第69話 これで、俺も自立できた
美冬はいつもよりかなり少なめの夕食を、時間をかけて食べ終えた。
そして食器を洗おうと立ち上がろうとしたから、進がすぐに制する。
病人は大人しくしてろ、と。
普段は、進が何かしら家事をやろうとすると、美冬が絶対止める。
料理は「見てて怖いから」「不味そう」という理由で、洗濯も「そんなのやってる暇あったら勉強しろ」と言ったり、掃除も「粗いし下手」「やらないほうがマシ」と最早暴言レベル。
そんなこんなで、彼は段々とダメ男になっていく。
美冬が来る前は、全て彼一人でこなしていたから問題はないはずなのだが。
主婦としても仕事が奪われるのが嫌なのか。
進は、普通に食器を洗った。
彼女はずっと「だから美冬がやりますよ」としつこく言っていた。
その都度、気遣いよりも「ここまで来たら俺がやる」と意地でやり通す。
特になんの問題もなく、ごく普通に。
彼は居間でテーブルに突っ伏す美冬に向かって。「俺だってこのくらい出来るぞー」と何となく勝ち誇った気分で言った。本末転倒……まではいかないが、目的が変わってしまっている。
美冬はちらりと進を見ると。「そうですか」と素っ気なく返事した。
「これで、俺も自立できた」
清々しい気分だ。自分のことを自分でできる、素晴らしい。生の実感とはこのことである。
対する美冬は、その真逆だ。
「ご主人様は美冬が居ないと生きていけない体じゃないとダメなんです……。自立しちゃイヤ゛です……」
美冬の口から吐き出された言葉に、進は絶句する。
今、自分は自立するなと言われたのか、と。昨今では、女性が結婚相手に求める4Tとして「低姿勢」「低依存」「低燃費」「低リスク」とあるが、そのうちの「低依存」の真逆を求められたのである。
耳を疑った。
そして、妙な合点が行くのだ。
美冬が、頑なに家事をさせてくれない理由。
自立を妨げ、彼女が居ないと生きていけない体にする。その目的に至る手段として、まず家事の能力を削ぐと言う計画的な規制だったのではないか。
進は、それに気付いた途端に怖くなる。
彼がそこに立ち尽くして居ると、美冬は立ち上がった。
よろよろと歩いて、押し入れを開けて寝巻きを引っ張り出し、窓際の角ハンガーに吊るしてある下着を取る。
「風呂入るの? その状態で?」
「頭痒くなるのイヤですし」
美冬はそのまま進の横を通り、風呂場へ向かう。
「尻尾はしまっときなよ。乾かしてる間に立ってるのも疲れるだろうから」
「いや゛です……」
これに関しては反抗期並みに拒否して、そのまま脱衣所の扉を閉めた。
†
美冬のシャワーの音をBGMにして、進はスマホでニュースサイトを流し読む。
ニュースサイトというモノは、政治に国際情勢、芸能人のスキャンダル、サブカル、車も鉄道もミリタリーも、ありとあらゆるものを取り扱いすぎてもはやまとまりが無い。
そして、とある車の記事を見つけて、読む。
販売元はイタリアの会社だが、プラットフォームは日本のロードスターで、製造は広島の工場で、工場から出荷したらそのまま日本の店で売り出しているという、外車だが外車に聞こえない謎車の紹介とレビューの記事だ。
曰く、エンジンはイタリアのものとかなんとか。
元が1.6リッター自然吸気に対し、こちらは1.4リッターターボとなっており、パワーが上がった。故に、足回りも強化されている。
どちらが良いのか、という比較がされているが、どうにもそれは無粋だ。
目指すものが違うもの同士を比べたって、良し悪しなんかは決まらない。
最近、具体的には夏に仙台へ行った以降、昔好きだったが興味を無くしていたはずの車を、何故か見るようになっていた。
だいたいあのロードスターのせいである。
また興味が湧いてきたのだ、という自覚は有る。
子供の頃よりも物理や法律がわかるようになったおかげで、いろいろな事がわかる。
車を動かす技術や、車を取り巻く法律。
2002年にありとあらゆる「スポーツカー」が日本から一気に消滅した現象は、正しくその時の日本というモノを如実に表している。
車という一つの事柄から、ありとあらゆる物事に繋がるのは、また違った意味でも面白い。
つまり、半年前まで趣味という趣味がなかった魔法使いが、魔法以外に興味が持てる分野がやっと最近になって出来た、という事だ。
ブラウザバックして、他のニュースを探る。
ふと偶然目にした天気情報では、東京で落雷が有るとのこと。
嫌な天気だ。
加えて、美冬は雷恐怖症なので、雷は厄介だ。
蘇る、例の嫌な記憶。そして押し入れの中で胃液ゲロ事件。先程まで、車で支配されていた思考は一気に気象情報に埋め尽くされた。
確かに、窓の外からはものすごい雨音がしている。そもそも、自分も文字通り雨に濡らされたわけだ。
一度カーテンをめくり、目視で雨を確認する。嵐みたいな雨だ。美冬が見たら「窓が洗われてちょうどいいですね」とか絶対言うが、雷が落ちればそんな事を言っている余裕は無い。
そしてカーテンを閉めようとした瞬間、空が光った。
1、2、3、4と数えたら、ゴロゴロと鳴り始める。神鳴とは良く言ったもので、威圧的な衝撃だ。
そしてもう一つ、雷が鳴ったと同時に家の中からガコンという物が落ちたような音がした。
風呂場からだ。
すぐに向かって、風呂の扉の前で美冬の名前を呼んだ。
「大丈夫?」
だが、彼の声に美冬からの返事はない。
若干意を決して「開けるよ」と断ってから恐る恐る扉を開けた。
美冬が、人の姿のまま、ケモ耳を手で覆ってうずくまっている。
シャワーは床に落ちていて、音の原因はこれかと気づく。
とにかく、一度シャワーを止めて、脱衣所にあったバスタオルで彼女を背中から包む。
「立って。とりあえず出るよ」
言って、脇の下から抱えるようにして、風呂場から引っ張り出す。
すると、濡れた体で抱きつかれながら、可能な限り拭いていく。
途中、雷が鳴って、ビクンと美冬の体が跳ねる。
彼女は、叫んだりパニックになるタイプの恐怖症ではなく、ひたすら恐怖を感じて震えるタイプだ。
普段しっかり者の彼女がこんな風になるのは、所詮他人事の進にとっては、ギャップがあって可愛らしい、くらいの感想だ。
かといって、胃液ゲロを吐かれたり、今みたいに濡れたまま抱きつかれてなおかつ体を拭くかされるハメになるのは、あまり嬉しくない。
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