第76話 教師の不安

「……」


 麗らかな陽気が眠気という最大の敵を呼び覚ます午後の授業にて、頬杖を付いて黒板を眺める和沙の目は、瞼の重さを耐えるので精いっぱいの状態が続いていた。和沙以外にも、チラホラと、陽気に当てられ敗北した英霊達が、各々の体勢で力尽きていた。


「で、この単語の意味は……」


 壇上に上がっているのは菫だが、彼女もまた生徒達がこの陽気に当てられ、次々と脱落者を生んでいる事を把握しているのだろうが、その事を咎めようとはしない。生徒の辛さを理解している、というよりは、どことなく諦めたような様子だ。恐らく、注意したところでどうにもならないと思っているのだろう、淡々と授業を進めている。


「それじゃあ、ここの部分を……、水窪さん、訳して頂戴」

「はい」


 指名された七瀬がその場に立ち、黒板に書かれた英文を訳していく。流石は優等生、といったところだろう、一字一句どもることなく、すらすらと口にしていく。


「はい、オッケーよ。流石ね、水窪さん。それじゃ、その次を……、鴻川君」

「ん? え?」


 ほとんど意識が飛んでいた和沙は、唐突な指名につい狼狽えた様子を見せる。急いで何をするように言われたのか確認しようとするが、開かれた教科書は見当違いのところを開いており、ノートはほぼ真っ白だ。当然、菫が求める答えなど、到底返せるはずも無い。


「……はぁ、鴻川君、二十四ページの二段目よ」

「あぁ、ここか……。分かりません」

「……」


 菫が頭を抱えている。まぁ、そうなる気持ちも分からないでもない。和沙に読む指示したのは、基礎の一部であり、学年相応のレベルのものだ。それを真正面から分からない、とだけ言われれば、どんな教師であろうと困惑くらいはするだろう。


「……ちなみに、どこが分からないの?」

「全体的に」


 顔が引き攣っている。見ようによっては、怒りを堪えているようにも見えるが、彼女はそこまで怒りっぽい性格ではないので、この程度で怒りを露わにすることは無い、はず……。


「そう……、分かったわ、座って頂戴……」


 どうやら諦めたようだ。これ以上質問したところで、まともな返答は返ってこないだろう。菫の判断は英断と言えよう。

 その後、和佐の一件を除けば、授業は順調に進行していった。まぁ、生徒の半分が既に夢の中へと落ちている事に目を瞑れば、の話だが。

 チャイムが鳴り、授業の終わりを告げると同時に、菫が授業を切り上げる。が、教室を出る間際、ふと思い出したかのように、今一度室内へと目を向け、口を開く。


「鴻川君、ちょっと」

「……?」


 呼ばれた本人は首を傾げているが、理由等一つしか無いだろう。小さく手招きをされた和沙が菫の後ろについていく。そうしてあまり人の来ない場所へと誘導された和沙の前で、腕を組んで険しい表情をしている女教師が一人。見る者が見れば、興味をそそられる現場ではあるものの、当人の表情からそういった浮ついた空気ではない事が分かる。


「一応、貴方の事はある程度理解しているつもりだけど……、今日のはあまり感心出来ないわね」

「……何が?」

「はぁ……、ポジティブシンキングなのか、それともただ抜けてるだけなのか……。お願いだから、私の頭を虐めるような事はやめてもらえない? ただでさえここ最近忙しくて、頭痛だけじゃなく胃薬も手放せないのに……」

「若い内から胃にダメージ受けてると、将来的に胃ガンになりやすい、って言うな」

「その原因の一端であることを理解してくれないかしら……」

「まぁ、反省はしてる。もう少しマイルドに言うべきか、と少しは考えたし」

「マイルドかどうかじゃなくて、分からないなら分からないで聞いてくれないかしら? じゃないと、こっちもどう扱えばいいのか分からないのよ……」

「分からない、ってわけじゃないんだ。ただ、なんかこう、ふわっとしてるんだ、分かる部分が」

「ふわっと?」

「そ、ふわっと。分かるっちゃあ分かるんだが、これでいいのか自信が持てないって言うか、何か別の何かがあるような気がして……」

「……それは、分からない、ということじゃないの?」

「多分……違う」


 要領を得ない説明をされ戸惑う菫だが、それ以上に和沙もまた自身の言いたい事を表現出来ず、思考の迷路に嵌っている。


「ともかく、授業さえ聞いていれば、分からない事なんてそうそう無いの。だから、せめて授業中は頑張って起きてて頂戴……」

「努力はする。が、約束は出来ない」

「……はぁ」


 随分と潔い口調だが、残念ながら菫にとってはストレスフル以外の何物でもない。

 本人に学ぶ気が無いのならば、それなりに方法はあるが、家での課題はきっちりこなしてくるうえ、授業をサボるといった事も無い。また、内容に関しても、理解自体はしている。だからこそ、こういった突飛な状況に陥った時、どうすればいいのか分からないのだろう。


「最悪、個人授業という手も……」

「ノーサンキューだ。これ以上、必要無いものに掛ける時間は無い」

「必要無いって……。確かに、将来的に学んだ事を生かせる職に就くのは稀だけれど、だからと言って、必要無い、なんて事は……っ!?」


 菫が勉学の重要性について説教をしようとした瞬間、もはや聞きなれた音が校内に響き渡る。周囲を見回すと、その音に敏感に反応する者もいれば、いつもの事と言いたげな生徒もいる。とはいえ、そのどれもが迷惑な、程度のもので重く受け取っている者は皆無に等しい。それもそうだろう、各陸域より内側に来ることなどほとんど無いのだから


「で、まだ続ける?」

「……仕方が無いわね。ただし、帰ってきたら説教の続きだから」

「……直帰してやる」

「聞こえてるわよ。駄目です、ちゃんと帰ってくるように」

「うえぇぇ……」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている和沙を、菫は背中を押すようにしてさっさと温羅の撃退に向かうように促す。


「ほら、さっさと行く!」

「分かったから、そう無理に押すなよ……」


 渋々といった態度で廊下を歩いていく和沙。どうやら、温羅を撃退した後の説教の事が頭に残っているのか、随分と気乗りしていない様子だ。

 その後ろ姿を見て、菫はポツリと呟いた。


「大丈夫かしら……」

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