第41話 髪、洗ってください……
美冬は、今日はオシャレをしていた。
白い長髪は、ヘアアイロンで少しまいてふんわりと仕上げた。また、気取らない薄化粧が、彼女らしい清楚さを引き立たせる。残暑の猛威も過ぎ去って、肌寒さを感じてくる季節。黒いチェックのロングスカートと白の長袖カットソーが、今が秋であることを教えてくれる。
そんな、日本の四季を知らせてくれる白い狐は今
絶望に打ちひしがれた黒い目で、主を見下ろしていた。
「つい最近、同じことを言ったはずですよね」
もう言葉にすら覇気はない。
先程、彼女が帰宅した際、池袋のアニメグッズショップの袋を片手にぶら下げながら上機嫌だったのに、進の数歩手前に立った瞬間、こうなったのだ。
彼についた匂いを嗅いで、一瞬で全てを察したのだ。
「あの、言い訳をしても――」
「近づいただけで死刑に決まってるじゃないですか」
「すみません」
進は硬い床に正座して、釈明すら許されず謝っていた。
「凄いんですけど。メスの臭いが。これでもかと漂ってくるんですが。メスの臭いが。どれだけ近付けば、こんなに匂いが付くんですかね。メ・ス・の・ニ・オ・イ・が」
「は、はい」
「美冬の一番嫌いなメスの臭いなんですが?」
「重々承知しております」
「ほんと、なんであの女、まだ生きてるんでしょうね。早く死ねば良いのに」
美冬の、初花に対する憎悪は本当に酷い。
「それで、みんなと仲良くカレーですか。さぞかし美味しかったんでしょうね。従姉と言う初恋の人に作って貰ったカレーは。ぜひ、感想を聞かせて欲しいですね」
そして匂いでなんでもわかる。
「お、美味しかったです」
「は?」
「すみません」
衣服についた匂いで昼に食べたものさえも当てる嗅覚が、さらに進の墓穴を掘る。
「はあぁぁあ。最近、似たようなことしたのに? 反省も無しですか」
「だからその姉さんに呼ばれたから、仕方なく行ったというか」
「シスコンが。きもいですよ」
「うっ」
もう何を言っても許されない。
進は正座したまま、顔すら合わせることが恐ろしく、斜め下を向いた。もう何を言われても仕方が無い。
「まあ、言い訳くらいなら、聞いてあげないこともないですけど」
絶望で黒く染った目はそのままだが、完全に消沈した進を哀れんでか、美冬は一旦テーブルの前まで行って、座布団に座って、聞く姿勢だけは見せた。
「い、良いんですか」
「別に。疲れただけです」
進も急いで美冬の向かいに座って、とりあえずの前提として、親族会議の内容を伝えた。
あとは、初花との事だが、思い返しても今更言い訳できる事が無いと思ってしまった。
「初花ちゃんは、その、俺らのこと心配してたらしくて」
「心配?」
「人間と妖怪だし、上手くいかないことだって有るだろうって……ことだと思う。それに、みふは使い魔で、元は戦うための妖だから、もう俺は戦わないのに一緒に居てなんの意味があるのかって……言う感じのこと」
「それで? ご主人様は?」
「うるせえ俺達の勝手だ……って言っておいた。あ、いや、遠回しにそんなニュアンスの事を言っただけなんだけど、うん」
進の言い訳が終わった頃、美冬の目はいつも通りの狐目に戻っていた。
あまりそこに感情は宿っていないが、なんとなく安心したような雰囲気が顔全体に現れて、「そうですか」と吐いた。
「でも、なんか会ったって言うだけでムカつきます」
そこは譲れない。
「そこまで嫌うこと……」
進の宥めるような言い方に、頭の中で「そうじゃない」と呟いた。
彼にとって、初花は初恋の相手らしい。
おそらく、所詮恋なんてモノでもないような子供の頃に抱いた年上への憧れ、その程度だろう。
だが、それだけだとしても、許容できない。日戸初花という一個人が嫌いなのも含めて。そして、たった一時期でも彼の心にあった人物の存在が許せない。
それに、一緒に居たいから一緒にいる。彼はいつもそう言う。
そんなもの、“一緒にいたい人”が別にできれば、そっちに流れる。
それは、耐えられない。たとえ小さな可能性でも潰しておきたい。
その役割は自分だけで良い。
「それで、今の話だと、ご主人様にそこまでベッタリ臭いが付いている理由にはなってないんですが。美冬はそっちが一番聞きたいんですけど?」
「うっっっっ」
美冬の勘は鋭い。
「み、身に覚えが無いです」
「見苦しいですよ?」
「き、訊かないでくれませんか……?」
「いや゛です」
そして美冬は頑固だ。
聞くまで許さないし、きっと聞いても許さない。
進は、正しく苦渋といった顔で、ゆっくりと白状した。
「あの、ちょっと肩を組まれたというか」
「は? なんで?」
進は硬直した。こればかりは答えられぬと言いたいばかりに、黙りこくり、焦った顔で俯いた。
「ちゃんと言ってくれないと、納得できませんよ?」
だが美冬は、その経緯が気になった。それによっては、刺すか殴るかの差で変わってくる。
進は死んだような顔をして口を噤んだが、美冬の追撃は止まない。
「それとも、言えない事なんですか?」
「いや、その、なんて言うか」
言っても黙っても、その先は地獄のみ。
「やましいことなんですか?」
「いえ、決して」
「なら、教えてください?」
進の額からは冷や汗が流れ出た。
「その、ちょっとからかわれたと言いますか」
「へえ? どんな風に?」
「好みの女性について……」
「それで? ご主人様はちゃんと銀髪で獣耳獣尻尾の貧乳だと答えましたか?」
夏休みに、彼はそうとはっきり宣言していた。録音もしっかり残っている。
「……。はぃ」
「今、一瞬迷いましたよね」
「すみません嘘つきました、何も言わず誤魔化しました」
「ぶった切りますよ?」
「すみません……」
「あの時の録音、残ってますからね?」
「本当にすみませんでしたっ……!!」
話を聞く限り、やましいことはしていない。だかムカつく。以前と変わらず、ただ主があの初花と会うことそのものが、彼女は嫌なのだ。
「ご主人様……、なんで美冬が怒ってるのかわかりますか……」
「……。初花ちゃんが嫌いだから……とか」
「それも十分にありますけど……」
「なら、言ってくれないと、わからない」
違う。
なぜ、わかってくれないのか。一番わかって欲しいことを、どうしてもわかってくれない。
「仙台行った時のお祭りの時の事、覚えてますか……」
「祭りの時?」
「ジュース買った時です」
「え。まって思い出した、すっごい恥ずかしいからちょっと蒸し返すのやめて──」
微妙すぎる愛の告白をした時の話だ。
「ご主人様、あの時、一緒にいるのが大事だって、言ってたじゃないですか」
「え、あ、うん」
「それ、美冬以外でも、いいじゃないですか」
「──何が言いたいの」
進の声が、少し険しくなった。
一方、言っている中で美冬は俯き、顔を隠す。
今の顔を、見られたくない。
「だって、一緒に居たいだけなら、誰だっていいじゃないですか。美冬じゃなくても、初花だって……、それ以外でも……」
先程、一瞬だけ考えたことが、またすぐに戻ってきてしまった。
一番考えたくなかったことであり、出来れば、進に察して欲しかった事だ。そして、きっぱりと、否定してほしい事だ。
「みふ、それは──」
「ご主人様。ご主人様は、美冬の気持ち、わかってくれてますよね」
一言一言、言う度に虚しい。
あの初花と言う人物の存在だけで気持ちが掻き乱されるのだから、本当にあの人は強い。
無情にも、頭だけは冷静だ。
顔と体だけが感情的になる。
彼女と進の間にはローテブルがある。なぜこんな座り方をしてしまったのか。今更になって酷く後悔した。
これがなければ、今すぐにでも抱き寄せてくれたかもしれない。
「この間だって、あれでも、我慢した方なんです」
病院で偶然会ってしまった時も、バイト先の研究室で偶然会ったらしい時も、怒りはしたが泣きはしなかった。
気持ちの奥にあるこれだけは必死に隠したのだ。
気付いたら、ボロボロと目から涙が落ちていた。
息も苦しいく、肩も震える。
「去年みたいなこと……もう嫌です……」
その時、やっと進が動いた。
美冬の側まで来て、やっと抱き寄せた。
いつも彼は行動が一歩遅い。
美冬は確実に進の服を掴んで、頭を押し付けた。こうしている時が一番落ち着く。だが、涙が止まる訳では無い。
「いいから、落ち着いて、な?」
進は美冬の頭を撫でながら、酷く冷静に言う。
「その、一緒にいる云々ってのは、なんて言うか」
美冬は顔を埋めていて、そう言う進に表情までは見ていない。だが、なんとなくマヌケそうなのは声音からわかった。
「みなに、みふを好きな理由を訊かれた時に、答えに困って適当に言った事だから、深い意味は実は全くなくて」
で、こいつはいいやがったのだ。最低な一言を。
とりあえず、美冬はぽかんとして進の顔を見上げた。
何を言っているんだ、こいつは、と。
こいつが吐いた言葉の意味を、今一度、1つ1つ精査し、検証し、考察した結果──
美冬の中で色々な何かが外れた。
「──ほんとに、死゛ね゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!」
近所迷惑な程に大声でブチ切れた。
好きな理由を訊かれて返事に困ったとか、それはそれでムカつくし、今まで悶々としていた理由に、深い意味はないとか言われて、更にムカついたのだ。殺意だって覚える程に。
正しく、泣き叫んだ。
「この気持ち返せえぇぇええ!!」
しばらくこれで苦しんだ。
そして、更にもうひとつある。
「なら! 結局! ご主人様は美冬の何が良いんですか!!」
「ええぇ、存在そのもの」
「納得いくか!!!」
「可愛い」
「見た目!?」
「尻尾がモフモフ」
「犬飼え!!」
ただでさえ泣いて呼吸が辛いのに、叫んでは尚更だ。
「じゃあ、なんでみふはそこまで俺を──」
「全部っ!! 存在そのものっ!!」
「そっちはそれが許されるのかよ」
もはや進は疲れ切っていた。
怒るわ、泣くわ、叫ぶわ、美冬の忙しい感情の切り替わりに、進はもはや付いていけない。
「いいから、顔拭きなよ、酷いよ」
折角した化粧が台無しだ。
進が手元にあったティッシュをとって、美冬の顔を拭う。
「俺も随分と信用無いな。もう初花ちゃんのことは何も思って無いって。っていうか実の従姉だし、そもそもが何も無いし」
進にとっては、初花に会う度に彼女から美冬の事の文句を言われ、家に帰れば美冬に怒られ、災難でしか無いのだ。
「本当ですか……」
「本当だよ。ていうか、最近だとむしろ俺がみふに見捨てられないか不安なくらいだし」
それは美冬も初耳だ。
「とにかく化粧落落としてきたら?」
「……。はぃ……」
美冬も泣き疲れた。
だが、泣いた甲斐あって、色々大事な事も聞けた、と、非情にも冷静になってしまった頭で整理が着いてしまった。
薄化粧とはいえ、落とすなら風呂だ。
疲れすぎて、シャワーを浴びるのすら億劫になってしまう。
「ご主人様……」
「ん?」
「髪、洗ってください……」
「はいはい」
容赦なく、主を使うことにした。
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