第82話 真名
「よくもまぁ、ここまで調べたもんだ」
一通り見終わったのか、端末を机の上に戻す。しかし、よくやった、と言う割にはその顔はどこか失望しているようにも見える。いや、次の瞬間に見せた、つまらなさそうな目が、それを裏付けている。
「しかし、正直なところ期待外れだ。ヒント、と言うか手がかりはいくつもあった。何より、鴻川の名を継いでいる以上、その選択肢は十分にあったはずなんだが……、まさかそもそも思いつきもしなかったとは」
「何を言っている? その資料にある事が全てだろう。名も無い実験体A。いや、かつては名前があったのかもしれないが、そのプロジェクトの実験体になった時点で、戸籍は全て抹消される。事実上、お前に名前は既に無い……」
「ク、ククククク……、あっはっはっはっはっは!! 名前が無いか、そうか、俺は誰でも無い、とそう言いたいのか!」
突如、笑いだした和沙に、その場にいた誰もが驚いた表情を見せる。驚愕だけではない、笑ってはいるものの、七瀬や葵は、そんな和沙に言い知れ様の無い恐怖を感じたのか、その場から少し後ずさる。
「に、兄さん?」
狂ったように笑っている兄に、恐る恐る声をかける鈴音。しかし、彼女でさえ、今の和沙を前にすると、声が少し震える程に得体の知れないものを感じていた。
「名無し、名無し……ねぇ、全く、面白い事を言うもんだ……。……よくまぁ、その口でほざいたな盆暗ァ!!」
笑っている、そう思っていたのもつかの間。この部屋全体の空気を震わせる程の怒号が和沙の口から放たれ、思わずその場にいた全員が萎縮する。
「よくもそんな巫山戯た事が言えたな! 誰のせいでこうなった! 誰のおかげでここまで堕ちたと思ってる! 適応改造計画? 本局によって作られた男性の巫女? そんな事あるはずが無いだろう馬鹿共が!!」
その怒りが治まる事は無い。いやむしろ、目の前にいる人間の唖然とした表情が、更に癇に障ったのか、その言動はヒートアップしていく。
「奴は子孫に何一つ残さなかったのか? 罪の意識? それとも子孫に下手に重荷を背負わせないようにする為か? 何にしろ、やってる事は無責任以外の何物でもない。いや、都合の良い事だけを残した辺り、アレも所詮は有象無象の一つだったと言うべきか」
「か、和佐? あんたどうしたの……?」
固まっていた巫女隊の中で、凪が意を決したように口を開くが、一通り話した和沙の無感情な目に睨まれ、ついひるんでしまった。
「どうした? 何かおかしい事でもあるのか? あるはずがないだろ。俺も、お前らも、何一つおかしい事は無い。あぁ、そうだ、本来変わるべき者が変わっていないだけの話だ」
答えになっていない。しかし、和佐が今の状況、この部屋の事ではなく、ヒトの状況に憤りを感じているのは分かった。しかし、凪達には、その原因となるものが思い当たらない。
「で、随分と頑張って調べ上げたようだけど……、残念、不正解だ。実に無意味な時間を過ごしたな、鴻川主任。あぁいや、今は支部局長か。失礼、別の人間がごっちゃになっていた」
「鴻川……主任? それって……」
菫は心当たりがあるのか、時彦へと視線を向ける。
だが、実のところ、時彦が主任だった過去は存在しない。祭祀局佐曇支部局長は、世襲制ではないものの、代々鴻川家が担当している。中には、別の者がその役職に就いていた事もあったが、それは後任がいないなどの理由があった場合のみだ。そして、将来的にその役職に就く可能性のある人物が入局した場合、その人物は支部局長の補佐となり、退任次第その後を継ぐというのがこの局で通例になっている。
しかし、過去に一人だけ、この例から外れた者がいた。
その名は
和佐の口にした鴻川主任、とは、この人物の事を指す。
しかし、この事実を知っているのは、支部局長かその補佐に当たる人物、今でいう時彦と菫くらいなものだ。それを知っているという事は、つまり……
「理解したか? そもそも起点が間違っていたという事だ」
「……まさ、か」
思えばヒントはあった。和沙が最初に見つかったあの場所、他のメンバーとは明らかに大きさの違う洸珠、そして和沙がよく足を運んでいた神社。不完全ではあったが、それらの要素から、とある事実が浮上してくる。
それを口にしたところで、そんなはずは無い、と皆が口を揃えて言うだろう。その結論に至った時彦でさえ、そう思わざるを得ないのだから。
「和沙、お前の……本当の名は……」
笑みを浮かべる。しかし、喜びを表している訳では無い、快感を感じている訳でもない。嘲りであり、哀れみであり、それは答えに至った時彦への称賛でもあった。
「名前? 俺の名前は……千里」
「
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