第16話 束の間の……

 合宿から帰ってきた翌日。昼間から和佐は自室で机に向かって頭を捻っていた。

 その視線の先にある物は、合宿中に教師から再提出を受けた課題だ。曰く、雑すぎる、とのこと。

 机の前に座ってから、かれこれ一時間はこの体勢で固まっている。当然、机の上の物が進んだ気配は無い。


「……」


 ノートを上下左右に傾けるも、特に何かが変わる事はない。変わったら変わったで問題なのだが。


「んぐ、あぁ?……」


 長時間椅子に座っていたせいで身体が凝ったのか、大きく伸びをすると、それだけで身体の至るところから骨の鳴る音が響く。


「にしても、このご時世に紙って……」


 技術の進歩のおかげで、色んな物が変化を見せるこの時代ではあるが、字を書き連ねる為に使用する物は昔から変わらず。データで纏める必要があるもの以外は、大体がアナログで済まされている。


「非効率的な……」


 ぶつくさと文句ばかり垂れているのは、課題が上手く進まない事に対して鬱憤が溜まっているからか。何にせよ、物に難癖を付けるのはお門違いだろう。


「いっそのこと、学校に行く事も無くして、自宅で学習出来るようにすればいいのに」


 おそらく、多くの学生が思っているであろう問題を、誰に言うでもなく口にする。

 一層気が滅入ったのか、その状態ではロクに進まないと判断したのか、先程まで睨みつけていたノートを閉じる。


「はぁ、外の空気でも吸ってくるか……」


 イマイチ覇気の無い目を擦りながら、自室を後にする。

 外に行く為に廊下を歩いていると、何人かの使用人とすれ違う。わざわざ足や手を止めて挨拶をされる事に、未だに若干のむず痒さを感じながら、和佐もまた一人一人に返答し、外へと向かう。


「おや、どちらへ?」


 メインホールでは何かの準備だろうか、矢継ぎ早に他の使用人に指示を出していた奥沢がおり、和佐の存在に気付くと、会釈をした後に話しかけてくる。


「ちょっと外に出てきます」

「その格好で、ですか!?」


 和佐の今の格好は、お世辞にも名家の長男とは言えないものだ。奥沢が驚くのも無理はない。


「出るって言っても、ちょっと裏に行ってくるだけですよ?」

「しかしですね、いくら敷地内とはいえ、何があるか分かりません。ここは、鴻川家のご子息として相応しい格好を……」

「奥沢さん、これはどちらにしましょうか?」

「あぁ、それは左の物を奥に持って行って下さい。そもそもです、和佐様は普段から服装に無頓着過ぎる……和佐様!?」


 宗久が別の使用人に意識を向けた一瞬の内に、和佐の姿が消えていた。こういった話は長くなると判断したのだろう。こういう時だけ無駄に行動が早い。

 宗久の説教から逃れる為に、足早に外へ出た和佐。まだ五月の末だというのに、無駄な温度の高さに和佐は一瞬だけ足を止めた。


「……」


 が、すぐにどこへ向かうでもなく、適当な方向へと足を向ける。この家の敷地は異常な程広い。目的が無くとも飽きることは無いだろう。

 五分程歩いたところで、洋風の屋敷には似つかわしくない建物が視界に入る。何も考えていなかった和佐は、とりあえず、その建物に近づいてみる。

 見た目は一般的な道場だが、ここでもかなり大金をつぎ込んでいるのだろう。中からの音が全くと言っていいほど聞こえない。

 ……まぁ、誰もいなければ、物音が聞こえるはずもないのだが。


 少し興味を持ったのか、入り口へと向かうと、何故か戸が開いている。いや、何故も何もない。中を覗くと、その理由はすぐ目の前にあった。

 二人の人物が道着に身を纏い、木刀を手に対峙していた。片方は、大柄だが締まった身体つきの初老の男性だ。和佐には見覚えが無いのか、その姿を見て首を傾げている。

 そして、もう片方の人物、こちらは鈴音だ。いつもは腰まで真っ直ぐ伸ばしている髪を、今はうなじの辺りで一つに纏めている。長さは違うが、和佐と似たような髪型になっている。


「……」

「……」


 張り詰めた空気が道場を支配する。お互い、一歩も動かず、相手の動向を窺っているのか。いや、正確には、片方は動けない、のだろう。初老の男性が放っているプレッシャーは並大抵のものではない。鈴音はその影響でその場に縫い付けられている。

 どこに打ち込んでも返される。そう理解しているからか、簡単には踏み込めない。だからといって、このままでは勝負が決まらないどころか、一歩も動けない臆病者と取られてもおかしくはばい。

 彼女の中でどのような葛藤があったのかわ分からないが、意を決したのか、一気に踏み込んでいく。


「はぁっ!!」


 気合い一閃。和佐のものより遥かに軽いだろうが、鋭く早いその一撃は、男性の左肩から袈裟に振り下ろされ……なかった。


「……っ!?」


 鈴音が木刀を振り降ろそうとした瞬間、辛うじて見えるか否か、というほどの速度で鈴音の手から木刀が叩き落とされた。男性は構えておらず、鈴音が木刀を振りかぶるまで一切動いておらず、素振りすら見せなかった。


「……参りました」


 落とした木刀を拾うも、鈴音はもう構えない。どこに打ち込んだとしても、結果は同じ。それを悟ったからかもしれない。


「踏み込みがまだ甘いですな。相手の前ではなく、相手の後ろを意識すると良いでしょう。そこの兄君のように」

「んあ?」


 気配を消していたつもりだったが、どうやらこの御仁には通用しないらしい。その証拠に、鈴音の方は、今初めて気付いたと言いたげな反応をしている。


「兄さん!? いつからそこにいらっしゃったんですか?」

「ん? ほんのちょっと前だよ」

「来ていたのなら、声を掛けてくれればいいのに……」

「集中しているところを邪魔したくないからな」


 顔を朱に染める鈴音に向かって言いながら、和佐は男性へと視線を向ける。

 この家にいる人間はそれなりに把握しているつもりだが、この男性は屋敷内で見かけた事がない。


「この方は、私の剣の講師をしていただいている……」

片倉かたくらと申します。鈴音様に剣を教えております」

「どうも、鴻川和佐と言います」


 思わず、頭を深く下げてしまう和佐。この男性から何かを感じたのか、頭を下げながらも、和佐の目は注意深く男性を見ている。

 頭を上げると、視線が合う。柔和な表情で、まるで好々爺を思わせるものだが、和佐の警戒は解かれない。


「おやおや、嫌われてしまいましたかな?」

「いえ、兄さんは人見知りですので、戸惑っているのでしょう」

「好きに言ってくれる……」


 口に手を当てながら、上品に笑ってみせる鈴音に、和佐は聞こえるか聞こえないかギリギリの声で悪態を吐く。


「そういえば、和佐様も刀をお使いになっていましたね。いい機会です、少し稽古でもなさって如何では?」

「……遠慮しときます」

「おや、何故でしょう」

「俺のは、ただ振って当てるだけの型なんて一切関係無いものですから。あと、さっき俺のように、って言いましたけど、少なくとも俺が踏み込み瞬間は見たことがあるんですよね? 間合いを知られている状態でやるのはこっちが不利じゃないですか?」

「なるほど、確かに。いや、実は以前に一度、訓練を拝見させていただきましてね。その時に和佐様の剣の腕を見せていただきました」

「で、評価は?」

「技術はほぼ素人ですね。基本的な事も出来ておらず、刀に振り回されている事が多かったです。ただ、時折咄嗟に出る行動の中に目を見張るものがありますね。それと、踏み込む、という点においては、そこいらのベテランよりも優れていると思います。その後の事は別としますが」


 辛口なのか、称賛されているのかイマイチ分かりづらい評価となった。とはいえ、和佐自身も剣が優れているとは思っていない。本人は、この評価に納得はしているようだ。


「それを踏まえて、一度私と剣を交えてみる気はありませんかな?」


 再三に渡る提案にも、和佐は首を横に振る。結果が見えてる事は当然なのだが、それ以前に、和佐自身がこの片倉という男を必要以上に警戒している節がある。


「そうですか、それは残念ですね……。では鈴音様、いかがしましょうか?」

「今日はこのくらいで。この後は来客の予定が入っていますので」

「そうでしたか。では、本日の稽古はここまでといたしましょう」


 深く一礼した片倉は、そのまま道場の奥へと消えていく。


「一回くらい相手をしてもらえばよかったですのに……。あの方、この道ではかなり有名な方ですよ? 私はこうして偶に講師として来ていただいているので機会に不自由はしませんが、普通であれば、こんな機会は滅多にありませんよ?」

「そういうことじゃないんだけど……」


 和佐が片倉に感じていたもの。その全貌は明らかになってはいないものの、直感が今の和沙が相手をするべきではない、と告げていた。それ故の行動だったため、説明など出来ようはずもない。


「まぁ、また今度でいいさ」

「もう……、そうやってすぐに後回しにするのは悪い癖ですよ」

「はいはい」


 適当に返答する和沙に強めに言うも、効果無しと判断した鈴音が潔く諦める。が、次の瞬間には、持ち前のスピードで和沙の横に回り、彼の腕に自分の腕を絡めていた。


「では、そういった事は後回しにして、二人でデートといたしましょうか」

「……さっき、来客がどうのって」

「言っても、祭祀局関連の方なので、そう長くはかかりません。それが終わった後でよろしければ、せっかくの日曜日。残りの休日を有意義に過ごしましょう」


 少し息抜きの為に外に出たはずが、どうやらこの後は妹とのデートでスケジュールが埋まってしまう様子。満面の笑みで見上げてくる鈴音を拒絶する度胸は和沙には無い。おかげで、来客とやらが来ている間に、課題を終わらせる事が最優先事項となった。


「仕方ない……。付き合うよ」

「本当ですか? ありがとうございます」


 まだ短い付き合いだというのに、ここまで慕ってくれる妹もそうはいまい。


「あぁ、でも」

「??」


 しかし、周りにロクな女性がいない和沙だ。デリカシーや空気を読む技術など持ち合わせているはずもない。


「先に汗を流して来たらどうだ? ……汗臭いぞ」

「……ッ!! 兄さんの馬鹿!!」

「うごっ!?」


 まさかのボディブロー。

 みぞおちにクリティカルヒットした和沙がその場に蹲る。それを見下ろしながら、鈴音は吐き捨てるように言った。


「二時間後ですよ、覚えておいてください、デリカシーの無い兄さん」


 足早に去っていく様子を横目で見るしかない和沙。

 結局、まともに動けるようになるまでに要した時間は十五分程。

 スタートダッシュが遅れた和沙は、後日無事に課題の再提出を食らったそうな。

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