第97話 何度でも
風呂に入るように言われて、今ノエルと一緒にお湯に浸かっているわけですけど、気まずい、気まず過ぎて吐きそうになってきました。
我慢、我慢ですよ私。
ここでゲェーってしたら全て水の泡です、またノエルが引きこもってしまいますから。
異世界に来て以降のアラタのそれとは違い、2人の身体には切り傷擦り傷の類の痕はほとんどない。
多少鍛えられているという点を除けば日本にいる一般的な女性と大差なく、それは即ち2人の周囲にいる人間にとって、彼女たちの体に傷が残るということはあってはならないということを示していた。
ほんの少しの傷だとしても、跡形もなく治癒させるという約束は、ノエルが冒険者になるにあたって父親と交わした約束のうちの一つで、その約束には彼女に付き従うリーゼも含まれていた。
ではアラタの負った傷に関しては違うのか?
これに関してはそう言うものとしか言い表しようがないが、この世界の美的感覚的に、女性の体に傷が残るのは良くないことで、男性に関してはそこまで執着していないのだろう。
ただ、そこからくる3人の間のサポート格差はアラタが出ていった今、2人に濃い影を落としていた。
仲間と言っておきながら、自分たちは日常的にアラタとは違う恩恵を受けていた。
そんな考えがノエルの気持ちをより一層沈ませる。
「私が傷つけたから、迷惑をかけ続けたから嫌われちゃったのかな。出て行っちゃったのかな」
今まで沈黙を保っていた彼女が出した声は震えていて、その中で絞り出された言葉は本当に小さな声だった。
久しぶりにノエルと話すリーゼ、なんて返すか迷う質問だが、答えそのものは決まっている。
「そんなことありません。アラタはノエルのことを大切に思ってくれていますよ」
「でも、でも……何でレイフォードのところに行っちゃったの?」
「それは……アラタにも事情があって」
「リーゼは理由を知っているの?」
「いえ……私は何も……」
『わりい、またな』
それがアラタと最後に交わした言葉である。
なぜアラタがエリザベス・フォン・レイフォードの元にいるのか、それに対する確たる答えをリーゼは持ち合わせていない。
しかし確たる答えはなくとも、状況的に推察することは可能だ。
リーゼも底抜けの馬鹿ではない、ノエルの不安材料だからアラタを遠ざけることに一定の理解はあったが、それだけでは理由として弱すぎることくらい分かる。
それよりも、政敵レイフォード家の首魁と何故か親密な関係になりつつあるアラタに何らかの命令を下し彼女の元に向かわせた、その方がしっくりくる。
リーゼの中では真実にたどり着いていたが、それを今目の前にいる剣聖に伝えることはできないと考えていた。
ノエルに言えばまず間違いなくハルツ、ドレイク、シャーロットを締め上げるべく立ち上がり、その上でアラタを取り戻すためにレイフォード家に突撃していくことだろう。
自分たちの屋敷の風呂と比べると幾分か狭い浴室、2人だけで使用するには十分すぎる広さだが、いつもよりも二人の距離は近い。
「助けてくれるって、隣にいてくれるって言ったのに。いなくなっちゃ嫌だよ、アラタに会いたいよ」
すすり泣く声が反響し、悲しみが増幅されているような気さえする。
会いたいと言われても、それが剣聖の暴走を引き起こす可能性があるならリーゼがそれを手伝う訳にはいかないし、クラスを制御できない状態でアラタを殺しでもしたらノエルはその後を追いかねない。
結局ノエルの願いにリーゼは答えることが出来ず、2人は風呂から上がった。
そんな彼女たちを待っていたのはシャーロットとクラーク家の使用人たちの手で作られた時間の遅い昼食だった。
「私、こんなに食べられませんよ?」
「1人じゃない、みんなで食べるならこれくらいの量必要だろう?」
さも当たり前かのように彼女は言い放ったが、リーゼを始めとしてノエル以外のここにいる者は皆既に食事を摂った後なのだ。
それに準備された料理はどれも特盛で、この場にいる全員の食事としてもいささか量が多い。
だから食べれません、とはとても言い出せる雰囲気ではなく食ハラ? じみた昼食会が始まってしまう。
……お、美味しい。
ネギ、と思っていましたけどこれはリーキ?
昼から揚げ物はキツイと思いましたがこれならいけます、美味しすぎます。
こっちのお肉、間違えてなければミノタウロス、それもうちの事業で取り扱っている最上級のものではないですか!
ただ焼いただけなのにこのおいしさ、屠殺して血抜き処理まで考えるとよほど高位の冒険者の協力を……叔父様ですか。
極めつけはお米!
あまっうまっ!
このためにお箸の練習をしておいて良かったです。
スプーンやフォークではこう上手くはいきませんから。
これを食べたらもう固いパンなんて食べれませんよ。
大陸の反対側で栽培されている以外だといくつかのダンジョンでドロップ品として出るだけ、1kg金貨1枚、いったいいくら払って……
サヨナラ私の体重、もうあきらめましょう。
抗いがたい食の誘惑にリーゼが屈し、目の前に広がる宝の山を消し飛ばそうとがつがつ食べ始めた隣では、ノエルは料理に一切手を付けないまま止まっていた。
「食べないのかい?」
追加の料理を持ってきたシャーロットは全く減っていないノエルのサラの上に新しく焼きたての肉を乗せる。
綺麗に食べられる皿の許容量を余裕でオーバーしているボリュームの料理たちは、今にも零れ落ちそうだが、ギリギリ根性で踏みとどまっている。
奇跡的なバランスを保ち続け、早く食べてほしいと懇願する食材たちはいよいよ限界、端から肉がひと切れ、テーブルの上に落ちそうなところをシャーロットはフォークでぐさりと空中で突き刺しノエルに渡す。
もはやマナーなどこのテーブルには存在していないが、普段ならそれを咎める立場のリーゼは食事に夢中だ。
「ほら、それともあの子が作ったモノじゃないと食べられない?」
シャーロットの言うあの子が誰を指しているのか、それは明白だ。
あの子はこの場にはいない、それも分かっている。
殻に閉じこもり、現実逃避をしている子供に必要なのは現実を直視することだ、現実から逃げないことだ。
「………………い」
「なに? 聞こえないよ」
「そんなことない! 食べる!」
ノエルはシャーロットからフォークを奪い取るとバクバクと大皿の料理を食べ始めた。
口に入れたそばからまた口に入れ、凄まじい速度で空っぽの胃袋に食べ物を収めていく。
それを見た一同は一安心、同時に行儀の悪さが目に付いてしまう。
実際にはそこまで咎められるほどの事ではないが、育ちがいいだけに普段とのギャップが気になるのだ。
隣で食べているリーゼも、普段なら口酸っぱくノエルに言い聞かせることだろう。
そんな彼女は今、ノエルの両親が見たら卒倒しそうな光景をどこか喜んでいる自分がいることに自分のことながら驚いていた。
泣きながら米を書き込むノエルを見ていると、マナーの悪さよりも良かったと、安心する気持ちの方が強く強く湧き上がってくるのだ。
それほどノエルは憔悴していて、精神的にも肉体的にも参っていた。
周囲が本気で心配して奥の手であるシャーロットによる荒療治に賭けるほどに。
既にノエル、リーゼ以外は食事を終え、2人だけが未だに食べ続けている。
ノエルはともかく、一日3食しっかり食べる上に本日2度目の昼食、なぜそんなに食べているのだとリーゼに対して誰もが思い、人々は目を合わせてコミュニケーションを取っていたが、余計なことを言うのはよそうと誰も言及しなかった。
「ノエル、その、大丈夫ですか」
ようやく泣き止んで食べることに専念し始めたノエルに、リーゼはモシャモシャとサラダを食べながら聞いた。
一瞬手に持つナイフの動きがぴたりと止まり、何を思ったのかすぐまた食事を再開したノエルは食べながら答える。
「うん、心配かけてごめん」
短く答えたノエルの眼には確かに光が宿っていた。
紅く煌めく瞳には先ほどまでの涙はなく、しっかりと目の前の料理を見据えている。
「それは重畳。ところでノエル様、壊れた家具の話なのですが」
「それはシャーロット殿にしてくれ」
「それはノエルにして頂戴」
両者が両者に押し付け合う展開になったが、こうなってはハルツから片方を選ぶことはできない。
お前はそっちにつくのか、と非難されること必至でこれ以上の迷惑はごめん被りたいからだ。
ハルツは家具と扉の請求を諦め、修理にどれくらいかかるか頭の中で概算を弾き出し絶句する。
兄でリーゼの父親のイーサン・クラークに金を借りようかと思ったが、兄は兄で大公選の為忙しい身の上だ。
修理が多少遅れても兄に修繕費を出してもらうか、それとも諦めて自費で修理するか二択を迫られている彼の目はノエルとは対照的に酷く淀んでいる。
「これからどうしますか?」
「そうだな、まず…………」
ナイフとフォークを握る手を止め、モグモグと口内にあるものを咀嚼、嚥下し終わるとノエルは立ち上がり叫ぶ。
「アラタに誠心誠意謝罪して絶対仲直りする!」
まずはそこからですか。
そう思ったが、それが何より大切にしなければならないことであることはリーゼとて分かっている。
許してもらえるもらえないはともかく、きちんと心を込めて謝る、これをしなければ何も始まらないわけですから。
「あと」
「あと?」
「約束したのに勝手に出て行って、一発殴らなければ気が収まらん!」
ある者はアラタに同情し、ある者はそこまで元気にならば一安心と安堵し、ある者はアラタが再び離れてしまうのではないかと不安になり、ある者は見通しの立たない屋敷の修繕に絶望していた。
だが本人の決意は固いらしく、鼻息を荒くして食事に戻っている。
ずっとまともな食生活を送っていなかったからと言って流石にこれは、この場にいる誰しもがそう思っているが口に出す者はいない。
が、ここでハルツのパーティーのお調子者で空気の読めないルークが帰ってきた。
「おっ、ノエルちゃん元気になったのか! えがったえがった。……あれ? これ全部食べたの? 少し食べ過ぎじゃないか? 太——」
部屋の入り口付近に立っているルークの真横を銀色の何かが飛翔したかと思うと、背後の壁に突き刺さり止まった。
気を抜いていたとは言っても投擲モーションすら見えなかったルークの額には後追いで冷や汗がだらだらと滝のように流れ始める。
「食べすぎ、だれが? 誰が太るって?」
「あぅ、お、おおお俺ですよ。あー少し走ってきまぁす!」
そこまで非があるわけではないこの不憫な男は持っていた荷物を抱えたままランニングに出て行ってしまった。
自分のパーティーの拠点なのによそ者のノエルに食堂を占拠され、同情の余地は多分にあるがこの場の空気を読めなかったことが彼の負うべき責である、存分に外を走ってきた後は彼がおとなしい人物に成長していることを祈るとしよう。
ルークが外に出てから少しして、中々に長かった食事が終わると片付けられたテーブルを囲むように関係者たちが座る。
ノエル、リーゼ、ハルツ、シャーロット、ハルツのパーティーメンバーであるタリアとジーン、ルーク、残りは外野であるため一度退席してもらったが今回の一件はノエルと剣聖のクラスとの付き合いが始まったノエルが15歳の頃までさかのぼる。
ハルツだけでなくパーティーメンバーも参加しているのはそういう理由だ。
「で、ノエル様はこれからどうしますか? 外出するのであれば我々が護衛につきますが」
「いや、それはいい。それより」
ノエルは上座から立ち上がりシャーロットの方を向き頭を下げる。
「私に戦い方を教えてください」
突然の申し出にシャーロットは困惑する、そもそも彼女が冒険者だったのはもう15年、もうすぐ16年も前になる話のことで最近アラタに稽古をつけていたがそれはEランクである彼の稽古だ、Cランクのノエルとなると話は変わってくる。
「ハルツ殿じゃダメなのかい?」
「ダメという訳ではないが……ハルツ殿は冒険者として忙しい、その、お願いできないだろうか」
「そりゃあ私は年中暇だけど……って孤児院も中々忙しいのわかってる?」
「もちろん理解している、だけど頼む、お願いします」
貴族の世界ではそもそも頭を下げた礼はほとんどしない。
それぞれ差はあるもののそこまでへりくだるものではない、という理由だったり頭の装飾が崩れるといった理由がある。
当然ノエルもその辺を仕込まれているのだがそれを選ばず一般的なお辞儀を選んだ。
たったそれだけのことでもシャーロットから見てノエルが本気で自分にモノを頼んでいることは分かる、というよりこの子は割といつも本気だ。
多分こちらが折れるまで頼まれて帰ることすらできないのだろうと、内心我ながら面倒なことに首を突っ込んでしまったと自嘲する。
まぁ、そもそも事の発端は私のバカ弟子がちゃんと別れを伝えないことに原因があるし、私がそれを頼んだんだ、仕方がない、最後まで面倒に巻き込まれるとするかね。
「アラタに教えるより厳しくするからね?」
「もちろんっ!」
私は中途半端な強さでアラタを傷つけた。
私がちゃんとクラスの力を制御できていればこんなことになる事はなかった、2年前リーゼが傷つくこともなかった。
今度こそ、次こそはちゃんとごめんなさいしてもう一度一緒にパーティーとして冒険したい、あの屋敷に、シルも加えた4人で元の暮らしに戻りたい。
そのためならクラスの呪いだろうが何だろうが捻じ伏せて見せる。
——私を抑え込んでも彼が帰ってくる保障はないぞ? 何を思いあがっている?
……黙れ。
私は、私はお前を従えて胸を張ってアラタを迎えに行く。
例えアラタが私を拒絶したとしても、彼が逃げたとしても諦めないで何度でも挑戦して、必ずアラタをもう一度心の底から笑顔にして見せる。
それがこの世界に来てしまった時、私たちに生き方を定められてしまったアラタに対する最低限の責務だと思うから。
………………もう私は折れない、諦めない。
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