四十七話 死力、そして決着
随分と、というほど昔の話ではない。だが、記憶が曖昧になった彼女にとって、近いか遠いかは関係無かった。ただ、そこにある一つの事実が彼女自身を動かしていた。
その目に残っている光景は、異形と言えるような姿に変貌した父が横たわり、それに縋りついている母親。そして残されたその母親が日に日にやつれていき、いつしか病床に伏すようになった。
いつ、どのようにしてそうなったのかは分からない。が、いつの間にか床から母の姿は消え、一つしか無かった遺影は二つに増えており、元気だったころの母親が小さく微笑んでいる。
何故そうなったかはもはや覚えていない。
最後に見たのは、家族三人裕福では無いながらも、幸せなひと時を過ごした小さなアパートの居間を見下ろしているような光景だった。
彼女は、吉川智里は自ら死を選んだのだ。
その後、彼女自身何があったのかは覚えていない。覚えているはずが無いだろう。何せ、自分は死んでいるという事実さえ、知らないのだから。
「何……これ……」
足元には、先ほど龍の片割れが吐き出した水流によって出来た水たまりがある。そこに映った自分の姿は、到底人間とは思えないものだった。
人を辞めた、と言っておきながら、自分は人として祭祀局に復讐を誓っていたからか、目の前に映る姿を認識する事が出来ない。これは誰だ、これは何だ、と何度も何度も頭の中で反芻する。だが、ここでもう一つ気付いてしまう。先ほどあれだけ靄のかかっていた自身の頭が、霧が晴れたように鮮明に思考する事が出来る。それは何故だ? そして、先ほどまで自身の意思は一体どこに行っていた?
「……」
どこか悲しげに、そして縋りつくような目で和沙を見る。和沙は、そんな彼女を憐れむかのような視線で見ている。
そう、人間を辞めるも何も、彼女は最初から人間ではなかったのだ。皮肉なのは、それが判明したのは彼女自身が自分を人間では無くなったと宣言した次の瞬間だった事か。
「おかしいとは最初から思ってたんだよ」
そう口にしながら、和沙が智里へと近づいていく。
「母さんの事にしろ、おたくの温羅を操る力にしろ、人間にしてはあまりにも都合が良すぎる。過去の温羅を見てきた俺だから分かる。連中は人と手を組むような事はしない。そもそも、人間を見つけた瞬間に滅ぼす、そんなプログラムでも書かれてんのか、ってくらい殺意の高い連中だ。利用する事はあれど、仲間になる、なんてのはまず無い」
智里はただ黙って和沙の言葉を聞いている。いや、聞いているのかどうかも分からない。先ほどとは違った意味で感情は無く、その目は虚ろな状態だ。とてもでは無いが、まともにやり取りが出来ているとは思えない。
「母さんが温羅の細胞で肉体を生成し、そこに御巫神流の記憶を植え付けた人型温羅だ、ってのは知ってるよな? あれと同じだ。お前は人間が温羅の力を取り込んでいるんじゃない。温羅が人間の姿をしてその人間の記憶を植え付けられているに過ぎないんだよ」
先ほど智里の意思が希薄になったのは、彼女の意思が温羅のそれに侵食されたのではなく、人間の記憶を一時的に封じる事で温羅として最大限のスペックを発揮しようとしていたのだ。意思など不要、ただ眼前の敵を排除する為に、持てる全ての力を利用し、和沙を排除しようとした結果がこれである。
「お前は今まで疑問に感じなかったのか? 母さんの身体や、自分の記憶について」
「……」
心当たりがある、といった表情だ。だが、それ以上深くは考えなかったのだろう。彼女の目的はただ一つ、自身の家族を破滅に導いた根幹である祭祀局の壊滅。それだけだったのだから。
「お前に同情する気は無い。だが、だからってその復讐を貶すつもりも無い。一歩間違えれば、俺もお前と同じように復讐の為だけにこうやって一つの街を壊滅に追いやっていたかもしれないしな」
そうだ、和沙もまた、祭祀局という存在に少しばかり複雑な思いを抱いている。いや、少しでは無い。この組織の元となった者達のせいでその人生が狂ったと言っても過言ではない。だが、こうして和沙は祭祀局側に付いている。街を守る為、そこに住む人を救う為、なんて高尚な考えではない。むしろ、本人に言わせれば、一度滅んだ方がいいのではないか、との話だ。
和沙がこうして戦うのは、ちょっとした事がきっかけで起きた単なる気まぐれだ。それ以外には何も無い。もしかしたら、智里と和沙、二人の立ち位置は逆だったかもしれない。ただ、和沙はこの時代で出会った人間に恵まれ、智里は死して温羅に拾われた。それだけの話だ。
「……」
自身の意思ではなかったとはいえ、一時的、瞬間的に力を増大させた影響か、智里は人であった殻を維持出来なくなっている。このままでは、彼女の内側が露出し、改めて自分が人間ではなく、異形の、温羅としての姿を晒す事となる。
本来、それは彼女が望んでいた事のはずだ。温羅と成り果ててもなお、祭祀局に復讐をする。それが彼女の目的であり、生きる意味でもあったはず。にも関わらず、和沙の目の前で項垂れている少女はその事実に喜びを見いだせずにいた。それどころか、これまで自分を人間だと思っていたはずが、全て偽りであった事に絶望を隠せずにいた。
どこからが温羅としての智里で、どこまでが人としての彼女か。それが一切分からない。これ以上に恐れる事が果たしてあるのだろうか。
そんな彼女に対し、和沙は上から見下ろすばかり。この状況であれば、智里の首を斬る事は造作も無いだろう。織枝から受けていた指令は、「温羅を操る事が出来る人間」である智里を確保してくる事であったが、真相はこれだ。もはや彼女を生かしておく理由は無い。温羅を操る事が人の身では不可能である事が分かった以上、智里に存在価値は無いのだ。
無いのだが、和沙は少し、不穏な事を考えていた。
「で、どうするんだ?」
投げかけられたその言葉は、決して智里を案じるものではない。むしろ、冷たく、まるでせせら笑うかのような声色に、彼女の目は見開かれる。
見上げると、先ほどと同様に和沙が立ちはだかる。その表情に笑みは無い。ただ、淡々とした視線で、目の前の少女を見下ろしているだけだ。
それを見て、智里の中で燻っていた炎が再び燃え始める。
自分は何の為にここまで来たのか。
何の為に立ちはだかる者達を薙ぎ払ってきたのか。
そして……何の為にミカナギ様を呼び、共に戦ったのか。
それを思い出す。そして、目の前に立つ者こそがその目的を達成する為の最大の障害である事に気付く。
おそらく、真っ当な戦闘力では神流を倒した和沙には到底敵わない。事実、先ほどまで対峙していたが、彼は本気で智里を殺しには来ていなかった。あくまで確保の為に動いていたとはいえ、彼女の攻撃が一度でも命中した事は無い。このまままともに戦っても勝てるビジョンなど見えるはずも無い。
「……アンタを倒す。他の奴らは正直どうでもいい。けど、アンタだけは何があってもここで倒す」
「へぇ……、そんじゃ一丁やってみるか?」
「冗談でしょ? 真正面からやって勝てないのは私が一番よく分かってんのよ。だから……こうするの!!」
一瞬、地面に両手を着く智里。何かの攻撃かと和沙が身構えるが、残念ながら攻撃ではなかった。
いや、端的に言えばもっと厄介なものだった。
「なっ!?」
地面が大きく揺れだす。それと同時に、虹色の幕が揺らぎ、樹の切断面がずれ、もう少しで切れる、といったところで伐採が中止される。その様子を見ていた一同は驚愕と落胆に陥るものかと思われたが、次の瞬間、それ以上の光景にただ茫然とするしかなかった。
樹が、崩れていくのだ。倒れる、枯れるといったものではない。言葉通り、天辺からまるで他の温羅のようにゆっくりゆっくりと塵になって崩れていく。
地震が起きたら樹が崩れ始めた、などと誰が想像出来ただろうか? だが、現実にそれは起こっている。人間側としてはこれ以上ないほど喜ばしい事ではあるが、何故か和沙の表情は厳しい。
「……まさか」
「アンタはここで終わる。全部、全部落として終わらせる。祭祀局をこの手で潰す事は叶わないけど、全てが奈落に落ちるのなら、私はそれでいいわ」
「街を丸ごと地下に落とすつもりか!?」
「何の為に街のいたるところに根を張ってると思ってたの? この時の為、いざという時に全部丸ごと沈める為よ!!」
そう、智里は樹を崩す事によって、地下に張り巡らされた根も無くし、この街の地盤を一気に沈めるつもりだった。当初祭祀局が伐採という方法をとったのも、和沙の提案があった事もそうだが、それを懸念しての事だった。破壊されただけなら、燃やされただけなら土地が問題無い以上、いくらでも復興は出来る。しかし、土地そのものを無くされれば、その時点でこの街に未来は無い。
「全部、沈んでしまえ!!」
智里が崩れ続ける樹を見上げながら笑うようにそう叫ぶ。敵が目の前にいるにも関わらず、このような行動をとるのは無謀以外の何物でもない。数秒後には、彼女の首と身体は離れ、無惨に地面に転がる事になるだろう。誰もがそう予想していた。その覚悟をしていた本人も、だ。
しかし、いつまで経っても和沙が何かをする事は無かった。不審に思った智里が振り返り、当の相手を見ると、和沙はただ黙って揺れに身を任せる街を見下ろしている。その目には焦りなどは見られず、むしろ関心すらしているようにも見えた。
「……ちょっと、街の危機なのに、なんでそんなに落ち着いてられるの」
「うん? あぁいや、別に大した事は無いさ。ただ、こんな方法もあったんだな、って関心しただけだ」
和沙にとってそれは関心以外の何物でもない。その実力をもってすれば、虐殺すら可能だった彼にしてみれば、一度は諦めた復讐が為されるかもしれないという事実に、そう思わずにいられなかった、という事だろう。
人を殺せば、繋がっている人間がさらに憎悪を膨らませる。だが、こうして人が育まれる場所そのものを破壊してしまえば、そもそも生きる事すら許されなくなる。
拾った命が、荷物になるのだ。直接殺める事しか考えていなかった和沙にとっては、これ以上ないアイディアだろう。
「まぁ、ここまでやった努力は認めよう。だが、それを簡単に為せるほど、甘くはないのを分かってるはずだ」
「……止める方法があるとでも?」
「さぁ? あるかもしれないし、そもそも止める必要なんて無いかもしれない」
非常に軽い口調でそう話す和沙の前で、智里はただ頭の上にクエスチョンマークを浮かべる事しか出来ない。彼女にしてみれば、和沙が慌てふためく様子を思い浮かべていたのだが、これでは目的が果たせるかどうかも怪しい。
「まぁ、そもそも俺一人で助かるだけなら、別にここで焦る必要なんて無いしな」
「……」
こればかりは智里のミスだろう。和沙の高速移動を予定に入れていなかったのだ。確かに、逃げるだけなら神立を使えばどうという事は無い。しかし、和沙はその立場上、この街の守護が最優先のはずだ。そう考えれば別段間違っていないようにも思える。和沙にそんな使命感があれば、の話だが。
「何にしろ、この崩壊を止めるつもりは無いさ。どのみち、この樹が無くなればお前さんは消える。街一つを犠牲に樹と人型の温羅を倒せると思えばそう悪い事じゃない」
「……本気で言ってんの」
「むしろ何故本気じゃないと? それに、たかだか街一つ潰したところで祭祀局そのものが無くなるわけじゃない。支部は各地に存在するし、何ならこの街にある本部だって、元々は牧野で興された前身が引っ越して出来たもんだ。……はっきり言っておくが、人間の生き汚さを舐めるなよ? お前が思ってる以上に連中はしぶといぜ」
「私のしてる事は無駄って言いたいわけ?」
「無駄じゃあないだろ。いや、結果的には無駄に終わるかもしれないが、それでも消耗という意味では効果的なはずだ。何せ、本部がまるまる地下に落ちるんだからな」
だが、それで終わる程祭祀局は大人しくない。旗頭である御巫家が潰えない以上、必ずどこかの支部で再興が行われる。何度でも、何度でも。
叩くべきは、祭祀局ではなく、人なのだ。そこに住む人、その全てを滅ぼすのが一番の近道だ。しかし、今現在、地下深くに落ちようとしている地区の人は半数以上が避難済みだ。さらに言えば、樹が完全に消え去るまでにまだ時間がある。それを考えれば、この情報が局に行っている事を前提とし、既に避難は始まっていると考えていい。
結局のところ、彼女が死に追いやれる人間の数などたかが知れている。下手をすれば、今現在対峙している相手すらそれが叶わない可能性だって存在する。
「それで、どうする?」
「どうするって、何がよ」
「簡単な話だ、このまま続けるか、それとも他に方法を模索するか、だ」
和沙が提案するのは、戦うでもなく、このまま彼女の策にもろとも落とされるのではなく、もう一つの可能性だ。智里が樹を崩し、この街を地下に落とすと決めた時から戦いは既に決着している。つまり、自爆諸共の時点で智里は自分に勝ち目が無いと判断し、戦う事を拒否したも同然なのだ。その状態でこれ以上戦う事など出来ようはずも無い。
ならば、和沙が提案するのは戦うのではなく、それ以外にお互いが共生できる方法が無いか、というもの。
「……ワケが分かんない。さっきまであんた、私の事を殺すつもりでかかってきてたじゃん。それを今更仲良くやりましょう、なんて話、聞くとでも思ってんの?」
智里の言う通りだ。先ほどまでの和沙の態度を見ていれば、共に手を取るなど非常に困難を極める。当然、本人もそれは分かっているのだろう。にも関わらず、こんな話をするのには理由がある。
「祭祀局はトップがどうあれ、至るところが腐敗してる。いずれ遠くない未来、崩壊する事もあるだろうな」
「……だったら?」
「それを隙と捉えるか否か、だ。自滅した馬鹿どもをひれ伏させ、その上に立って祭祀局を牛耳る、なんて事も出来るんじゃねぇか? 当然、それまでにどこまで浸透しているか、の話だけど」
「獅子身中の虫、ってわけ? そんなの、簡単に排除されそうなもんだけど?」
「忘れたか? お前が呼び出した人間の名を。そして、俺は一体誰だ? 祭祀局のトップは誰だ?」
この三人の共通点、それは御巫、という事だ。当然、現在祭祀局のトップを務めている織枝と神流に血の繋がりは無い。だが、和沙は違う。ほんの少しではあるが、織枝は和沙と同じ血を受け継いでおり、それは本人も承知している。
……つまるところ、自身の先祖が絡んでいるとなれば、彼女も懐を緩くせざるを得ないという事だ。
「ここまでやって、今更手を取り合いましょう、なんて言わせるつもり?」
「んな事言う必要は無いさ。こっちが強引に引き込んだ、って事にしておけばいいだけの話だしな」
「……」
智里が無言で和沙をにらみつける。その言葉の真意を問い詰めるかのような視線に、和沙はただ既に戦う意思の無い相手に刃を向けるつもりは無い、と言いたげに長刀を地面に突き刺している。
信用など、出来るはずも無い。だが、智里が手詰まりなのも事実だ。例えここで選択を誤ったとしても、一度失った命、もはや今更後悔する事などあるものだろうか。
「…………分かった」
地面に付いていた手をゆっくりと離しながら、智里が顔を上げる。その目には、未だ多少の迷いはあるものの、どこか何かを決意したような光が見られる。
復讐の炎は未だ揺らめている。祭祀局はいつか、彼女の炎を受け、燃え上がる事になるだろう。だが、それは今では無い。和沙は、その炎に何かを感じ取り、ここで彼女を死なせるには惜しいと考えた。故に、選択肢を与えたに過ぎない。
自身の代わりに、この平和というぬるま湯に浸かり生き続ける人間に裁きの鉄槌を下す者として。
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