様である。

 一般的に味覚は劣化の一途を辿るので、刺激物があまり好きではない彼の舌は若々しかった。

 彼が大人の嗜好品を楽しめるようになるには、最低でもあと数年はかかるだろう。

 アラタの表情を読み違えたラパンは、てっきり自分の提案に対してそのような表情を浮かべたのかと勘違いする。


「乗れませんか」


 一方アラタは、ラパンの話よりも質の悪いコーヒーに対する憎悪で頭がいっぱいだ。

 こんなんで喫茶店を自称するなんて、と半ばクレーマーじみた思考をしている。


「まあ、波長が合わないということもあります」


 彼なりに最大限言葉を選び、『ここのコーヒーは不味い』と伝えた。

 すると今度はラパンが顔をしかめる番だ。


「どれほど上乗せすればよろしいので?」


「金をかけて良い材料を用意したところでどうにもならないでしょ」


「それはつまり、初めから無理な話だったと?」


「使う方の力量の問題ですよね」


 食べ残し飲み残しを厳に禁じられている千葉家のアラタ君は、心底苦手そうな顔をしながら残りのコーヒーを飲み干した。

 彼の発言をラパンの側から解釈すると、お前の話しには乗れないし、見返りが足りないし、何よりお前では話にならない、そう言われたと同義だった。

 だがアラタはそんなつもりは微塵もない。

 適当に話を聞き流すという彼の悪癖のせいで、彼はラパンが不正の話を持ち掛けてきたことすら気づいていない。

 まだ世間話の最中のつもりでいる。

 ラパンは無理矢理に笑顔を浮かべながらも、額に血管を浮かび上がらせながら下手したてに出続ける。

 彼も中々にしぶとい。


「私のする仕事が不服という事でしたら、もっと上の者に取り次ぎますが」


「いえいえ、自分がこういったものに疎いせいで気分を悪くさせてしまい申し訳ない。実はいままであまりこういった物に縁がない人生でして」


 微妙なすれ違いは加速する。


 ——疎い? 私と同じ匂いがしたからこちら側の人間かと思ったが、外したか?

 いや、そんなはずはない、こいつからは薄暗い日陰者の匂いがする。

 腐ったどぶに浮かぶ鳥の死骸のような。


「何かと至らぬ点があり申し訳ない。今一度ご意思を確認したいのですが、また場所を変えませんか?」


 ——これ以上苦手なものは飲みたくないなぁ。


「いえ、ここでいいですよ。それより何か甘い物とかありますか? 恥ずかしい話そっちの方が好みでして」


「いえっ恥ずかしくなんて! すみません、メニューは何がありますか!」


 ラパンは店の人間に何が作れるかを尋ね、アラタはその中からゼリーフィッシュパイを選択した。

 砂糖やはちみつが貴重な戦時中において、最近カナンで大量発生した甘い魚は大切な甘味だった。

 そしてアラタにとっては特別思い入れのある食べ物でもある。

 帰ったらしばらくゼリーフィッシュを食べなければならないなといいながら、それならそれでいいかと思っていたあの日。

 あの日の午後からアラタは街中を走り回り、あっという間に従軍した。

 出されたゼリーフィッシュパイは、パイと言ってもパイ生地は使っておらず、魚のフォルムが残っている。

 ナイフを入れて一口食べると、見た目からは想像もつかないような甘味が押し寄せてくる。

 それは、あの日から食べ損ねていたものだった。

 アラタの表情が心なしか柔らかくなった。


「初めから甘いものを用意すればよかったですね」


「いえ、お気になさらず」


「それで例の件ですが……」


「例の件?」


「流石にとぼけなくてもいいですよ」


 そう言いながら、ラパンはアラタの耳元に近づいた。


「公国軍の物資を少しお譲りいただければ、上前をお支払いするという話です」


「あー…………なるほど。そういえばそういう話でしたね」


「どうです? 双方にメリットのある話だと思いますが」


 ハルツの眼は確かだったと、アラタは舌を巻く。

 そして、これからどうするか思案中だ。


「俺の利益は?」


「金貨で言えばおよそ5枚程度にはなるかと。それに軍の薄く広い配給では部下も満足に養えないでしょう? 部下の命を守る為ですよ」


 なるほど、とアラタは頷く。

 彼の言葉に同意したわけではなく、ここでもすれ違いは続く。

 この男はこうして軍関係者と接点を持ち続けているのだと、そうして不当に利益を享受しているのだと、それに対して理解の意味を込めて頷いたのだ。

 部下の命を守る、それは立派なことだ、よい上司の資質足りうる。

 ただ、自己の利益のために他人を顧みない行動の果てにどんな結果が待っているか、彼は身をもって何度も経験している。

 その為に毎回決して安くない授業料を支払いつつも、過ちを繰り返す。

 だが、だからこそ、『今度は無い』と心に誓う。


「話は終わりです。自分はこれにて」


 ラパンからすればアラタが突然そう言いだしたのだから、焦って急ぎ繋ぎ留めねばとなる。


「アラタ殿! さきほどまであんなに! お待ちくだされ!」


 辺境、それも戦火が迫っている街、まだ避難していない住民がいるのは確かでも、喫茶店に人は来ない。

 いるのは従業員とアラタとラパンだけだ。


「中隊長への報告は適当にごまかしておきますから、もうこういうことは無しでお願いします」


「…………ぐっ」


 大人数で襲い掛かったところで、アラタには勝てない。

 そう理解しているからこそ、彼は言葉巧みに彼を誘うしかできない。


「我々辺境の人間は、こうでもしないと生きていけないのです!」


「代わりに兵士が死ぬなら意味ないと思うけど」


「中央は何でもかんでも自分たちの価値観でモノを決める。だから地方は困窮し明日の夢も見れない! あなただって心当たりがあるはずだ!」


「じゃあ他の誰かのものをかすめ取ってもいいんですか?」


「そうするしかないんだ! 我々人間は、結局奪い合うことでしか生を維持できない!」


「ウル帝国も同じような論理でしたけど。あなたはどちら側なんですか」


「地方の人間がそんなことに興味があるわけないだろ! 私たちは明日生きていければそれでいいんだ!」


「…………なるほど」


 短く呟いたのち、アラタはラパンの方に引き返した。

 まだそこまで歳でもないけれど禿げていて、不健康そうな体型で、歯は黄ばんでいた。

 この男を憐れむ行為自体が、自分は恵まれていると証明している気がした。

 でも、だからといってこの男のやろうとしたことが通る世の中は明確に違うと言える。

 アラタは否定者でも破壊者でもない。

 従って明瞭で具体的で実現可能な解決策も提示できないのに、ルールに縛り付けて相手を痛めつけることはしない。

 認めないが、咎めることもしない。

 それが彼の選択だった。


「ラパン殿、やはりあなたの提案に乗ることは出来ない」


「だから!」


「もし俺があなたのいう通りにしたとして、それで割を食うのはきっとあなたと同じように貧困にあえぐ人たちだ。あなたが憎む上流階級の人間はそんなところまで降りてこない。だから、不毛なことはやめてください」


「だとしても、それならどうすれば……アラタ殿は私たち辺境の民に死ねというのか! ただでさえ戦争のせいで畑は荒らされ今年の冬を越せるかすら分からないんだぞ!」


「だとしても、その行為には意味がない。他人のために死ねなんて言うつもりはありませんが、あなたたちが生きる為に同じような人を踏みつけにするような社会は、いつか限界が来る」


「だとしても!」


「苦しいのは承知です。この町の子供たちの体つきを見ればわかる。でも、それなら尚更やることは他にあるはずだ。俺はねラパン殿、楽な道の先に楽しいことなんてないと思っている。けど、苦しい道の先に楽しいことはきっと待っている、そう思う」


「何を訳の分からないことを……」


「いま楽をして軍需物資で飢えを凌いだとして、カナンより中央集権的な帝国にここが奪われれば、あなたたちの苦しみは今を超える。脅しているように聞こえるかもしれないですが、それは事実だ。勝たなければいけない戦いの中で、味方のはずの人間に足を引っ張られて命を落とす兵士の家族に、俺はなんて言って詫びたらいいんですか。たかが金貨5枚程度で公国軍を危機にさらすのであれば、俺はあなたを斬らなければならない」


「それは……」


「どうか胸を張れる選択をお願いします。誇りで腹は膨れなくても、いつかそれに見合うだけの実りがサタロニア地方に訪れるはずですから」


 アラタは、今までの人生で一番物事を深く考えた。

 深く考えたうえで出てきたのは、結局シンプルな言葉の数々だった。

 彼のボキャブラリーが貧弱というのも当然ある。

 ただ、それ以上に単純な言葉で紡がれた説得の文章は、聞く者に確かな影響を及ぼした。


「今までの話は忘れてください。二度としません」


「それがいい。もしここまで言って分からないようでしたら、俺も刀を使うところでした」


 そう言いながら刀の柄を叩くアラタの笑顔は、どこか怖い。

 本気でやりかねない実行力が嫌~な気配を醸し出していた。


「はは……御冗談を」


「俺はいつでも本気です」


「仕事に戻ります。大変ご迷惑をおかけしました」


「いいっすよ。美味しいものも食べられましたし」


「そうですか。では」


「はい。期待しています」


 そうして2人は分かれ、アラタはハルツの元へ報告に向かった。


「どうだった?」


「特になんも無かったですね。ただコーヒーと食べ物を御馳走になって、大公選の話を聞かれただけでした」


「クロか?」


「いいえ。関係ないでしょう」


「そうか。ご苦労だったな。もう戻っていいぞ」


「失礼します」


 その場を辞して小隊の所に戻るアラタを見送るハルツの顔は、嬉しいやら怒りたいやら複雑な心境をこれでもかと表に出している。

 利敵行為をした者を庇うという愚かさと、慈悲の心を以て相手を許す優しさを取り戻したことが、彼を迷わせた。


「弱くなったな」


 ハルツはアラタの背中を見て、そう呟いた。

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