第69話 暗い風

「……」


 吹き抜ける風がうなじをくすぐっている毛先を揺らす。海が一望出来るが、決して近くはないこの場所からは、その風が潮風なのか山風なのかを判別するのは難しい。

 背後の境内から流れてくる風を見るに、やはり先程のは山風だったのだろうか。どことなく涼しげな風と共に、カビ臭い匂いの中に古い木造建築の独特な匂いが混じる。

 手入れなどはおろか、ここ数十年はまともに人の足が及んでいない神社を背にしながら、和佐は眼下の街を見下ろしている。

 夕焼けもその光が翳り、そろそろ薄暗闇が周りを覆い始める時間帯、ポツポツと街のあちらこちらから光を灯し始める。もう少しすれば、控えめなネオンが薄く街を照らし、幻想的な様相になるだろう。しかしながら、その光景を目にして、違う印象を受ける人物がここにはいる。


「まるで誘蛾灯だな……」


 暗闇を照らすその光は、その場所へと異端な物を呼び寄せる光源ともなる。光など照らさなければ、それを目指して侵し進むものもいるまい。だが、人とは得てして輝きを求めるモノだ。それが、目に見えるものか、それとも比喩表現であるかの違いだけで。


「そう考えると、人も蛾となんら変わらんな」


 人間と虫を同格に扱う。その不遜極まりない態度を、巫女隊のメンバーが見ればどう思うだろうか。おそらく、本人はどう思われようと気にしてしないだろうが、鈴音辺りは悲しげな表情で和佐を見てきそうだ。

 相変わらず、ただ街を見下ろしているだけの和佐。徐々に夜の帳が降りてきているというのに、かれはその場から一切動かない。むしろ、何かを待っている様子だ。少なくとも、親しい友人、という事はないだろう。

 街から海の果てへと視線を移した和佐の目には、一体何が映っているのか? どこかこの世ではない別の場所を見ているかのような瞳が、暗い海を反射して映る。


「何を見てるんですか?」


 そうして一人の時間を過ごしていた和佐だったが、自身の足下から聞こえた声に、視線すら向けずに答えとも何とも言えない言葉を返す。


「さぁな、色々だ」


 そっけない返事ではあったが、声をかけた本人は特に気にした様子を見せず、長く続く階段の一番上に座っている兄の隣へと腰を降ろす。


「凪さん、カンカンに怒ってましたよ。今までどこにいたんですか?」

「さぁ、どこだったかな」

「最近、ずっとそんな感じですね。もっと具体的な返答があってもいいんじゃないですか?」


 少しムッとした表情を作る鈴音。しかし、そんな彼女を前にしても、和佐は態度を改める気はないのか、目を合わせようとしない。


「……はぁ。もう、兄さんが何を考えてるのか分からなくなってきました……」

「前は分かっていたような口振りだな」

「それはそうです。以前はまだ分かりやすかったので」

「分かりやすかった、ね……」


 自身の右手へと視線を向ける和佐。握ったり開いたりを繰り返しているその手から、何を感じるのだろうか。


「……こんな事にならなければ、こんな未来を歩まなければ、或いはそうなっていたかもしれないな……。だが、今ここにいるのは俺だ」

「……どういう事ですか?」

「別に。ただの独り言だ。今更、どうしようもない過去への後悔の、な」

「やっぱり、記憶が戻ってるんですね」

「その判断はそちらに任せる。少なくとも、今俺から話すべき事は何も無い。話したところで信じないだろうしな」

「信じないって、そんな……」

「今口に出来るのはこれくらいだ。心配するな、しばらくはやるべき事もあるし、お前らと一緒に行動はするし、ある程度指示にも従う。今はそれでいいだろ」

「……」


 納得いかない、と言いたげな……、いや、こんな説明になっていない言葉の羅列を伝えられて、そもそも納得など出来るはずもない。しかし、今の和佐をこれ以上問い詰めても、またはぐらかされるか、会話を拒否されるだけだ。夏休み中に、鈴音が何度も試みた結果がそうだったのだ。ここでもそれは変わらない。


「はぁ……、分かりました。なら、ちゃんと凪さんの指示には従ってください。ボランティアに来ないんじゃないか、って気にしてましたよ」

「ボランティア、ねぇ……」


 その単語を耳にした瞬間、その表情があからさまに不機嫌なものに変わる。


「一つ、聞きたい」

「なんですか?」

「お前は……、鈴音はその奉仕作業に何か思った事は無いのか?」

「何か、とは?」

「雑用扱いは嫌だ、とか何故命を賭けて戦っている自分達が、とか」

「?? 言っている意味がよく分かりません。巫女隊の奉仕活動は当然の義務です。そこに疑問はありません」


 一切の疑いを持たぬその瞳に、和佐はその場でふらついた。


「ちょ、兄さん!? どうしたんですか!?」

「いや、いや、何でもない……。何でもない……!」


 和佐が鈴音に抱いた感情は感心でも、哀れでもない。一瞬の戸惑いの後、その頭の中に渦巻いていたのは、怒りだった。


「あぁ……、そうか。そういう事か」


 合点がいった。和沙はとある一つの結論に至る。それは、それは至極単純で、且つ明快な事実。


「やっぱり、どれだけ時間が経とうと、人間は変わらないのか……」


 その事実は、今ここに生きている和沙に、再度この世界の人間がどれほどのものかという事を教えるものであった。そして、それを知った以上、和佐が彼らに対し、どのように振る舞うのかが決定した瞬間でもあった。


「兄さん……?」


 心配そうに覗き込む鈴音の顔を、遮るようにして和沙は手を翳す。


「大丈夫だ。あぁ、大丈夫だ……」


 高かった筈の女性のような声が、この瞬間だけはまるで海の底を這うような低い声に変っていた。

 和佐のその様子を見て、鈴音の体に一瞬寒気のようなものが走る。しかし、次の瞬間には、ここ最近の飄々とした表情に戻っており、鈴音の心配と怖気は杞憂に終わる。


 果たして、本当に杞憂だったのだろうか? それが分かるのは、もう少し後の話になる。

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