二十八話 望むものの為に……

「いいお湯でした」


 浴衣姿の織枝が部屋へと戻って来る。未だ頭の上から湯気が出ており、体の芯まで温まっている事が見て取れる。


「それはそれは、随分と満足したようで」

「……女性の部屋に主人がいない間に入るのはどうかと思いませんか?」

「無理やり連れてきた本人がよく言う。それともあれか? 俺にツッコませる為にわざとやってんのか?」

「半分半分、といったところでしょうか」

「何が半分なのか、聞きたくは無いな」


 持っていた湯飲みを振りながら、手に持ったSIDでネットサーフィンを続ける和沙。そんな彼を横目に、織枝は自身の服を畳みながら、和沙に風呂を勧める。


「和沙様も入っていらしてはいかがですか? ここのは昨今珍しい天然の温泉ですよ」


 温泉、そう聞いた瞬間、和沙の顔が歪む。半年ほど前だったろうか、和沙は仲間と合宿に行き、そこで温泉に入っている時に酷い目にあったものだ。意図せず混浴にはなったが、そこに色気の二文字は存在せず、破天荒極まりない凪に振り回され、溜まった疲労が回復する事は無かった。よくよく考えれば、昼も夜もあれだけ騒いでおきながら、よくもまぁ体力がもったものだ。

 その事を思い出し、織枝を見る和沙の目がどこか猜疑心を含んだものになっている。


「……乱入してこないよな?」

「そんなはしたない事をする女の子はいません」

「そうか、いないのか……。じゃああいつらは一体何だったんだろうな……」

「はい?」


 和沙がボソリと呟いた言葉に聞き返すも、その返答は無くただ黙って部屋から出ていく。あの日とは違い、平穏な温泉事情にヤキモキする事もあったか、いたって普通の温泉だったと言えよう。


「……はぁ」


 暦上では既に春だが、現代の気温や天気から考えればまだまだ冬と言っても十分通じる程だ。その証拠として、温泉から上がる湯気は濃く、和沙の吐く息は白く染まっている。実際、昔から真冬よりも若干春になりかけの時期の方がよく雪が降っていた事を考えると、やはり今はまだ冬と呼んでも過言ではなさそうだ。

 空を仰いでも、雪らしきものは見られない。この街に来てから、雪らしい雪は見ていない。多少水分を含んだみぞれのようなものは何度か目にはしたが、雪とは到底呼べないものだ。佐曇市は、和沙達が発つ頃にはもう積もっていた雪が解けかけている頃合いだったが、あの土地自体一度振ったから二度目は無い、といったような場所ではない。おそらく、あれ以降も外に出るのが鬱陶しく思えるくらい振っているだろう。犬は喜び庭駆け回る、というが、いかんせん二足歩行生物である和沙にとっては、あまり喜べる光景ではなかった。一日中部屋から真っ白な外の景色を眺めていたのを覚えている。


「……連中、雪で凍え死んだりしないかな」


 熊じゃあるまいし、と言った直後に自分でツッコむ。例え熊であっても、雪が降っているから、とそれだけで凍え死んだりはしない。あれらの毛皮は想像以上に分厚い。その程度で死ぬのなら、もとより駆除するのに銃など不要だ。喉をマチェットか何かで掻っ切ればいい。それが出来ないから貫通力の高いライフルや、近~中距離での制圧力を誇るショットガンを使用するのだ。攻撃性能もさることながら、防御も堅いという、なかなか厄介な存在でもある。

 まぁ、その熊も、絶滅していなければ、の話だが。

 そこまで長湯をするつもりは最初から無い。のぼせる前に上がるとする。そもそも暑さに弱い和沙の事だ。熱湯とは言わずとも、かなり近い温度の湯に長時間浸かっていられるはずも無い。時間にしてほんの十分程度。温泉を味わうには短すぎるくらいだ。にも関わらず、和沙は小一時間は堪能しました、とでも言いたげな表情を浮かべて温泉から出ようとする。余談だが、ここには他の客も当然宿泊している。中には織枝同様に仕事に疲れた男性なども利用するのだが、運悪く? 脱衣所で遭遇してしまい、ジロジロと怪しげな視線を向けられたのは織枝には言えないだろう。ちなみに、一睨みするとそそくさと浴場へと向かって行った。




「ず、随分早いですね……。湯加減はどうでした?」

「熱い。湯に浸かる事自体は嫌いじゃないが、もう少しぬるい方がいい。俺はどっちかというと冷たい方が得意なんだ」

「ですが、この冬は一度も自発的に外に出ていない、と鈴音さんから教えてもらいましたよ?」

「ぐっ……、余計な事を……」


 とはいっても、暑かろうが寒かろうが、基本的には引きこもり全肯定の和沙にしてみれば、特に理由も無いのに外に出る事自体が理解不能だ。その為、今の家に引っ越して来てからも、あまり自分から外出するような事はしない。これはここに来る前も同じだった。

 鈴音からは、健康にも良いからと度々太陽の光を浴びる事を勧められるが、日の光を浴びると灰になるタイプの人種である為、絶対に外には出ない。実際、夏には一度溶けかけた事もあった。

 こんな事では、サウナなどはものの五分もしない内に出てきそうな雰囲気だ。そもそも入る事すらしないだろうが。


「別にゆっくりしに来たからって、温泉に何十分も何時間も入っていなきゃいけない、なんて事は無いだろ?」

「それもそうですが……、こういうところに来る事自体が稀なので、味わえる時にたっぷり味わっておくのが私の主義なので」

「意外とやる事が庶民臭いよな、あんた」

「庶民だろうと、お金持ちだろうと、味わうものはじっくりと味わうものだと思いますが」

「それもそうか」


 存外あっさりと納得した為か、その引きの良さに織枝は思わず瞬きをしている。まぁ、普段話していれば理屈だの屁理屈だので完全防御を行う和沙の事だ、これ幸いと織枝の実家をこき下ろしでもするかと思いきや……意外だった。


「……そういえば、食事は海の幸がメインとの事です。楽しみですね」

「まぁ……、イカとかアンコウとか出なければ何とか……」

「え?」

「いや、なんでもない」


 過去に苦い思い出がある為か、その二種類に関しては未だに図鑑やネット上で見る事も難しい。まぁ、二度も海中に引きずり込まれたのだ、多少苦手に思っても仕方の無い話だろう。

 しかし、佐曇市の温羅は海から来ることがほとんどで、それはどこの地域もそうだと思っていたが、神前市も併せて、この辺では水陸両用自体が珍しいらしい。魚が温羅化しているのでは、という和沙の懸念は空振りに終わり、仲居の女性が運んできた料理はいたって普通の、それでいて豪勢な海の幸の盛り合わせや鍋、果ては焼きなど実に多彩な料理がテーブルの上に並んでいた。

 家柄上、こんな料理飽きるほど見ているだろ、と思っていた和沙だが、織枝はその目を輝かせている。実においしそうに料理を口に運ぶ姿は、到底祭祀局のトップであり、現在の日本の実権を握っている家の当主とは到底思えない。年頃の女性、いや、見る人が見れば少女に映る事もあるだろう。それほどまでにその姿は普段彼女が見せる顔とは大きく異なっていた。


「どうしました? 海産物は苦手でしたか?」


 和沙が一切手を付けていない事を疑問に思い、織枝が問いかけてくる。だが、その手が止まっているのはお前のせいだとは言いづらい。


「……いや、なんでもない」


 なんというか、ここまで織枝の色々な顔を見てきて少し疲れたのだろう。あまり力の籠っていない声で溜息を吐くようにそう答えると、和沙もまた、目の前に並べられた食事へと箸を伸ばした。


「そういえば」


 織枝が何やら思い出したように呟く。彼女の目の前にある器には、もうほとんど料理は残っていない。そこまで食事に対してがっついているイメージは無いが、それでも役職柄だろう、食事自体のスピードは早い。そんな彼女だが、やはりこの旅館の食事は味わうべきだと思ったのか、一般的な女性と同じくらいの速度で箸が進んでいた。


「昼間外に行きましたよね。何かありました?」

「何か、ってのは?」

「いえ、帰ってきた時、出ていく時の顔とは少し違うような気がしてたので。何も無ければそれでいいんですが、何も無いのに表情を変える程百面相では無いでしょう?」


 鋭い、と言うべきか、よく見ている、と褒めるべきか。やはり腐っても鯛、職務から離れているとはいえ、彼女は祭祀局のトップに位置する人物だ。人の性格や、癖などよく把握している。そこまでしなければ生きていけなかったのかもしれないが、細かな違いに気づくのは単純に驚嘆に値する事だろう。……まぁ、和沙が表情豊か過ぎる、というのもあるかもしれないが。


「無い、と言えば嘘になるな」

「おや、どんな事があったかお聞きしても?」

「言うと思うか?」

「意外と押したらポロっと口にするのではないか、と」

「……」

「冗談です」


 そこまで口が軽くなった覚えは無い。むしろ、自分の過去を隠し続けてきた事を考えると、和沙は口が堅い方だろう。ただし、体や表情は雄弁なようだが、


「んなつまらん事気にしてないで、あんたは大人しく自分の仕事を全うしてろ。それさえ済めば、全部丸く収まるんだからよ」

「つまり、私と関係がある事、と?」

「……随分想像力が達者なようで。安心しろ、少なくとも直接あんたに繋がるような事じゃあ無い」

「でしたら、鈴音さん、とか? 随分と大切になされてますものね。仲も随分と良さそうですし」

「……一応、血は繋がってないけど肉親だ。家族くらいは大切にするべきだろ。あんたの先祖と違って」


 その言葉を聞いた瞬間、今まで笑みを浮かべていた織枝の表情が凍り付いた。何せ、彼女の実の祖先は御巫では無く、本来和沙に父親と呼ばれる婿養子に来た男性だ。当然、本当の御巫家との血縁など一切無い。

 和沙にしてみれば、渦中にあった母親を見捨て、子供二人を置いて実家に逃げ帰った情けない男、という認識だが、この人物がいなければ祭祀局は存在しなかったと言ってもいい。存在する事に意味があったかどうかは分からないが。

 既に名前は息子に忘れ去られ、ただ自分達を捨てた人物、という認識でしか記憶には残っていないが、だからこそ、和沙は彼の人物に言いしれようの無い憎しみを抱いている。もしも、母が大変な時に傍にいれば、命を落とした時に和沙達と共にいれば、少なくとも和沙がここまで父に、そして人間に黒い感情を抱く事は無かっただろう。


「……もしかして、ここに連れてきたのは迷惑でしたか?」


 音も立てず、ゆっくりと箸を置く織枝の口から出てきたのはそんな言葉だ。その顔はどこか悲哀に満ちており、先ほどまで嬉しそうに海の幸を口に運んでいた人物と同じとは到底思えない。

 おそらく、これまでも罪悪感は感じていたのだろう。和沙の正体をいい事に表には出来ない仕事を押し付けたり、こうして自分の我儘に付き合わせたり、と和沙本人からすればただただ振り回され続けていた。普通の人間であれば、途中で音を上げてどうにかして解放してもらおうとするかもしれない。

 だが、和沙は普通では無いのだ。身体的な事もそうだが、精神的に、根本的に。


「何を今更。これまでさんざっぱら好き放題されて、むしろ迷惑じゃないとでも思ってたってのがびっくりだ」


 言葉とは裏腹に、和沙の声は軽い。目の前で自分の事で悩み、暗い表情をしている人物がいるにも関わらず、その声は普段と何も変わらない。


「迷惑だろうが何だろうが、いずれにせよ俺にはあんたに付き合うだけの理由がある。それを口にする気は無いが、確かに迷惑だと思ってはいたけど、その程度で離れる程、軟な体力してねぇよ」


 刺身を口に放り込み、存外悪くないな、などと呟きながら和沙は続ける。


「それに、本当に迷惑だのなんだの思ってるなら、途中でカットアウトするか……斬り捨ててる。その首が繋がってるって事はそういう事だよ」


 何てことは無い。和沙にしてみれば、この程度で文句は言うが、だからって離れる理由にはならない。どれだけ薄くても、彼にとっては唯一の肉親と言えるのだ。その事を口にはしないが、子孫の願いなら、多少の無茶は聞く、それが鴻川和沙という人物なのだから。


「……クス」

「何がおかしい、どうおかしい、言ってみろ!」

「別におかしいという訳では……。いえ、やっぱりおかしいですね。あれだけ色々と押し付けられた上に、時には雑な扱いすらされたのに、それでもこうして付き合ってくれる。こんなに嬉しい事はありましょうか」

「まぁ、この付き合いもそう長く続くようなもんじゃない。かつての扱いに比べれば軽いもんさ」

「そう言っていただけるのであれば、私としても心が軽く思えます。ですが、本当の本当に嫌になったら、その時は言ってください。こちらとしても、唯一の理解者を失いたくはありません」

「理解者? 妹がいるだろうに」

「あの子は……、理解者というよりも他の家人と同じく慕ってはくれますが、それ以上の事はありません。あくまで見上げてくる事はあれど、私と同じ目線で立つ事はありませんので」


 そう言いながら笑う織枝の顔はどこか悲しそうだ。普段の様子を見ていても、彼女達二人の仲が悪いようには見えない。しかし、それは仲が悪くなる様子が無い、というだけで、本音をぶつけ合う関係ではない、という事でもある。

 織枝が一番欲しかったのは、自分と同じ目線で、同じ物を見て、それでいて違う意見を口にしてくれる人物だ。決して信奉者が欲しいわけでは無い。


「ですが、こうして本音で仰ってくれた事、感謝致します。……これで遠慮無く色々とお願い出来るわけですね」

「……待て、つまりあれか? 今までは遠慮しててあれだった、って事か?」

「まさか。ですが、今後はあれら以上の仕事を頼むかも、という事ですよ」

「隠し研究所に潜入する事以上に何があるんだよ……」


 今更ではあるが、和沙は織枝に対する態度を暴露した事を後悔し始めていた。

 だが、そんな先祖の絶望した表情を前に、織枝はころころと嬉しそうに笑っていたのだった。

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