第107話 スパイの日常
冒険者ギルドアトラ支部、支部長イーデン・トレスが検問を破り逃走した。
その報告は特配課にも届き、すぐに出動することになると思ったアラタは完全装備で詰め所を訪れていた。
「は? 追わない?」
「そうだ。既に手は打ってある。B,D分隊は待機だ」
テーブルの上に広げたナイフの手入れをしながら、クリスはさも当然かのように言う。
彼女が普段メインで取り扱うのは片刃の短刀だが、結界起動用、魔術阻害用、戦闘予備として数本の短いナイフを所持している。
彼女のクラスは盗賊で、それ故に気配遮断などのスキルに適性があるが、反面結界術や魔術は不得手なのだ。
それを補うためのナイフ、手入れを終えそれを仕舞うとクリスは寝ると言い、仮眠室へと行ってしまった。
先手って何だろう、教えてくれてもいいのに。
「すみません! おっくれましたぁ!」
詰め所の扉を勢いよく開け、中に飛び込んできたのはB4、ドルフだ。
つい先ほどアラタが待機を言い渡されたように、同じ分隊所属である彼もまた待機状態にあるのだが、指示が通っていなかったのかドルフは冬が近づいてきているというのに玉のような汗をかいて肩で息をしている。
「待機だって。隊長は寝た」
「なんだよぉ。そしたら俺は何のために急いで来たのさ!」
「知らね」
息を切らしたまま椅子に座ると、アラタの用意してくれた水をがぶがぶと飲み干し一息つく。
本当に急ぎ、焦ってここまで来たようで彼の服装はめちゃくちゃだ。
フードを被った上から仮面を装着しているからマントを脱ぐ前に仮面を外す必要があるし、ブーツは左右逆、アラタがそれを指摘して履き替えようと靴を脱ぐと、左右の靴下は違うものと来ている。
命令が分かるまでこんなに焦らなくちゃいけないならもう少し何とかならないものかな、と効率的な情報伝達の手段を考えるアラタだったが、残念ながら妙案は浮かばず、彼らは今後も指示が通るまでは焦り続けることになりそうだ。
ドルフが到着しておよそ1時間、クリスが仮眠室から出てくると、建物全体に聞こえるような大きな声で呼びかける。
「B,D分隊! 全員集合!」
ようやくか、そんな様子でドルフとアラタは立ち上がり、他の面々も加えて整列し姿勢を正す。
「アラタ」
「はい」
「お前は引き続き待機だ。指示があるまで詰め所付近で待て。今日明日は何もないから訓練に充て、明後日以降は即応状態で待機」
「はい」
「他の者は出る。指示は追って出す、出るぞ!」
「「「おおぉ!!!」」」
アラタを除いた2分隊8名は全員が仮面と黒装束に身を包み、詰め所を出て任務に赴くべく出立した。
それを玄関まで見送り、彼らの背中が見えなくなったところでアラタは思う。
…………俺、もしかして今回出番ない?
※※※※※※※※※※※※※※※
「と、いう感じです。キナ臭いのは相談役、お婆様達と呼ばれる人たちですね」
「ふむ、なるほど。引き続き調査頼むぞ」
ここ最近すっかり特殊配達課の一員として任務に邁進していたアラタだが、彼は一応ドレイクの間者だ。
たまにはこうして情報を主の元へと届けなければスパイの意味がない。
彼が報告した内容はお婆様達と呼ばれる存在、推測されるエリザベスと彼女たちの力関係、そしてティンダロスの猟犬の正体、自分が特配課に入隊したこと、そこまでだった。
エリザベスと自身の個人的な関係に関しては伏せたままである。
スパイとしては問題があるが、彼はこうしたほうがいいと直感で判断した。
師の言ったとおりに物事が運んでいくのが気に食わないというのもあるだろう。
ただそれ以上にそれをドレイクに話すことは憚られた。
プライベートなことを明け透けにしてしまうことに多少の抵抗もあった、だが一番はドレイクという人間が何を考えているか分からない不信感が原因として挙げられる。
自分を捨て駒とする人間に全幅の信頼を置くほどアラタは寛容でも馬鹿でもない。
「で、今行われている作戦、いつ頃終わりそうかの?」
「いえ、それは何とも。ただ、ギルド支部長、イーデン・トレスを片付ければ俺の担当は終わりです」
「……そうか。ところで渡した本は読めたか?」
「…………いえ、まだです」
「忘れておったな?」
ギクッ
「い、いえ、ただ少し時間が……」
「頭の片隅にでも本の存在があったか?」
ギクギクッ
「……すみません、すっかり忘れていました」
「まあよい、出来るだけ早く読んでおくように」
報告はそれで終了、アラタは詰め所へと戻った。
出来るだけ早くって、読めないものを読むのってすごい労力使うし、そもそも俺忙しいし、ふざけんなクソジジイ。
明らかにオーバーワークなんじゃ、有給寄越せ。
誰もいない詰め所の広間でアラタは心の中で師匠への愚痴を零しながら本のページをめくる。
日本語でもなければ、この世界の文字でもない。
必死に覚えた文字も通じないとなれば、アラタはもうお手上げである。
アルファベットが使われているわけでも、ひらがなでもカタカナでも漢字でもなく、チラッと見たことあるような海外の文字でもなく、古代のピラミッドにある? 楔形やら象形文字やら何が何だか分からない文字でもなく、アラタはそっと本を閉じた。
もう無理、こんな本読めるわけない。
本当は意味なんてないんじゃ、良い暇つぶしになったであろう? とか平気で言ってくる人なんだあの人は。
サイコパスだよサイコパス。
普通にイカれている。
まあいいや、素振りしよ。
クリスに言い渡されたように、今日明日は魔力を使い切ることが許されている。
明後日はいつでも動けるように待機を命じられていることから、アラタの出番は2日後からになるのだが、独りで訓練できることは限られていのだ。
刀を抜き、魔力を流し、その上でスキルを起動する。
痛覚軽減、身体強化、敵感知を発動、気配遮断を準備して魔術の励起も手前で留めておく。
これだけの並列処理、難易度はかなり高いが、アラタは全て標準レベルにこなしており、それだけ彼の能力は高い。
魔力、体力、気力、それらをそれぞれの能力が絶えず要求し、過不足ない力を注ぎ続ける。
言葉で言うのは簡単だが、才能、努力、よき師に巡りあう運、身体を操るセンス、柔軟な発想、甲子園ベスト4の実力は伊達ではない。
雷撃、土棘、石弾、水陣、風陣………………
「だあぁー! 流石に無理があるかぁ」
魔力は霧散し、構えを解いたアラタの体中から汗がにじみ出てきた。
自分一人しかいない状態で、ありったけのスキルを起動し、その上で魔術を複数同時起動しようと試みたわけだが、彼の力ではまだ御しきれるものではなかったようだ。
土棘と石弾使用の為に地面に魔力を流した結果、少し地面は緩くなる。
更に水陣を起動しようとして大地は水気を帯びる。
そして風陣は辺りにそよ風を吹かせ効力を失った。
彼の中では手応えがあったようで落胆はしていなかったが、ありったけの魔力を使った結果少し疲れてその場に座り込む。
あー疲れた、いや、疲れてない、まだいける。
土属性は同時に使える。
なら雷撃と雷陣、水陣と水弾、風陣に分ければいけるはず。
アラタの修業は2日間継続されることになる。
イーデン・トレス。
カナン公国冒険者ギルドアトラ支部支部長。
元Aランク冒険者。
帝国戦役以降、一線を退きギルド運営サイドに回る。
戦場での鎮痛剤などの投与から薬物中毒になり、現在でも常用している。
そこが入り口で使用する側から作り、流す側へ。
……ありがちな話だな。
悪いけど、同情の余地はないし、アトラの裏通りで見た薬物中毒者の末路を考えれば胴元には死んでもらうしかない。
まあ、元Aランク冒険者、簡単に行くとは思ってないけど。
やるしかない、やるしかないんだ。
もう一度、今度は少し威力を絞って……
男の研鑽は続く。
近い日に訪れる死闘に向けて、死ぬほど鍛えるのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※
「隊長、見えましたか」
「ああ、覚えられる程度だが、一応記録しておけ」
場所はアトラ郊外、東門を出て十数キロ、植物のほとんどない岩場で黒装束は明らかに目立つが、傍から見れば気にならないのだろう。
監視対象を高台から見下ろす一団の視線の先には盗賊に襲われている数名の逃亡犯の姿があった。
「クラス、剣士」
「剣士」
「スキル、身体強化、敵感……いや、不意打ち耐性、思考加速、一夜漬け、魔術効果減衰、間合い強化、深視力向上、そんなものか」
クリスが口に出した内容を、B2、ルカはすらすらと紙に書き写し、懐にしまい込む。
これで彼の能力は丸裸という訳だ、討伐前に特配課は非常に大きなアドバンテージを得たことになった。
クラス、盗賊と彼女自身の資質により、クリスは他人の能力をある程度見透かすことが出来る。
盗賊をけしかけ、イーデンが戦う所を観察できたのは計画通りであり、それでいて順調な滑り出しだった。
「帰るぞ」
「最後まで見なくていいのですか?」
「不意打ち耐性があるならこの距離でも気取られるかもしれない。能力を把握した今、所在さえつかめていれば問題ない」
「ですな。アラタが拗ねる前に帰ってやるとしましょう」
「フッ、それもそうだな」
後ろから順次後退し、最後尾をクリスが務め撤退する。
戦闘状態ではない為一番後ろが誰であるかなど些末な差であるが、最も後ろを歩くクリスの顔は誰も見ていない。
もっとも、最後尾でなくとも皆仮面を身につけており表情など窺い知ることは叶わないのだが。
「糞は処分しなければな」
翌日、アラタの待機命令は継続され、B,D分隊の人員は全員が休息と戦闘の準備をしておくように通達され、その日に備える。
そして、そのさらに翌日、血の1週間、4日目の木曜日、レイフォード物流事業部特殊配達課、B,D分隊が出動した。
場所はアトラから東に150キロ、サタロニアの地。
辺境の集落の内の一つ、ドラールの町でアラタの刀は抜かれた。
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