第370話 どんな顔をしている?

「意識はどうなった?」


「まだ。ノックしたけどダメだって」


「そうか。そろそろだと思ったんだけどな」


 都合よく、という言葉は今のためにあった。

 キィだけではなくアラタが戻ってきたタイミングで、それは起こった。

 今まで用具の出入り以外頑なに外部の人間を招き入れることなく閉ざされていた扉が、内側から開いた。

 蝶番の乾いた軋み声と共に、血だらけの手を濡れタオルで拭きながらタリアが出てきた。


「入って」


「結果は?」


「今から聞く」


 言われるがままに2人が入室すると、また扉が閉まった。

 誰でも無制限に入れるというわけではないらしい。


「意識を取り戻したんだけど、また寝ちゃったわ」


「起こしてください。強引でも構わない」


「あなたねぇ……」


 補助を買って出てくれた店の人間からの視線が刺さる。

 命よりも情報を優先するアラタの態度が気に食わないのは理解できる。

 彼女たちからすれば、さっきから1時間以上患者の命を救おうと奮闘してきたのだから。

 せっかく峠を越えたというのに、それをまた危険に晒してまで利益を得ようとするアラタと相いれないのは仕方のないことだ。

 しかし、アラタからすれば情報は時に命よりも重い。

 この町にいる200名の中隊、数千人の市民、ミラ丘陵地帯にいる1万弱の将兵、敗れた第2、第3師団の兵士たち。

 それと秤にかければ、目の前で眠っている兵士の命など吹けば飛ぶほどに軽量だ。

 だから、彼は再度要請する。


「タリアさん、お願いします」


「医療従事者の倫理に反するけど、責任は私が負うわ」


「いえ、俺の名前で平気です」


「……連名にしましょ」


「はい」


 タリアにも刺々しい視線が向けられる中、彼女は大掛かりな道具箱の中から瓶に入った溶液を取り出した。

 栓を開けると、辺りに尿のような臭いが立ち込める。

 正確にはアンモニア臭で、尿に含まれる尿素の臭いとは異なるが、尿素は排泄後に微細菌類によって分解されて再びアンモニアに戻るため、認識としてはさほど大差ない。

 人間が本能的に嫌悪するであろう臭いを放つそれを、タリアは瓶ごと兵士の鼻に近づけた。

 どうやらそれが気付け薬ということらしく、空気に乗って臭いが伝播していく。


「……かはっ! ゲホッゴホッ、オェ……オッホ、ゴホォ」


「よし」


 見事に一発で意識を取り戻したことを確認すると、アラタはキィと共に患者に近づいた。

 キィに渡したメモの内容は、当然アラタも把握している。


「名前を言えるか」


「……ゲイル・パッカーソン」


「よし。公国軍はどうなった」


「コートランド川で……うぐ…………」


 病床の上で涙ぐむゲイルに対してアラタが抱く感情は、苛立ちただ一つ。

 キィも同様らしく、少し目つきがきつくなっている。


「早くしろ」


「うぅ……わが軍は壊滅、敗北しました」


「敵軍の動きは。追跡中に傷を負ったのか。どれほどの規模だ」


「ぐすっ……私は……」


「はよせいや!」


「アラタ!」


 流石にタリアから横槍が入ったが、アラタはまるで意に介していない。

 とにかく情報を、一刻も早く、兵士の命に代えても手に入れなければならない義務が彼にはある。

 多少強引になるのは自然なことだ。


「攻撃に出てきた敵兵の数はおよそ5千。退却中にも足の速い敵に執拗な追跡を受け……味方は散り散りに、集合地点のこの街に来たものの誰もおらず……」


 考えうる中で最悪から2,3番目くらいだなとアラタもキィも認識していた。

 当然タリアも同じで、ほぼ最悪と遜色ない。


「敵は足の速い連中を先行させているんだな?」


「その通りです」


「数は分かるか」


「分かりません。最低でも小隊規模の集団で行動しています」


「なるほど、よくわかった。あと何か伝えなければならないことはあるか」


「あの、アラタ殿、銀星のアラタ殿ですよね」


「それがなんだ」


「……アイザック・アボット大将が自刃なされました」


 じじん。

 ジジン。

 自陣。

 自刃。

 自刃?


 まだ夜も暑いというのに、ドアの下に空いた僅かな隙間から入って来た風は、この世のものとは思えないほどの鋭さを持っていて、アラタの心を背後から突き刺した。

 一瞬にして手術室は氷点下を下回る体幹気温にまで急降下した。

 キィは、あまりの恐ろしさと驚きに、アラタの方を見ることが出来なかった。


「他には?」


 先ほどまであんなに取り乱していたというのに、いつもと何も変わらないアラタの声を耳にして、キィの膝は密かに震え始めていた。

 少年よりもむしろ、アラタのことをよく知らない居酒屋の人間やゲイルの方が平静を保っていられる。

 銀星の二つ名を知っているゲイルはもう少しアンテナ感度が高くなっているかもしれないが、彼は傷病者でそれどころではない。


「ア、アラタ……」


「あとは任せる。俺は城壁の進捗を確認しに行く」


 キィとタリアは、ただその背中を見送る事しかできなかった。


 現在、アラタは街の中心から僅かに西側のエリアにいる。

 従って北、東、それから元の場所へとルートを辿ることが最も効率が良く、実際彼はそのように行程を組み立てた。

 愛馬のドバイはこの街にも連れてきているが、流石にこの街の規模で夜中に起こすのはよろしくない。

 アラタはジョギングくらいのペースで北の城壁へと向かっていく。

 レイクタウンは城壁の外側にも民家をはじめとした街が広がっているので、円状に取り囲む壁の規模はさほど大きくない。

 むしろ街の全てをぐるりと取り囲んでいるアトラの街が異常なのだ。

 走りながら、アラタは考える、思い出す、回顧する。


 便宜を図ってもらった。

 若輩者の意見も初めから突っぱねなかった。

 ご飯を御馳走になった。

 未来を案じてもらった。

 期待してもらっていた。

 幸せを願ってくれていた。

 将来を楽しみにしてくれていた。


 ——死とは落差だ。


 今になって、大公選の最中に殺した人間の、元ギルド支部長イーデン・トレスの言葉が彼の脳内に反響する。


 親密な関係を築き、上がれば上がるほど、落ちたときの悲しみは大きくなってしまう。

 慣れろとは言わない、ただ、着地できない程高くまで登る事の無いように、気を付けたまえ。


 ——心に仮面を。


 今になって、レイフォード物流事業部特殊配達課課長、ノイマン・レイフォードの声が聞こえてくる気がした。

 そして、聞いたことがない、聞こえるはずもない言葉が聞こえてくる。

 こんなこと、彼はノイマンに言われたことは無い。

 ただ彼が心の中で願っただけだ。


 真の絶望に出会った時、どんな人間でも生身では耐え切れない。

 今のうちにこの世の不条理に心を壊されない術を身につけろ。

 この戦いが終わった時、B5、アラタ、お前は何枚の仮面を身につけている?

 出来るだけ多く、分厚い仮面を着けろ。

 いつか殿下と結ばれるその日まで、本当のお前は傷ついてはならんのだ。

 期待しているぞ、俺たちの希望よ。


 殿下、エリザベス・フォン・レイフォード公爵。

 彼女とアラタは共に想い合いながらも、最後まで結ばれることは無かった。

 条件分岐に照らし合わせれば、彼は顔に張り付けた分厚い仮面を取り除く機会を失っている。

 アラタは自分に問いかける。


 俺は今、何枚の仮面を着けている?

 なあ、俺は今どんな顔をしている?


 そんなことを考えているうちに、アラタは北の城壁に到着した。


※※※※※※※※※※※※※※※


「調子どう? いい感じ?」


「あっ隊長。お疲れ様です」


「お疲れ様。どう?」


 北壁の担当はカイとエルモが担当しているらしく、特にカイがせっせと働いていた。

 エルモも相応に場を管理していて、流石にいつものようにサボってはいないらしい。

 平常時と緊急時の違いが分かり、きちんとケジメを付けられるのが彼と中学生の差だ。


「206所属の冒険者さんたちに協力いただいてます。街の人は逃げなければならないのでそれどころではなさそうです。まあ、一部協力してくれてはいますが」


「何人くらい?」


「このエリアで10人前後ですね。東もそんな物でしょう」


「そうか」


 アラタはカイのメモした紙に目を通しつつ、続きを聞く。

 【暗視】のおかげで内容が明瞭に見えるというのはストレスがなくて助かる。


「鐘楼の解体許可は既に取れました。ラパンさんが動いてくれたみたいです」


「やっぱり生かしておいて正解だったな」


「何のことですか?」


「いや、こっちの話」


「まあいいや。周囲の堀を深くしたいので、底から出る土を粘土として使用する予定です。火元は確保できているので、掘削と運搬に人数をかけたいところですが……」


「人が足りないな」


「です」


 カイの報告にある人数では、正直お話にならなかった。

 ウォーレンの見立てで4日、アラタの無茶で3日という計算も、人数が集まらなければ全く意味がない。

 これらの計算は、工事現場を最大稼働させて何日かかるかという予測なので、人数が欠ければ欠けるほど納期は後ろにずれる。

 増員は、必要事項だった。


「野戦の準備に何人使っている?」


「90人ほどです」


「内容は?」


「詳しくは……まあ本陣の防御機構と物資集積場くらいじゃないですか?」


 カイはたたき起こされてここに連れてこられたので、外の状況には疎い。

 一方アラタも部下に丸投げしていた部分だけに想像で語るしかない。

 そこに加えて考慮すべきはゲイルの報告。

 足の速い敵が追撃の先鋒を務めていて、状況から推察するに敵軍は縦に間延びしている。

 将としての手腕が問われる場面だ。


「飲み会なんてしなければ……」


 今すぐにでも出撃してかちあった敵軍を蹴散らすことが出来たのに。

 心の中で悔しがっても全てはあとの祭り。

 今できることを考える、つまりタスクフォーカスするしかない。

 最低でも出撃は明朝以降。

 散り散りになっている味方の状況からして、単独で籠城しても意味はない。

 そして、野戦をする意味もない。

 アラタの中で、一つの案が浮かんだ。

 しかし、それを実行するにも、決断するにも少し時間と作業が必要だ。

 とりあえず出来ることを命令するほかない。


「野戦の準備は中止。城壁の工事は206に引き継がせろ。第301中隊の人間は全員就寝、明日の朝5時に完全武装で東門前に集合すること」


「了解です」


「寝ている奴はそのままでいいから、明日全員寝坊する事の無いように起こしてやれ」


 カイは再び返事をすると、すぐさま作業場の方へと走っていった。

 206の隊員に作業を引き継がせ、野戦の準備をしている301の隊員を完全撤収させてから一刻も早く就寝しなければならない。

 上も下も、滅茶苦茶に忙しい。


「……寝るか」


 睡眠の重要さは今までの人生で嫌というほど味わっている。

 だからどんな時も極力寝なければならないと、アラタは宿に戻ることにした。

 叩き起こされたカイやエルモには申し訳ないが、これからは就寝が任務となる。

 ここから激化するであろう戦争を前にして、中隊の約1/3の隊員がなかなか寝付けずに朝を迎えた。

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