第35話 パラダイス 5

 すっかり日も落ち、別荘へと戻ってきた凪達は、それぞれ溜まった疲れを癒していた。とは言っても、流石の鴻川家とはいえ、温泉まで所有しているわけではない。しかし、大浴場と見紛うほどの風呂場は、ここにいる全員が入ってもまだ余裕がある大きさだった。

 和佐の計らいで先に入っていた凪達は湯船でゆったりとしながら、女子トークを楽しむ。色々と赤裸々に語られる内容に、顔を赤く染めたり、興味津々に食いつくなど、その反応は様々だった。

 そんな風に女性陣がバスタイムを楽しんでいる中、和佐は一人別荘を抜け出して夜の散歩を楽しんでいた。


「……」


 夜風が和佐の頬を撫で、うなじ辺りで纏められた髪を揺らす。昼間の暑さが嘘のようだ。

 視線の先では、夜の海が漣を立てている。漆黒の世界と化したその様相に、和佐は思わず目を奪われる。

 別段珍しい光景ではない。和佐が住んでいる佐曇市も、海に面した街だ。見ようと思えば、屋敷の敷地内からでも見える。が、ここでは向こうでは味わえない静寂がある。何せ、ここいらは住宅街でもなければ、リゾート地のど真ん中でもない。あくまで、プライベートビーチの近くというだけだ。そのおかげか、この周辺にはほとんど街灯が無く、こんな場所にこの時間に好き好んでくるような人間はいない。

 故に、ここは和佐にとって、非常に心地よい場所でもあった。


「……」


 その目は海に向けられているが、一体何を見ているのだろうか。


「何見てるの?」

「うわっ!?」


 いつに間にか、和佐の側に風美が立っていた。風呂上がりなのか、彼女の格好は外出用の服装ではなく、簡素な部屋着のようなものだ。

 懐中電灯を持ってはいるものの、それ以外に何も持っていないところを見るに、和佐を探しに来ただけのようだが……。


「こんな時間に一人で外を歩き回るな。何があるか分からないんだぞ」

「大丈夫だよー。そういうのって、結構分かるから」

「そういう問題じゃないんだけどなぁ……」


 彼女にしてみれば、昼間だろうが夜だろうが関係無いのだろう。しかし、それは彼女に限った話であって、他の者達はそうはいかないのだ。


「お前に何かあった時、他の連中が見つけられないかもしれないだろ?」

「ん~、大丈夫だと思うんだけどなぁ」

「時にはそういう事もある。お前の事は理解してるが、出来るだけこういう時は誰かと一緒に行動してくれ」

「でも、和佐くんは一人だよ?」

「俺はいいんだよ」

「え~」


 口を尖らせた風美を、和佐は軽く笑い飛ばす。軽く扱われた風美は、和佐の隣に立ち、同じように水平線へと目を向ける。が、流石の風美でも、こう暗いと見えづらいのか、目を細めている。


「何か見えるの?」

「いや、何にも。ただまぁ、そうだな。何か考え事をするのに、こういう情報の少ない景色、ってのは役に立つもんだよ」

「ふ~ん、よく分かんない」


 視覚情報から常に何かを得ている彼女には難しいのだろう。と言うより、常時動き回る風美は、止まって何かを考え込む、という行為自体に慣れていないのかもしれない。


「何考えてたの?」

「さぁな。色々だ」


 答えるのが面倒なのか、それとも何も考えていないのか、適当に答えてはぐらかす和沙。しかし、そうやって無碍にされたにも関わらず、風美の視線は和沙を凝視している。


「……何だよ」

「ありがとね」

「……は?」


 唐突な礼に、和佐が間の抜けた声を出す。中途半端に開いた口は、間抜けさよりも、目の前の人間が何を言っているのかが理解できない、とでも言いたげだ。


「仍美の事。昼間、色々話してたみたいだから」

「あぁ、そういうこと……」


 昼間、仍美が吐露した心中。それに対して、明確な答えを示した事に対するお礼だったのだろう。


「仍美はね、いっつも引っ込んでるの。だから、私が引っ張ってあげるんだけど、それでも苦しい事とか全部自分で抱え込んじゃうから」

「あー……、それは確かに。風美が何でもかんでもずけずけ言うから、反対に仍美は抑えているだけなんじゃないのか?」

「そうなのかなぁ? でも、私だってお姉ちゃんなんだから、たまには悩みとか言ってほしいかも」

「風美も悩みの種の一つだと思うんだが」

「え~、そんなこと……ないよ?」

「目を逸らしたって事は、自覚してるんじゃないのか?」

「むー……」

「まぁ、誰にだって人に言えない悩みの一つや二つくらいあるさ。それを誰に打ち明けるか、どうやって解決するかはその人次第だ」

「和沙くんにもあるの?」

「ある……んじゃないかな? よく分からん。自分の事が分からない、これも一つの悩みか」

「ふ~ん……。じゃあ、お小遣いがなかなか上がらなかったり、仍美が大事にとっておいたアイス食べちゃってどうしよう、って思うのも悩み?」

「うん? ん~……、それでいいんじゃないか? 悩んでるんなら、全部一緒だ一緒」

「お~、じゃああたしも悩み多き女なんだね」

「また先輩辺りから変な影響受けたのか……」


 凪の言いそうな事だ、などと考えながら、思いを馳せる。思えば、彼女達と行動を共にするようになってやっと三か月、いやもうすぐ四か月になる。短いと言ってしまえばそれまでだが、和佐にとっては随分と長く感じられた時間だっただろう。それだけ体験してきたことが濃密だった。

 ……いつかはこの時間に終わりが来るのだろう。そして、この時間がずっと続けばいいと思ってるのは和沙だけではないはずだ。


「そういや、何で俺の所に来たんだ? こうしてるって事は、別に急ぎの用事でもなかったみたいだし」

「あ、そうそう、お風呂空いたって言いに来たんだった。もう入っても大丈夫だよ~」

「……本当に大丈夫か? 前みたいに誰かが突撃ないしは、いたりしないだろうな」

「大丈夫だよ、鈴音ちゃんが凪ちゃんに言ってたし。駄目だよ、って」

「それならいいんだけど……」


 まだ感傷に浸る時ではない。それを再度認識するように、水平線の向こう側を少しだけ見た後、和佐は別荘へと足を向ける。


「あ、そうそう、今度お祭りあるんだけど、それもみんなで行きたいな~」

「後でみんなに言えばいいだろ。俺に言ったところで、また引きこもるだけだぞ」

「え~、和佐くんもい~こ~う~よ~」

「分かった、分かったから、考えとくから服を引っ張るな! 伸びたら俺が怒られるんだぞ!」


 喧噪から離れ、ただ静寂だけが支配する夏の夜が過ぎていく。

 記憶の無い少年にとって、どんな夏になるのかは、まだ誰にも分からない。

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