三十五話 与えられた影響
「筑紫ヶ丘、ちょっと」
「?? はい、何でしょうか?」
夕刻、訓練場にて自らが受け持つ従巫女――守護隊との訓練で掻いた汗を拭っていた睦月に、瑞枝が声をかける。人払いを行い、ミーティングスペースの一角に陣取った瑞枝は、振り向いて睦月に鋭い視線を向ける。
「鴻川兄の事、ちゃんと見ておくように言っておいたはずだが?」
「えぇ、そうですね。ですから、普段の生活も含めて、色々と面倒を見るという名目であの子の事を見ていましたが……」
「なら、何故昨日あんな事が起きた?」
「それは……流石に四六時中傍に付いている訳にはいきません。いくら御巫様直々の指示とはいえ、学年も立場も違えば、どこかですれ違いが発生します。そこまで見られるほど、私にも余裕があるわけでは……」
「あぁ、そうだ。確かにお前の言う通りだが、以前にも言った通り、ある程度の融通は効く。巫女の役目に関しても、その件に関する事であれば、訓練の免除や出撃の制限などもかけられる。にも関わらず、律儀にここに来ているのはお前らしいが、優先すべきが何か、分かっているはずだろう?」
「分かってはいますが……」
彼女自身、これまで培ってきた守護隊のメンバーとの信頼関係などもあるのだろう。それを唐突な、それも浄位から直接下された指示であろうと、横入には違い無い。であれば、彼女の性格上、どちらを優先するのかは明白だろう。
「……何にしろ、これからは鴻川兄の監視を優先しろ。あぁいや、あれがおかしな所に行かないかどうかの監視だ。家にいるならばいいが、外に出る際は必ず一緒にいろ」
「かなり無茶苦茶だな指示だと思うんですが……」
「安心しろ、言ってる私もそう思っている。だがな、考えてみろ。今回は間に合ったものの、鴻川兄がどこかの派閥の懐に入ればどうなる? 鴻川は兄をそう簡単に見捨てられる性格か? これは鴻川兄の身を案じて言っているのではない、本局の、ひいてはお前達に関わって来る問題だ。こんな繊細な話、お前以外には出来ん。筑紫ヶ丘だからこそ、御巫様も直々に頼み込んできたんだ。分かってくれるか?」
「……、分かりました。今後はそうします」
「頼むぞ。お前以外にこんな事を頼めるメンバーがいないんだ。本当に、頼むぞ」
頼む、と言っておきながら、睦月の両肩に手を置き、何度も何度も念を入れるその姿にはどこか必死さを感じる。
確かに、他の濃いメンツを考えれば、こういった役目は睦月以外に出来る者はいないだろう。紅葉は直線的、明は気分屋だし、紫音はモデルの仕事がある。中等部は言わずもがな、そもそも瑠璃はマイペースに過ぎるうえ、彼女の行動如何で千鳥の行動方針が変わって来る。この中で誰を選ぶか、と言われれば、迷いなく睦月を選ぶのが当然の判断だ。
「その代わり、ちゃんと守護隊の子達には言っておいて下さいね」
「それに関しては問題無いだろう。むしろ過保護が過ぎて攻め時に攻められないと言っていたし、しばらくは彼女達だけで訓練させた方が……筑紫ヶ丘?」
「過保護……過保護……? 私はただ、みんなが怪我をしないようにって……」
「……地雷だったかぁ」
自覚が無く、それが最良だと思っていた睦月にとっては、寝耳に水だったろう。瑞枝としては、それぞれの中隊がどのような方針をとっていたとしても介入はしない為、睦月の方針にどうこう言うつもりは無いのだが、睦月としては、瑞枝に言われるよりも守護隊のメンバーに言われる方がダメージが大きいらしい。
「過保護……カホゴ……」
「あぁ、どうするか……。一番頼りになると思っていた奴がこうなっては、もうどうする事も……」
しばらくして、二人の様子を見に来た明が、珍しく途方に暮れた瑞枝の表情が見れたと嬉しそうにしていたそうな。
井坂と長山は、昨日の今日ではあったものの、和佐が立花の本家に連れ去られるというこれ以上無い事件が起きた為、それによる影響の調査結果を報告する為、先日と同じく校舎の人が来なさそうな陰を選んで和沙と待ち合わせをしていたのだが……そこで見たのは壁に打ち付けた拳から血を流している和沙の姿だった。その表情は、普段の女性顔からは大きくかけ離れ、いまでは阿修羅と見紛う程の表情と成り果てていた。
「……あの、和佐様?」
「あ゛?」
「ひっ……」
何の落ち度も無いはずの井坂だが、声をかけた瞬間にまるで肉食獣を目の前にした小動物のように震え上がっている。敵意や悪意であれば、そういったものを受け慣れている彼らにはそうそう効かず、むしろ受け流されるのだろうが、いかんせん今和沙の目から漏れ出ているのは純粋な殺意だ。切った張ったの世界とは無縁の井坂と長山には、到底正面から受けられるほどの肝は無い。むしろ逃げ出さなかっただけマシと言うべきか。
とはいえ、和佐がそんな状態になる原因に心当たりがある二人としては、現状を無視する事は出来ない。また、報告がある以上、この場を後にするわけにもいかない。
「えっと……、緊急でお伝えしたい事があったのですが……大丈夫でしょうか?」
「ん? あぁいや、すまん。色々とストレスが溜まってるもんでな、少し荒れてた」
「少しっすか……?」
「長山、黙ってろ」
大きく深呼吸を何度か繰り返した和沙は、ようやく落ち着いたのか二人に向き直る。その顔は、いつも通りのものへと変わっていた。
「で、報告って?」
「はい、照洸会の事です」
「昨日の今日でか……、内容は?」
「分かってはいるとは思いますが、和佐様が勧誘? を断られて事で、動きが一気に活発化しました。具体的に言えば、鈴音様との直接交渉でしょうか? また、裏で色々と画策しているようですが、そのどれもがあまり褒められたものではありませんね。中には薬を使う、なんて話も出ているようですし」
「薬?」
「麻薬みたいなもんっす。ただ、麻薬とは違うのが快感を求めるんじゃなくて、思考能力を鈍らせるのが主な用途らしいっす。以前、これを作り出したカルト教団が摘発された際、そのほとんどが回収されたんすけど、既に市場に出回っている分に関しては回収しきれなかったってんで、それを照洸会が手に入れたみたいっすね」
「……今回は喋るんだな」
井坂と長山の説明を聞き、和佐は顎に手を当てて何か考えるような仕草をとっている。ここに来て、まさかの違法薬品の問題が出て来た。こういった問題に関しては、迂闊に首を突っ込むわけにはいかない。下手をすれば犯罪に巻き込まれる事もある。薬に関しては大人しく警察に任せておくのが無難だろう。
「薬どうこうに関しては、こっちで出来る事は無い。もし情報が手に入れば、それとなく警察に渡すのが一番だろうな」
「でしょうね。ただし、警察にも照洸会の手が回っている事があります。その事を踏まえると、信頼出来る人間の一人や二人、作っておく必要がありそうですね」
「俺にはその辺の話は分からん。お前らに任せるよ。下手に俺が手を出して話がこじれると困るしな」
「承知しました。根回しに関してはこちらでやっておきます」
「しっかし、薬ねぇ……。ここに来て妙にきな臭くなってきたな。まさかとは思うが、このまま裏社会に~、なんてないよな?」
「そうとは言い切れないのがなんとも……。これだけの規模の街です。後ろめたい事の一つや二つはおろか、組織単位で存在しているでしょうね。裏社会、なんて言葉では済まない可能性もあります。和沙様、くれぐれもお気を付けを」
「言われなくても分かってるさ」
和沙の役目はあくまで体を使っての情報収集がメインだ。頭が必要な場所や、事態には決して踏み込まないのを徹底している。別段、和佐の頭が悪いといった事ではなく、単に力押しの気があるからとか。つまるところ、暴力で解決した方が早い、という事だ。
「昨日の立花家での騒動もそうですが、和佐様は少し力づくで事を運ぼうとするのが多いですから……」
「……」
ぐぅのねも言えないとはこの事だろう。確かに、昨日の和沙の行動は少しばかり浅慮が過ぎたかもしれない。やろうと思えば、怪我人を出す事無くあの場を切り抜ける事も出来た筈だ。それをしなかったのは、辰信の言葉に思うところでもあったか、それともここ最近のストレスでついつい手が出てしまったか。
「とにかく、安易な動きは自粛して下さい。お願いしますよ、後で色々と揉み消すのって面倒くさいんですから」
「分かった、分かった。善処するから、そう何度も言わんでくれ!」
「はぁ……」
ここまで言っても、結局は迷惑を被る羽目になるんだろうな、と頭に手を当てて疲れたように首を振る井坂。慰めるようにその肩に手を置く長山だったが、彼もまた、井坂の頭を痛めている原因の一つである事を、本人は知らない。
「それでは我々はこれで。本当にお願いしますよ! 勝手な行動だけは控えて下さいね!!」
「分かってるって……」
再三に渡って念入りを行った井坂は、そのまま長山を引き連れて校舎の陰から出ていく。とはいっても、クラス自体は同じなのだから、またすぐに顔を合わせる事にはなるだろうが、そこでの彼らとは関係が異なる。簡単に話す事は難しいだろう。
「勝手な事はするな、ね……。俺からそれをとったら何が残るんだよ」
もはやデフォルトの行動原理がそうなっている模様。井坂と長山からすれば、これほどはた迷惑な上司もそうそういないだろうに。そろそろ井坂の胃には穴の一つでも開きそうな様子だった。それほどまでに、和沙の後始末が面倒なのだろうか。
「まぁ、俺が気にしても仕方ない。今は、とにかく目の前の事を片付けるか」
和沙もまた、校舎の陰から出て呟く。
和沙が最優先で片づけるべきは、今、和佐の姿を見つけ、物凄い速度で近づいてくる少女との問題だった。
今回はどう撒くか、そんな事に頭を悩ませながら、和佐はゆっくりと踵を返した。……逃げる為に。
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