第55話 帰参
気付くと、俺は辺り一面が白い謎の空間にいた。
白い、と言っても雪が積もった、などと言った自然的なものではない。無機質な、それこそ生命の一つも感じられない無味無臭の空間。
あぁ、そうか……。ここはい所謂死後の世界、ってやつなんだな……。
何故だろうか、あれだけ足掻いてた癖に、いざ死を体験してみると、案外あっさりと受け入れられている。俺が異常なのか、もしくはそう思わせるこの空間が異質なのか。
それはそうと、俺はここで何をすればいいんだ? 迎えがいるわけでもなし、だからと言って、どこに行けばいいか、案内板が出ているわけでもない。前後左右、どこを見回しても、ただただ白い世界が広がっているだけだ。
「不親切な話だ」
思わず口を突いて出たものの、そもそも何から何まで案内があるような親切な冥土など聞いたことも無い。
しかしながら、人をこんな所に招き入れたのであれば、閻魔の一人でも出てくるのが筋だろう。……いや、俺が勝手に来たのだろうか?
――呆れたな、こんな状況でも減らず口だけは立派か。
不意に聞こえて来た声に、辺りを見回すもその主らしき人物は見当たらない。そもそも、今の声は耳に届いたのか、それとも頭に直接響いたのかよく分からないものだった。
――こっちだこっち。全く……抜けるものが抜けたらこうまで呆けるのか……。いや、こっちが素か? 何にしろ、迷惑な話だ。
随分と失礼な事を言われている気がする。俺はこれでも、あの中じゃあまだ真っ当なな方だぞ。
――あの中、ねぇ……。まぁ、いい。ほら、さっさとこっちに来い。
未だに声がどこから聞こえているのかは分からない。が、何故か俺はまるで手招きでもされているかのような感覚を覚え、そちらへと足を一歩踏み出した。
「こ、こは……」
踏み出した俺の眼前に広がっていたのは、和風家屋の庭先だった。
家屋自体は大きなものの、鴻川家のような装飾や調度品が飾ってあるわけではなく、ただ大きいだけ、の家だ。庭も、家の大きさに比例し、かなりの広さを持つが、木が一本空に伸びている以外は物珍しい物は無い。至って普通の家だ。
「思い出したか?」
今度ははっきりと、声が耳に届く。声が聞こえた方へと視線を向けると、そこにいたのは一人の少年だ。いや、少女、だろうか。
「おいおい、自分の容姿に疑問を浮かべるな。誰がどう見ても男、とはお前が言った事だろ」
目の前の少年、俺と全く同じ顔をした人物は、非常に迷惑そうな表情を浮かべる。なるほど、人に言われる度に反論してきた事だが、こうして見ると、確かにそう言われても仕方がない容姿をしている。
「いつまでそんな所に突っ立ってる。俺に見上げさせるな」
何とも不遜な口調ではあるが、少年の言うことにも一理ある。縁側にて、少年が座っている場所から少し離れた場所に腰掛ける。
「さて、言いたい事はいくらでもあるが、まず一つ、どうしてみ聞かなきゃならん事がある。人は、お前の望んだ通りのものになっていたか?」
「俺が、望んだ……?」
何の事か分からない。少なくとも、そこまで広大な野望を抱いた記憶は持ち合わせていない。
「あぁ、いや、言い方が悪かった。シンプルに聞こう。人は、変わったか?」
人は変わったか、何をどう指して変わったのか、そう問い返そうとしたが、俺の口は別の言葉を発していた。
「変わっていたら、今頃俺はここにいないさ」
無意識、ではない。まるで最初から準備しtわったかのように、ごく自然に口を突いて出たその言葉が、俺の頭の中の様々な物を掻き混ぜていく。
あぁ、そうか。俺は、俺は……。
「何だ? やっと思い出したのか。失ってから約半年……、いや、違うか。もっとだな。まさか死の際に全部思い出すとは思わなかったぞ」
コロコロと少年の表情が変わっていく。その様子は、忙しくも楽しそうだ。
「走馬灯ってあるだろ? 死の間際に瀕した時、今までの記憶が頭に過ぎる、ってやつ。あれのお陰かもな」
「お? じゃあ、殺されたのは間違いじゃなかったってのか? Mかよ、お前!」
「アホか、たまたまだ。そもそも、こんな場所に迷いこんでなければ、そのまま何も思い出さずに死んでいた」
「こんな場所、ねぇ……」
少年がそう言いたくなる気持ちも分かる。俺はこの場所を知っている。いや、正確には、元になった場所を、だが。
「そんな顔すんなよ。別に、悪いなんて言ってないんだから」
「分かってる。いや、だからこそ、だ。俺たちはどう足掻いたって、もうあの頃のこの場所には帰ってこれないんだからな」
あぁ、そうだ……。もう帰る事など出来ない。
あれだけ記憶を取り戻す、などと言っておいて、実は帰る場所などどこにも無かった、などと言ったら、あの一家はどんな顔をするだろうか?
同情か? それとも、哀れみか? 何にしろ、意味の無い共感くらいはするだろうさ。
しかし、だ。帰る場所が無いからこそ、振り返る必要が無いからこそ、先に集中出来るというもの。
「完全に取り戻したか?」
「本当に完璧かどうかは疑問が残るところだがな。まぁ、こんなもんだろ」
「相変わらずアバウトなやつだよ」
「俺とお前は同一人物だぞ。その言葉はそのまま自分に返ってくるがいいのか?」
「何、今更だろ?」
「それもそうだ」
全くと言っていい程、意味の無い言葉のやり取りが交わされる。だが、俺にとってこれ以上無い程意味の詰まったものだ。自身の記憶の擦り合わせを行う、と言う意味で。
そのおかげもあってか、頭の中で靄のかかっていた部分が段々と晴れていく。自身のやるべきだった事、見るはずだった物、やりたかった事。
「……」
そして、その結末を。
「何とも無様なもんだ。あれだけの事をやっておいて、まだ生きてるのか」
「生き恥を晒す、ってはこういう事を言うんだろうな。全くもってみっともない」
少年が吐き捨てるように言う。自分の事ながら、そこまで気に入らない結末だったか。……確かに、そう言われるとそんな気もしないでもない。あれは、不愉快極まりない幕の引き方だっただろう。
しかし、だ。幕は閉じたが、まだ舞台が終わったわけではない。
生きてここにいる以上、為すべき事を為し、果たすべき事を果たす。でなければ、このまま冥土に逝ったところで、笑いものになるだけだ。
「別に笑われてもいいんじゃないか? どうせあの人も、違う意味で笑うと思うぜ」
「……」
そんな事は無い、と言い切れない自分が悲しい。確かに、あの人は笑うだろう。だが、その後に必ずこう言うだろう、失敗するのは悪い事じゃない、と。
底抜けに明るく、底抜けにお人よしだったその人物を思い浮かべ……、何故だろうか、苦労させられた思い出くらいしか思い出せない。
「そう難しい顔すんな。そういう人間だろ、あれは」
「まぁ、そうだな」
今は亡き人物に思いを馳せたところで意味は無い。考えるべきは、別の事だ。
「んで、どうするんだ?」
少年の言葉に、俺は口角を上げて不敵な笑みを返す。
「そんなもん、いちいち言う必要があるか?」
「そうだな、そういやそうだった」
この少年も俺も、そもそも一人の人間なのだから、いちいち言う必要は無い。以心伝心が可能とは、便利になったものだ。……まぁ、それもこの空間内での話なのだが。
縁側に掛けていた腰を上げる、すると、横に座っていた少年が不思議そうな表情をこちらに向けてくる。
「なんだ、もう行くのか?」
「何言ってる、お前も行くんだぞ」
「そういやそうか。何、一人の時間が多くて少しばかり色々と鈍っていただけだ。しかしまぁ、ようやくこの窮屈な場所ともおさらばか……、もうちょっといたら駄目か?」
「駄目だ」
まぁ、少年がこの場所に未練を持つのも分かる。
ここは且つて、俺を含めた三人の親子が住んでいた家だ。世間から疎まれ、謗られ、ある事無い事言われていた状況でも、家に帰ってくればいつもの日常が待っていた。
だが、ここにそんなものは無い。あるのは、記憶が作り出した幻想だけだ。
「……」
未練が無い、とは言い切れない。それでも、俺にはやるべき事がある。それを果たした後、またここに来ればいい。……次は、親子三人が揃う場所、それこそ三途の向こう側だろうが。
「ほら、行くぞ」
少年――俺の片割れに立つように促す。同一人物なのに、何故こうも行動が異なるのか。持っていた性質が二つに分かたれた結果、たまたま別を向いた性格だった、というだけなのだろうが。
「ま、引きこもるのもここいらで終いにするか」
ゆっくりとその場から立ち上がった片割れは、不意に目の前へと腕を突き付ける。すると、辺りの景色がゆっくりと崩れ始め、まるで溶けるようにしてその場に落ちていく。
後に残ったのは、俺と片割れだけだ。辺り一面は、いつの間にか最初のこの場所に来た時に立っていた、何も無い真っ白な空間になっていた。
「さて、それじゃあ行くとしましょうや、相棒」
「なんだ? あれだけごねたのに、結局やる気なんじゃないか」
「おいおい、別に俺はだらけてもいいが……、起きたら目の前ででかい口が開いて待っている、なんてオチはごめんだぜ」
「それもそうか。んじゃ、この不始末をさっさと終わらせて、行くべきだった場所に逝くとしますか」
「おうよ」
片割れが俺に向かって左拳を突き出してくる。俺もまた、それに合わせるようにして、右拳を差し出す。
拳と拳がぶつかった瞬間、何かが溶けるような感触がし、それが自身の中に流れ込んでくるのが分かる。
帰るべき場所に帰ってきた。気のせいか、そんな言葉が俺の中から聞こえた気がした。
何かが流れ込んでくる感覚が途切れると、俺はゆっくりと目を開き、目の前を見据える。
「ほんじゃ、本領発揮と行こうか」
にやり、と思わず口角の端で不敵に上がるのが分かった。
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