十九話 壁の向こうへ

「おや兄さん、しっかりと休めましたか?」


 早朝、いつもよりも明らかに早い時間帯……とは言っても、世間で言えば既に多くの人が働きだしている時間だ。学生である事、そして学校が現在休校状態である事も相まって、こんな時間まで惰眠を貪る事が許されてはいるが、それにしては彼の顔からは疲れの色が見える。

 連日の働きの代償、と言えるだろう。特に和沙は実働隊である事が多い。更には、大雑把な仕事は許されず、神経をすり減らす事も少なくは無い。いくら無意味に眠り続けたとて、それが疲労回復に繋がるとは限らないのだ。


「おはようございます、和沙様」

「あぁ、クソ……、夢じゃなかった……」


 朝っぱらから絶望感に染まった声で目の前の光景を憂いている。夢の中で何度も思ったのだろう、朝になればいなくなっていて欲しい、と。


「そんな邪険にしなくてもよいのでは? ほら、貴方の子孫がこうして会いに来ているんですから」

「子孫って……、元を辿れば同じ人間から派生したってだけで、別に俺の直の子孫じゃねぇだろ……」

「それもそうですね……。そう考えれば、私は本当の御巫では無いわけで……、いや、待った……、もしかして……」

「嫌ぁーな予感がするのは俺だけか?」


 顎に手を当て、考え込んでいる織枝の姿に胸騒ぎが止まらない和沙。その姿は、祭祀局の彼女の部屋で見るのならば、考え深い、思慮深い、などと言った表現が出てくるのだが、残念ながらこの家に来て判明したのは、織枝の思考回路はかなり残念だという事だ。ああやって考えている内容も、決して碌な物であるとは限らない。


「和沙様と私が子供を作れば、それは御巫の直系では……?」


 目の、色が、変わる。和沙でも織枝でもない、その言葉を聞いた鈴音の、だ。


「というわけなので、私と子供を作りませんか、和沙様?」

「何がという訳なのか、俺にはさっぱりな上、鈴音は包丁を握るその手を下に降ろせ!!」


 厳密に言えば和沙は被害者のはず。なのだが、何故か妹の視線は兄へと向けられ、織枝は半分冗談のつもりではあるものの、逆を言えば半分本気という事なので、彼女の目もまた、若干真剣みを帯びていた。

 もはや頭を抱えざるを得ないこの状況を前に、何とか状況を打破できる方法は無いか、と本気で考え始めた和沙だったが、唐突に鳴り響く端末の呼び出し音に、一先ずは救われる事となる。


「はい、鴻川です」


 甲高い電子音が鳴っていたのは、鈴音の端末だ。特にこれといって約束はしていなかったのか、最初端末を手に取った鈴音は首を傾げていたが、向こう側から聞こえてくる声と、話す内容でようやくその意図が伝わる。


「はい、はい……、分かりました、すぐに向かいます。では」

「急用か? 大変だな」


 どこか他人事のように言い放つ和沙に向けて、鈴音はジトッとした視線を向ける。


「残念ながら、私達兄妹への急用だそうです」

「……」


 この一週間程で何度見ただろうか。もはやそれが素面の表情ではないかと思う程何度も見せたウンザリとした表情を、満面に浮かべていた。その後、少し俯いた和沙だった、何かを思い出したように織枝へと顔を向ける。


「しばらく俺への要請は無しだって……!」

は、ですよ。和沙様」

「は、謀ったな!?」

「とんでもない。貴方がちゃんと私の話を聞いていれば、私と和沙様の話している内容に齟齬がある事に気づいたはずですよ」


 絶望しか感じられない表情に変わった和沙を前に、織枝は実に爽やかな笑みを浮かべている。確かに、彼女は自分からは、とは言ったが、他の人からも無いとは言っていない。これに関しては完全に和沙の落ち度だろう。もう少し正確に相手の話を聞くべきであった。


「それとも、私と将来生まれてくるであろう子供の名前の話し合いでもしますか?」

「そんなんするくらいなら温羅とやりあった方がまだマシだ!!」


 それはそれでどうなんだ、と言いたくなるようなセリフを言い放ち、和沙は急いで支度をする。それを眺めている織枝だったが、彼女が何を考えているのかは、鈴音には到底分からなかった。




「で、結局何があったんだよ?」


 支度をして向かったのは祭祀局……では無く、以前和沙達が壁を建てる為に温羅の進行を防いでいたあの地区だ。


「何でも、壁の向こう側から聞こえる音が尋常ではないそうです。その確認を、私達巫女隊が請け負った、という事ですね」

「俺、巫女隊メンバーじゃないんだけど」

「重要人物である事には変わりありません。何より、例の人物を止められるのは、兄さんくらいしかいないんですよ」

「重要な戦いをオブザーバーに任せるって、それはそれでどうなのよ?」

「織枝様からの信頼もありますし、問題は無いでしょう」

「気味が悪いくらい大人しかったけどな。ありゃ、絶対なんか碌でも無い事考えてるぞ」


 少し前に、家にいた織枝は祭祀局へと戻っていった。というより、二人が送って行った。その際、泊めてもらったお礼や、任務を頑張るように告げたものの、それ以上の事は言ってこず、先ほどまでのテンションと比べると落差があまりにも激しすぎた。和沙にはそれが不気味に感じられたのだろう。


「局ではいつもあんな感じだったじゃないですか。多分、スイッチのオン、オフを切り替えているんじゃないと」

「それならいいんだけどな……」


 若干納得のいかない様子の和沙。だが、今はそんな事よりも、目の前の問題に集中するべきだろう。御装を身に纏った状態での移動だった為か、予想以上に早く現場に到着する。目立たないルートを通ってきたにも関わらず、かなりのスピードだったと言えよう。だが、二人が到着した現場には、既に他のメンバーが揃っていた。


「遅かったな」


 開口一番、紅葉の厳しい言葉が投げかけられる。それに対し、鈴音は特に悪びれた様子も見せず、あっさりとした反応を返す。


「私用がありましたので」

「私用? この状況以上に優先すべき事があると?」

「聞いてみればいいんじゃないか? ちょうど、お前さんの横に俺らが遅れる原因を持ち込んだ人間がいるんだからよ」

「横?」


 紅葉が視線を向けた先には、何故か目を逸らしている睦月がいた。そう、本人の要望であったとはいえ、もとはと言えば、彼女が鴻川家に織枝を連れていたのだ。その後、そそくさと姿を消した事に関しても考えれば、彼女の罪は重い。主に和沙の主観では、の話ではあるが。


「?? まぁ、いい。今はやるべき事がある。事は簡単だ。少し前から壁の向こうから音が聞こえる、と報告を受けてな、その音の原因を我々で調査せよ、と本部からの指示だ。これに従い、私達は複数の小隊に分かれ、向こう側の確認を行う。何か質問のある者は?」

「俺がいる事に疑問を覚えないのはどうなんだよ……」


 そういえば、もはや和沙がいる事そのものが自然とでも言うかのように、他のメンバー達は振る舞っている。むしろ、違和感を感じているのは当人のみのようだ。


「逆にそう思うのなら、何故鴻川と一緒に来たんだ、と聞きたいところだがな。ここで鴻川兄が何故いるのかを議論したところで、不毛以外の何物でも無い。戦力になるのなら、誰でも歓迎だ」

「節操の無い話で……」


 とはいえ、和沙一人で彼女達一部隊に匹敵、もしくは上回るという事実を知っているからこそ口に出来る言葉だ。これが、何の実績も無く、ただ迷いこんだだけの人間には決して言う事は無いだろう。言う相手を選んでいる事を考えれば、節操が無いとは言い切れない。


「壁の向こうにはどうやって?」

「安全だと思われる区画を開けてもらう。そこから該当のポイントに向かう予定だ」

「めんどくせぇな……、ここからポーンと飛び越すのはダメなのかよ?」

「何メートルあると思ってるんだ。いくら我々の運動能力でも、それは不可能だ。だから回り込むという話を……」

「え? 出来ないの?」


 予想外、とでも言いたげな和沙の顔に、紅葉は渋い表情を浮かべている。どう考えても、地上五十メートル以上ある壁を乗り越えるなど、いくら御装で強化されているとはいえ、彼女達の身体能力ではとてもではないが無理だ。特殊な移動手段を持っていれば話は別だが……。


「逆に聞こう。鴻川兄、君にはそれが出来ると?」

「それは……」


 おそらく、出来る、と答えようとしたのだろう。しかし、ここで和沙は気づいてしまった。ここで肯定すれば、間違いなく一番キツイところに回される。そうなれば、サボる事が困難となり、最悪先日以上に疲労する事になる。本人としては、連日の任務で完全に疲れ切っている為、これ以上の労働は勘弁願いたい気分であった。


「……いや、悪いね。やっぱりこの高さは無理だわ。大人しく回り込むとしようぜ」

「そういえば、確か兄さんは独自の移動方法を持っていましたね。それこそ、地上数百メートル上空の天至型に届くほどの技を」

「ちょ、おまっ!?」

「ほう……」


 和沙が誤魔化した後、間髪入れずに鈴音が思い出したように口にした言葉、それは和沙が黒鯨との戦いの際、かの天至型へ何とか自分の身を届かさんと工夫に工夫を重ねた例の移動方法だろう。そしてそれは、今では和沙の基本的な移動技にまで昇華されている。思い出してみれば、例の仮面の女性との戦いの折、虚を突く形で使用していたのが思い出される。刀をアンカーとしている為、刀さえ届けばどこにでも移動出来る。逆に言えば届かなければ無理、という話だが、それは創意工夫でどうにかなるものだ。


「それなら話が早い。鴻川兄、まずは君がここから上に登って先行してくれ。何が起こっているのかが確認出来次第、こちらに報告。可能であれば、そのまま原因を取り除いてもらっても構わない」

「……」


 顔を歪ませながら、隣にいる鈴音を睨みつける。が、睨まれた本人はどこ吹く風で、和沙に頑張ってください、と微笑んでいる。どうやら味方はいない模様。


「分かった、分かりましたよ。行きゃいいんだろ!! ……ったく」


 諦めた風な和沙が虚空から長刀を抜き放つ。そして、恨めし気に巫女隊メンバーを睨みつけてただ一言。


「覚えてろよ!!」


 それだけ告げると、彼は姿を消した。

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