幕間一 緋色のリボン 後

 お兄ちゃん、そう呼ばれるのは一体いつぶりだろうか。そんな風に考えながら、縁側に腰かけ、隣に同じように座る少女へと目を向ける。

 御巫みかなぎあかね。和沙の事をお兄ちゃん、と呼ぶ通り、和佐――御巫千里の実の妹だ。とはいえ、ここにいるのはその残滓、亡霊だ。肉体はとうの昔に朽ち、魂もまた幽世へと旅立ったかと思われたが、何を思ったか、この家に未だ彷徨っている。


「お兄ちゃんは驚かしがいが無いよね。何やってもびっくりしてくれないんだもん」

「前はともかく、今は、なぁ……。大体お前だろうな、って当たりは付けてたから」

「昔もそうだよぉ! せっかく私が近所のおばあちゃんから仕入れた怪談話だったのに、それ聞いてむしろ笑ってたんだもん! びっくりしてくれなきゃ怪談じゃないじゃん!」

「昔……か。俺にとっちゃほんの一年ちょっと前の話なのに、お前にとっちゃ気が遠くなるほど昔なんだな」

「そうだねぇ、色んな事があったよ~……」


 茜が遠くを、街に灯る光を見ている。何千回、何万回と見て来たであろうその光景を、ただ眩しそうに見つめている。かつては自身のあの光の中にいたが、今はもう届く事の無い輝きを、ただ羨ましそうに。


「お兄ちゃんはさ、この街の事どれだけ知ってる?」

「さぁな。俺が見て来た部分なんて、表面中の表面だ。見て来なかったし、見る気も無かったからなぁ」

「そうなの? じゃあ、私が教えてあげる。えっと、あの建物はね……」


 おそらく、二百年もの間、ずっとここで見て来たのだろう。楽しそうにこの街の事を語る妹の横顔を見る和沙の表情は、これまでに無いほど優しい、それこそ兄そのものだった。

 人は変わらない、それは二百年経った今を見たからこそ言える言葉だ。和沙は、少し前にそんな風な事を口にしていた。

 恩義を忘れ、打算のみで動き、利益の為に人を売る。二百年前、和佐は自身の利用した大人や周りの人間達を見て、そう考えていた。今の時代も、昔も、人の本質は変わっていない。少女達を口車に乗せ、さも高尚なお役目に就いているかのように言い、自身の懐や、権力の為に利用する大人が許せなかった。

 だが、変わらなくて、良かったものもある。

 こうして、今目の前で話している妹の姿がそれだろう。かつて、和沙は茜を救う事はおろか、死に際に傍にいてやる事さえ出来なかった。母にも、妹にも、最後まで一緒にいてやる事は叶わなかった。ならば、せめてこの一時だけは、彼女の言葉に耳を傾けてやってもいいのではないか。


「……今だけは、か」

「聞いてる? お兄ちゃん」

「聞いてるよ。で、どうしたんだ?」

「それでね~……」


 一瞬膨れた頬も、次の瞬間には笑顔に変わっている。そう、彼女は昔から何一つとして変わっていない。姿かたちだけじゃなく、その性格も。

 三つしか差の無い兄妹。決して、兄らしく振舞えていたとは言い切れないだろう。千里・・が巫女になったその時、茜はまだ八歳だった。

 思春期に入りたての千里は、その上重要な役目まで背負う事となった。当然、妹に構っている暇など無くなる。疎遠になる、という程ではないが、兄妹が触れ合う時間は日に日に減り、それと共に千里は自身の事で精一杯になっていく。


 だからだろう、その事に気付くのが遅れたのは。


 体が弱く、日頃から体調を崩しがちだった茜は、とうとう病に倒れてしまう。専属だった医師からは、持病が悪化し、もう治る見込みは無いとの事だった。後にそれが虚言であった事が判明するが、当時の千里にそんな事が分かるはずも無く、ようやく自身の過ちに気付いた時には、とうに手遅れだった。

 それからは、出来る限り妹の傍にいた千里だったが、日を追う毎に激しくなる温羅の襲撃に対応していると、自然に茜の傍を離れる事が多くなる。

 そして、本人は忘れもしないだろう。御巫千里、十六歳の誕生日。一段と激しい戦闘から帰ってきた彼の目に映ったのは、顔に白い布をかけられた妹の姿だった。

 悲壮、憤怒、諦念、その時に和沙の心中には、様々な感情が渦巻いていた。

 そこからの千里はこれまでの通りだ。人を信じず、人を望まず、人を見ず、ただ自身の役目を真っ当する為に刀を振るい続けた。

 その最果て、今が幸福かどうかは、まだ本人は分かっていない。これまで以上に壮絶な人生が待っているかもしれないし、いないかもしれない。まだ、誰にも分からない。


「で、その後、七海ちゃんの家は立派な服屋さんになったんだよ! すごいよね!!」

「全く……亡くなる前より元気なんじゃないか?」


 ずい、と顔を近づけてくる茜を抑え、和佐は冷静に返す。が、その言葉を聞くと、茜の顔に陰りが生まれる。


「そうだね……。でも、それも今日までなんだ」

「なんでだよ、今までこうしていられたんだ。だったら、これからも……」

「だって、お兄ちゃんを待ってたんだもん」

「……」


 その言葉を聞き、和佐の喉元まで来ていた言葉がそこで詰まる。茜は小さく笑うと、近くの箪笥、その一番上の年季が入っているとは思えない程綺麗な引き出しを開けると、中から何かを取り出した。


「そ、れは……」

「ほら、お兄ちゃん、前向いて」


 そう言いながら、茜は千里の後ろに回り、うなじの辺りで括られたゴムを外し、その手に持ったソレで髪を括りなおす。慣れた手つきで大きな蝶々結びを作った茜は、括り終わると和沙の前に後ろ手を組みながら飛び込んでくる。


「はい、出来た」

「お前、これ……」


 それは、昔、千里が茜の十二歳の誕生日に贈った、緋色のリボンだった。


「そうだよ。遅れてごめんね、お兄ちゃん。十六歳の誕生日、おめでとう!」

「……」


 声にならない。十六歳の誕生日、茜を失ったあの日、千里が祝われる筈だったその日だ。


「それ、お兄ちゃんに貰ってから一度も着けた事無かったんだ。なんだかもったいなくて」

「……道理で、着けたところを見た事が無かったわけだ」

「でもね、ずっと病院にいた私に、お兄ちゃんの誕生日にあげられる物が無かったから、それなら、このリボンにしよう、って。……先があまり長くない事も分かってたし、この際”この力”と一緒に渡しちゃおう、って」

「そんな事……気にしなくて良かったのに……」

「よくありません~。……こんな私でも、お兄ちゃんの助けになれたら、って思ったんだよ。だから、それプレゼント」


 薄っすらと紅い光を放ちながらリボンが小さく跳ねる。それは、このリボンにとある力が宿っている事の証だ。


「でも、こうやって見ると、ますますお兄ちゃんって女の子みたいになってくね~」

「……うるさいよ」


 少し涙の混じった声。しかし、その言葉に反し、語気は荒くなく、むしろどこか嬉しそうでもあった。

 その姿を見て、茜もまた嬉しそうに笑う。その笑顔は、月光が差し込むこの場所で咲いた、一輪の花のようだった。その姿を見て、千里はただ、生きている事に感謝し、この幸せを噛みしめている。


「……あ」


 しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。

 徐々に、茜の姿が薄れ始めたのだ。


「そろそろ、時間かな」

「……もうか。ここまで早いなんて、もし俺が来なかったらどうする気だったんだ?」

「来るよ、お兄ちゃんは。だって、私がいってらっしゃい、って言ったら、絶対に帰ってきてくれたから」

「……そう、だったな。あぁ、そうだったよ」


 見送ってくれる姿が愛おしくて、迎えてくれる姿が嬉しくて、千里は何が何でも帰ってくると、約束した。


「でも、それも今日で終わり。私はもう……」

「違うだろ」

「……え?」


 和佐の目が、真っ直ぐに妹を見る。この別離に悲しんでいるわけでは無い、もう二度と会えない事を惜しんでいる訳でもない。


「今度も同じだ。俺は、必ず、お前の元へ帰る。それまで、少し遠出をするだけだ」


 優しく微笑む兄の姿に、少女は一瞬茫然とした表情を浮かべるも、すぐに満面の笑顔になる。


「うん……、うん!!」

「だから、見送ってくれ。これまで通り」


 千里が、右手を上げる。それは、かつて兄妹でずっと行っていたいつも《・・・》の光景。それに合わせるようにして、茜もまた、右手を上げ、そして……


「いってらっしゃい、お兄ちゃん!」

「行ってくるよ、茜」


 小さな涙を流しながらも、満面の笑みで兄を送り出した妹の姿が、光の粒子となって消えていった……。




「どこ行ってたのよ!! 大変だったのよ!!」


 帰るや否や、真っ先に絡んできたのは、お馴染み、我らが隊長様だった。

 凪は怒り心頭の様子だったが、他のメンバーはどちらかと言うと恐怖の方が強かったらしい。七瀬に至っては、顔を白くし、どっちかと言うと彼女の方が幽霊と間違われそうな状態になっていた。


「ん? 野暮用だ、気にすんな」

「気にするな、ってアンタねぇ……あれ? アンタ、そんなリボン着けてたっけ?」

「さぁ、どうだったか。自分の後頭部なんぞ、普通は見えないからなぁ」

「……」


 白々しい。明らかに何かあったにも関わらず、それを口に出そうとしない様子に、凪は一瞬小一時間程問い詰めてやろうかと考えたが、すぐにその考えは失せた。

 その表情は、凪が和佐と出会ってから初めて見る程、優しいものだったからだ。


「ほら、帰るぞ。さっさと起きろ」

「あ、待ってください……、まだ腰が抜けて……」

「シャキッとしろ。お前がせんで誰がするんだ」

「あぁ~……」


 情けない声をあげながら、七瀬が和佐に助け起こされている。情けないように見えるが、本物を目にした以上、リアルホラー物が苦手な七瀬には耐えられなかったのだろう。致し方なし、ということだ。


「兄さん、幽霊の方はもういいんですか?」


 鈴音のその言葉に、和佐は黙ってその目を家へと向ける。闇に沈み、今度こそ住人がいなくなったかつての生家へ。


「……幽霊屋敷は、廃館だそうだ」

「……そうですか」


 何があったか、などと野暮な事は聞かない。それが出来る妹というものだ。


「……」


 先に踵を返した凪に各々が付いていく。最後、和佐は一人のその場で少し逡巡するような素振りを見せたが、すぐに彼女達の後を追って行った。


「……たまには、妹に優しくするか」


 その何気無い言葉が、果たして今の妹に聞こえたかどうかは分からない。

 ただ、秋の星が輝く満天の夜空へと、静かに溶けていった……。

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