六十二話 嵐の前の台風

「……」

「……なぁ」


 食器がぶつかる無機質な音のみが流れる居間で、流石にこの沈黙に耐えられなかった和沙が、目の前で仏頂面になりながらも食事を口へと運んでいる妹に声をかける。しかし、返事は無い。ただ、無言で食事を口へと運び続ける。


「あの……」

「……」


 思わず和沙が丁寧な口調になる程だ。それほどまでに、鈴音が身に纏っている空気は重々しく、そしてとげとげしい。原因は分かっている。帰りが遅くなった事だろう。それだけならまだよかった、一言謝れば、ここまで拗れる事はなかっただろう。問題は和沙の無神経な一言がきっかけだ。わざわざ食事を作って待っていた妹に、「二人で揃って食べる事に意味なんて無いだろ」などとのたまったのだ。その言葉を聞いた瞬間、鈴音の目からはハイライトが消え、一瞬で纏っていた空気が変貌した。以来、それっきりだ。


「……」

「そろそろ機嫌を直して頂けないでしょうか……」

「……何故ですか?」


 何故だろうか、普段と声色自体は変わっていないのに、彼女の言葉には妙な重さと、鋭利な刃物のような感覚を覚える。否、例え彼女が意図的にそうしている訳ではなくとも、無意識にそうなる程、和沙は機嫌を損ねたという事だ。


「いや、ほら、その……コミュニケーションと言いますか……」

「それが必要だとしても、ではないんじゃないですか? 先ほどご自分で仰ったじゃないですか、意味なんて無い、と」

「あれはそういう意味じゃなく……」

「でしたら何ですか? 待っていた私が無駄だったとでも仰るつもりですか?」

「うぉぉぉ……」


 語調は穏やかではあるが、その言葉一つ一つに計り知れないプレッシャーを感じる。それ程までに彼女の怒りは凄まじいものだった。もはや自身の手には負えない、そう匙を投げてもおかしくは無い状態だった。


「……大変申し訳ございませんでした」


 手に負えないと言うのであれば、やる事はただ一つだけ。大人しく謝る事だけだ。今の和沙にはそれくらいしか出来ないだろう。椅子から立ち上がった和沙は、そのまま四肢を床に突き、いわゆる土下座の体勢で頭を下げて鈴音へと謝意を示している。そんな兄を上から冷たい目で見下ろしていた鈴音だったが、少し経ってその口からは溜息が漏れた。


「……言葉は考えてから口にする事。でなくとも兄さんは口が悪いんですから、私じゃなければ一生モノになりかねませんよ? 分かっていますか?」

「此度の事態で存分に肝に銘じました故、何卒ご容赦を……!!」

「はぁ……、言葉使いを変えれば良いという事じゃ……、もういいです。早くご飯を片付けて下さい」

「……本当に?」

「本当も何も、そんな恰好で謝る相手をいつまでもねちねちと責める程陰気じゃありませんから。ほら、早くしてください」

「愛してるぞ、妹よ!!」

「はいはい……」


 許された事に歓喜し、おかしなテンションになっている和沙に、どこか疲れたような反応を返す鈴音。


「ですが、きっちりと説明はしてもらいますよ。何故こんなに遅くなったのか、を」

「まぁ、その辺りはちゃんと説明するさ。お前にも関係無い話じゃないしな」

「?? 私に関係のある話ですか?」

「最悪、と言葉の前に付くけどな」


 疑問符を浮かべている鈴音を他所に、和沙は目の前の残った食事を全て平らげ、食器を片付けながら口を開く。


「例の地震の件だ。あの件で進展があったから、その報告に行ってたんだよ」

「報告? 佐曇にですか?」

「うんにゃ、浄位」

「じょう……浄位!? あの御巫様にですか!?」

「その御巫様。この前ちょっと忍び込んだ時に見つかってね、こっちの正体が知られたから、それを出汁にこっちの支援をしてくれる事になったからな。今日は発見したものの報告に行ってたんだよ」

「はー……」


 茫然とした表情を和沙に向ける鈴音。その理由はいちいち考えなくても分かるだろう。鈴音の知らぬ間に、彼女の所属する組織の最上位に位置する人物と繋がりを持っていたのだ。むしろ驚かない方がおかしい。

 織枝とはつい先日協力関係になったばかりだが、鈴音への報告はしていなかった。まだする必要が無いと判断したからだろう。しかしながら、このような形で判明したにも関わらず、この事を隠されていた本人に特に怒った様子は見られない。


「まぁ、いいですが。必要な事、だったんですよね?」

「まぁな。下手すりゃこの街の将来に関わる事だからな」

「……なんだか妙に話が大きくなってませんか?」

「言うな、そろそろ俺一人の手には余り始めてきたところだとは思ってるよ。だからこそ、あの御巫様に話を持って行ったんじゃないか」


 実際、敵の正体が分からないうえ、その規模すらも想像がつかない以上、この件を和沙の下で燻ぶらせておくわけにはいかない。織枝の元へと持って行ったのは英断と言えよう。


「それで、話は上手くいったんですか?」

「とにかく、今どのような状況かは理解してもらった。そこからどう判断するのかは向こうの仕事だ、俺には関係無い……とまでは言わないが、俺が手を出す状況じゃない」

「適材適所というわけですね」

「そういう事」

「ところで兄さん」

「ん?」

「そろそろ中間考査ですが、勉強の方は大丈夫ですか?」

「……」


 そっぽを向く。どうやら聞くまでも無かったようだ。連日調査をしている和沙の現状等、それこそ考えるまでも無い。おそらく、勉強に関しては壊滅的では無いだろうか。


「進級が出来なくなる、という事は無いでしょうが、それでも私の身内である以上、ある程度の成績は残しておいてもらわないと、私の評価に関わって来るので」

「べ、勉強なんかできなくても、将来困らないから良いんだよ!!」

「でも、勉強をしておけば、学んだ事が関わって来る仕事に就く事が出来ますよ? 兄さんはもっと将来の事を考えるべきです」

「ぬぐぐ……」


 鈴音の言う事が正論なだけに反論をする事が出来ない。苦々しげに歯を噛みしめている様子を見て、鈴音は呆れた表情を隠そうともしない。しかし、本来であればその情けなさに呆れかえるところだが、こうして優しく声をかけているところを見たところ、例え悲惨な成績を残したとしても鈴音が本気で和沙の事を見捨てる事は無いだろう。

 ……まぁ、多少悪態は吐くだろうが。


「ほら、勉強しましょう。兄さんだって、補習なんかで時間を潰したくないでしょう?」

「でも、俺にはやる事が……」

「今すぐやる必要がある事ですか? 今一番大事なのは、勉強して、中間考査で普通の点を取って、それからまた改めて調査を始めればいいじゃないですか」

「うぐぐぐ……、俺の時代は年度の最後の学期には中間考査なんて無かったのに……」

「昔は昔、今は今です。ていうか、一学期と二学期はどうやって乗り越えたんですか……? 兄さんがまともに勉強してる姿を見た事ほとんど無いんですけど」

「一学期は……あれだ、まだいい子ちゃんモードだったから、普通に勉強してた」

「いい子ちゃんモード……」

「んで、二学期は……水窪に色々と叩き込まれた」

「……なるほど、公的にはサポートメンバーでも、その中から赤点なんて取ると、巫女隊のイメージ悪くなりますからね。その辺りを見越していたとは、流石は七瀬さん」


 この街の巫女がどうかは分からないが、実のところ佐曇巫女隊のメンバーは皆学業に関しては優秀の一言だった。

 七瀬は当然の事、彼女といつもいる日向はそんな七瀬から直に教えてもらう事が出来、七瀬自身もそれが良い復習になると言っていた。また、意外ではあるが凪の成績は学年の中でも上から数えた方が早い場所にいる。どちらかと言うと、和沙のように勉強を忌避するタイプのようにも思えるが、実は隠れて努力するタイプなのだった。鈴音は言わずもがな、葵も極端に高くはないが、それでも中の上程度を毎回キープしている。ゲームばかりしている印象だが、やる事はやっているのだろう。

 それに引き換え、和沙の成績は悲惨の一言だ。赤点こそ回避はしているものの、成績表を見た時彦が毎度頭を抱えていたのを思い出す。極端に悪い、というわけでは無いのだが、それでもまともに勉強してそのレベルな為、将来は頭を使う職業には付けないな、などと本人は考えていた。


「何でしたら睦月さんを呼んできましょうか? 多分ですけど、快く引き受けてくれると思いますよ?」

「やめろ、それだけはやめろ!!」


 和沙の悲痛な嘆きもむなしく、数分後には睦月主導の勉強会が行われていた。

 後に聞いたところ、勉強に関してはかなり厳しかったようである。普段の彼女からは予想もつかない程に。

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