第35話 あの女、早く死ねばいいのに
美冬はうたた寝をしながら主の帰りを待っていた。
時計の針は既に10時を過ぎている。
いつも通りではあるが、やはり遅いものは遅い。
やっと、主がいつも履いている革靴の音が聴こえて、はっと目を覚ます。
狐の耳は非常に良い。
道路を歩いてくる音ですら聞き分けができる。
美冬は若干慌てながら玄関まで行き、待機する。
その足音がアパートの敷地に入り、階段を登ってきて、家の前まで立つ。そして扉が開く。
毎度の事ながら、開けた瞬間美冬が居ることに驚く進の表情は実に滑稽で、これを見るのが美冬の楽しみでもある。
ただ、今日はその楽しみも十分の一まで減った。
「ご主人様、臭いです……」
おかえりも言わず、言い放った。
懐かしい悪臭がムンムンと漂ってくるのだ。
見当違い真っ只中の進は「え!?」とショッキングな顔をしてから、自分の腕とか脇の匂いを嗅ごうとしている。
だが、全然違う。
「ご飯の前に、お風呂入って来てください」
せっかく、学校と仕事で疲れているだろう主を労ってやろうと思ったのに、その気すら一気に霧散した。
本当に臭い。
今までで、1番嫌いな人間の匂いがする。
†
「みふ! もう臭くないから、嗅いでみ!!」
いつもより少し長めのシャワーを浴びてきた進がまだ濡れた髪のままで狭い脱衣所から出てきて、キッチンで作っておいた麻婆豆腐を温めている最中の美冬に近寄った。
「いいですから、ご飯よそってお箸とスプーン持っていってください」
本当に、わかっているのか。いやもう、この反応なら完全にわかっていないだろう。
最早美冬は虚しくなった。
理解されない虚しさが100%有るとして、自分は主の帰りを夕飯を作って待って、更にはいつ彼が帰ってきても良いようにと風呂さえ入らずに、ずっと待っていたのにも関わらずこの有様だというのが500%くらいある。合計で100%中600%の虚しさ。メーターは完全に振り切っている。
麻婆豆腐を大皿に移したらそれを食卓まで持っていき、腹を空かせている食べ盛りの主には「タンパク質です。食え」と言って食わせた。
「それで、今日は何をしてきたんですか?」
そして、敢えて含みのある言い方と笑顔で訊いてやった。
進は口の中のものを飲み込んでから「支援の領域魔法がどうやって人に効果を出すのか……てきな?」
「へー、それでどうだったんですか?」
「血圧とか測ってたらしいんだけど、何も変わらなくて、何もわからなかったって」
「そうなんですか。それで、支援の魔法って支援する相手が要るじゃないですか? 誰にやってもらったんですか?」
この質問をして2秒後、進は「やべぇ」みたいな顔をして固まった。
狐は化かすのが得意と言ったものだが、この程度の誘導尋問(にすらなっていない)など誰だってできる。そもそも使い魔に嵌められる主とは。
「聞いても怒らない?」
「既に怒ってますけど?」
そもそもなぜ気付かないと思っていたのか。バカなのか。
「いや、なんて言うか、その、研究室に行ったら初花ちゃんが居たって言うか、不可抗力というか──」
「死ね」
心の底からの一言だった。
「いつまで昔惚れた女に執着してるんですかね。女々しいにも程があるかと」
「いやマジでそれはない」
「この間会った時なんか鼻の下伸ばしてたくせに、どの口が言ってるんですか」
「みふ、何をそんな怒ってんだよ。気持ちはわかるけど」
「はい? ご主人様が美冬の気持ちの何がわかるんですか?」
「やきもちとかだろ」
「それだけだと思っているなら、随分と都合の良い頭ですね」
「じゃあ何なんだよ」
「もういいです。言うのも癪ですから」
美冬はそれ以上何かを言うことも無く、かと言って進に言い訳をさせようという気もない。
茶碗に残った若干数口の米と味噌汁だけ一気に掻き込んで、食器を持って立ち上がった。
「美冬はシャワー浴びてくるので、食べ終わったら食器下げておいてください」
自分の茶碗はシンクに持って行って、今度は本当に寝巻きを持って風呂場へ向かった。話したくもない、顔も見たくない、そんな感じでそそくさと。
とにかくムカつく。色々ムカつく。進と初花がばったり会ってしまったという事実だけでそもそもムカつくのだ。
言い訳しかしないで、気の利いた事も一切言わない。
加えて、言い訳の途中に「初花ちゃん」とか意味の分からない呼び方が飛び出す始末。
急ぎ、狭い洗面所で服を脱ぎ捨てたら風呂場へ逃げ込み、シャワーを出す。
水が湯に変わったら、一気に頭から被って、盛大な溜息を吐いた。
「あの女、早く死ねばいいのに」
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