第127話 着痩せはアリ
「先生、今日は練り上げた小麦粉を発酵させ、焼き上げた物になります」
「つまりパンじゃな、市販の」
大仰な言い回しでアラタが出したのは、アトラに市販されている普通のパンだ。
丸く、固く、あまりおいしくない。
ドレイクが市販の、と言ったのは、この家に住む人間が急に増えたことで、彼自慢の自家製パンの製造が追いつかなくなり、こうして市販のそれを食べざるを得なくなっているからだ。
先日彼が特務警邏の元を訪ねた際、長官のダスターに表面上何らかの成果物を与える必要があったので、アラタのアジトを明け渡してしまった。
そして行き場のなくなったアラタとクリスは、流れるようにドレイク邸に入り込み、こうして衣食住を貪っている。
彼の言葉には、貴様らが来たせいで硬いパンを食べなくてはならない、何とかしろというメッセージが込められており、彼の隣で申し訳なさそうにパンを食しているアラタもそれは理解しているみたいだ。
一方で、
「あの、クリスさん? 昨日台所にあったパン、食べちゃった?」
アラタの向かい側で一心不乱に朝食を詰め込んでいる彼女に対し、彼はまさか、ねと言った様子で聞いてみた。
アラタが言及したそれは、彼の中での計算で3人分6食分、つまり3食パンだったとしても2日は持つ、持たせるつもりで考えていたものだ。
しかし朝になり、朝食を準備しようと台所に立つと、何故か半分無くなっている。
おかしい、昨日の夕方にはあったはずなのに、昨日の夜はパスタだったから、パンは食べていないはずなのに。
自分が犯人でないのは分かるとして、グルメなドレイクが計算もせず自分の家の食べ物を消費しないことも想像できる。
であれば、犯人は1人しかいないわけで、その1人がよく食べるというのを目の当たりにしているわけであって。
「むぐっ、あれはこの拠点のものだろう。部隊の備品は共用のはずだ」
「マジですか」
「アラタ、お前の責任で何とかしなさい」
面倒ごとを押し付けられ、彼は酷く後悔した。
こんなことならクリスに食べる喜びを教えなければよかった。
携行食糧で十分とか言っていた頃のクリスに戻って欲しい。
そんな思いを込めて正面の彼女を見つめてみたが、食事に夢中みたいで彼の熱視線などガン無視である。
しばらく誰からも給料もらっていないのに、そんな金銭面の不安も相まって、アラタはパンを一つ残し、昼に回すことにした。
食事を摂ったのが午前7時、そこから僅か15分後、2人は家を出た。
予備のアジトはもうないみたいで、当分の間2人はドレイクの家を拠点に活動する。
特務警邏がこれ以上2人やドレイクについて集中的に調べることは無いと師はアラタに言い、信用ならないアラタは個人的にも特務や通常の警邏の動向を調べた。
するとどうだろう、今回ばかりはドレイクの言うことに嘘はなかったみたいで、死んだことになった2人はかなり自由に動けることが判明した。
騙されていたら家に火を点けると言っていたアラタだが、本当のことを教えてもらったらそれはそれで肩透かしを食らったような気分になる辺り、彼もだいぶ歪んできている。
そんな彼は今、ドレイクに指示されたとおりにラトレイア伯爵家のアトラ別邸を監視していた。
支給された望遠鏡のレンズを覗き、変化のない景色に辟易しながらも任務に従事している。
「K」
「何だ」
「ラトレイア家ってどんなとこ?」
レイフォード派閥で脇が甘いから監視するように、アラタの持っている伯爵家への情報はそれが全てである。
鐘楼の展望台から屋敷を監視してる2人は、上がってきた後にはしごを外しておいた。
これで急に誰かと出くわすことなく任務に集中することが出来る。
もっとも、黒装束を身につけている以上誰か来ても気付かれない可能性が高いのだが。
クリスは手にしたパンを口に放り込み、咀嚼し終わってからアラタの質問に答えた。
「当主はビヨンド・ラトレイア。奴の父親が子爵から伯爵に格上げされ、ビヨンド自身はそれを引き継いだだけの俗物だ」
「おバカ2世?」
「それを言った子供を殺すような奴だ、決して清廉潔白ではない」
説明を終えたクリスは隣にいるアラタに手を差し出す。
それにパンを乗せると、手は引っ込み再びモグモグタイムが始まる。
ドレイク程ではなくても、市販の固いパンはアラタもあまり好きではない。
そんな食べ物でもアラタの用意したハムやらなにやらが挟まれていればクリスは満足するようで、無表情に見える中にも微かな幸福感が見て取れた。
それを横で見ていると、どうにもアラタの手は緩んでしまう。
本当ならもうダメと制限して、健康維持に努めるのが正しい特配課の姿だ。
でも今は気を紛らわせる意味もあるのか、そう諦め彼は食べ物を献上し続ける。
「けどさあ」
使われていない鐘楼の展望台は少し脆くなっているのか、もたれかかると服に石が削れた粉が付着する。
払えば落ちるが、肌にも服にも付きっぱなしは嫌だ、そんな感じだ。
滑らかなコンクリートの建物が良かったと、アラタは大型施設の地下駐車場の壁を想像する。
あれなら汚れることはあっても壁が粉を吹くことは無いから、こんなにイライラしなくて済むのに。
「今日ハズレじゃない? 何だっけ、私設部隊の名前」
「金眼の鷲」
「そうそう、かっけー」
本気でカッコいいなど微塵も思っていない彼の言葉は視線の先でくつろいでいる人々に注がれている。
望遠鏡を使えばはっきり顔まで見えるが、使わなくても身体強化アリなら何をしているのかくらいは見える。
金眼の鷲、そう名付けられた組織は今、屋敷の庭でバーベキューを楽しんでいた。
肉、野菜、海鮮、思い思いに好きなものを焼き、それを酒と共に楽しむ。
海の無いカナンで海産物を口にしている所を見ると、金持ち羨ましいという念しか出てこないが、彼らがそこまで稼げる人種かと言われるとそうは思えない。
「K、あれ食いたいと思わない?」
「食べたい」
「ちょっと金眼の鷲潰してさ、2人で食べちまおうぜ」
「分かった。行ってくる」
鐘楼の柵に足をかけ、飛び降りようとするクリスを見たアラタは戦慄した。
「嘘! 冗談だよ!」
「む、そうか」
「目がガチなんだよなあ」
外套を引っ張ることで引き留めたアラタだったが、彼女に食べ物の冗談は通用しないことを痛感した。
少し騒ぎ過ぎたかと、2人は気配遮断を起動、万が一に備える。
結果何も起きなかったが、こんな茶番で通報でもされたらたまらない。
アラタの冗談からひと悶着あったが、その後も監視を継続する2人。
2人に見られていると夢にも思わないだろう猛禽たちは、思い思いに羽を伸ばし、平日から日曜日のような生活をしている。
これが私設部隊の姿なのか。
それがアラタの素直な感想だった。
特殊配達課は休みなどなかった。
物流倉庫を拠点として日々の業務があり、任務の際には詰め所に集まり指示を待つ。
仕事は昼も夜も関係なく、それに応じた休息は与えられるがそれは睡眠時間に消える。
そんな経験しかない彼には、金眼の鷲は随分とお気楽に見えたのだ。
「帰るか」
「うん」
午後5時、日も落ちたところでクリスが監視終了を決定、アラタも同意してその日の任務は終了した。
この任務が始まる前、半日交代制にして24時間監視するべきだと主張したアラタも、自分の考えが間違っていたことを理解する。
日中寝ていたり何らかの準備に追われていたのならともかく、飲酒までしていて彼らは今夜、気持ちよく寝ることだろう。
立つ鳥跡を濁さずと言うが、鐘楼を後にするとき2人は原状復帰の為敢えて場を汚す。
使われておらず、誰も立ち入っていない現場を演出すると、2人は帰路に就く。
寒さは人を足早にさせ、他人に対して無関心にしていく。
黒装束は冬の方が向いているのかもしれない、と男は考え、女は彼が抱えている買い物袋に目が釘付けになっていた。
「食べすぎ注意」
「見ていただけだ。失礼な奴だ」
あなた昨日の夜パン食べてたでしょうが。
往来でおっぱじめるわけにもいかないので、アラタはグッと堪えて家に到着した後言おうと決めた。
まあそんなこと家に着くころには忘れているのが当たり前で、普通に玄関を上がりドレイクに報告し、夕食の準備に取り掛かる。
どうにもジャポニカ米以外が好きになれない日本男児はパスタに拠り所を求めてしまうのだが、それではよくないと今日は米に挑戦してみた。
鶏などの具材をフライパンで米と一緒に炊き上げる。
炊いた米を使うのではない、フライパンの上で他の食材の火の通りを帳尻を合わせながら米を炊く、それがパエリアだ。
あまり作らない料理だが、異世界で鍛え上げられた肉体感覚、彼の料理には繊細さがプラスされていた。
自己評価でそこそこの点数を獲得したパエリアを含めた夕食にはクリス様もご満悦だったようで、今日は一番風呂を譲ってやるとおっしゃられた。
ドレイクは朝風呂派なので気にせずアラタは食器を水に浸けると入浴に向かった。
「はふぅ」
身体を洗い、湯船に浸かると一日の疲れが染み出てくる。
刀を抜かなかったのだ、いつもよりは疲れていないはず、そう考えたが、それでも一日中金眼の鷲を監視していた、疲れないはずがない。
疲れた。
ここ最近、色々ありすぎて老いた気がする。
特配課を追い出されて、全滅して、クリスだけ何とか助けられて、騙した先生に斬りかかって、返り討ちに遭って。
もっと、ほのぼのとしたハッピーライフを送りたいよ。
エリーと一緒に適度に田舎な一軒家に住んで、家庭菜園とかして、仕事もしたりしなかったりして、そんな毎日が過ごしたい。
ノエルとか、リーゼとか、クリスとか、馬鹿どものお守りは疲れた。
「死んじまったらお守りしてやることすら出来ねえな」
野菜嫌いなドルフ。
口に入れば何でもいいエスト。
あれだけ何でも出来るのに料理はからきしなノイマン。
もうあいつらに何かをしてやることは出来ない、出来ない未来を選択してしまった。
「…………ふぅ」
いや、まだ出来ることはある。
あいつらのやったことが無駄にならないように、立場は反対になったけど、エリーの為に命を懸けて戦う。
それが償いになると思うから、それなら俺にも出来るから。
そう考えると心なしか体が軽くなった気がした。
シャワーの口から水滴が垂れる音が鳴る。
湯船から発生した湯煙は浴室内を網羅して、視界をおぼつかなくさせる。
ガラガラと引き戸が音を立てて開かれると、そこから煙は一斉に飛び出していく。
「うわっ、何だこれは」
ペタペタと歩き腰を落ち着けると、シャワーで体を綺麗に洗い、入浴準備が完了する。
さあシャワーの背後にある湯に浸かろう、クリスがそう体を反転させた時だった。
「おい」
返事はない、ただの屍のようだ。
「おい、起きろ」
「ん…………あぁ、寝てたのか」
「外に貴様の服がなかったが?」
脱衣所にはアラタの黒装束がなかった。
それに着替えも。
「ふぁあ、部屋で脱いでから来た。タオル巻いて戻ればいっかなって」
男は寝ぼけているのか丸出しで湯に浸かったまま話をしている。
女の方は隠すところはきちんと隠しているというのに。
「おいアラタ」
「んぁなに?」
「早く出ろ。ぶった斬るぞ」
クリス的にはこれが最大限の譲歩であり温情だ。
入浴中の札を返しておらず、脱衣所にアラタが入浴中であると分かるものは何もなく、その上堂々と眠りこけていた彼に対して、彼女は非常に寛容だった。
しかし、気を張っていないアラタ程失礼な存在はこの世にない。
「もう出る出る。あと、クリスって着痩せするんだね。パン禁止する?」
窓から冬の外に全裸で放り出され、ようやく目を覚ましたアラタはもう一度温まりたいから風呂に入れてくれと懇願したが、結局聞き入れられることは無くその日は寝た。
翌日、火属性魔術で湯を作ればよかったと思い至った彼だが、後の祭りだ。
そしてクリスはなぜか食事の量を少し抑えるようになったというのだから、アラタは疑問に思い首を傾げた。
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