第87話 ご主人様に色目使ったら、呪います
久々に教授の手伝いで研究室に来ている。
とりあえずやることは終わり「適当に好きなことやっててー」と教授に言われて、研究室の机の端っこあたりで数学の宿題をやっている。
そして、目の前には心強くはないアドバイザーが座っている。
「懐かしいな~、それ。サインとかコサインとか」
初花だ。教授の手伝いに来るとたまに遭遇する。
「懐かしいって、そんなに?」
「文系だからね」
初花にとってはそうでも、今現在の進にとってはほぼ最新の知識だ。年齢の差というものを感じる。
「それ、難しくない?」
「まあまあ……」
大して難しくもないルールに当てはめるだけ。隣に教科書を広げて解説や例題を見ながらやれば、この程度の練習問題などは簡単だ。
「そういえば、すぅ君は理系だっけ」
「一応」
誤魔化しなどではなく、本当に一応で選んだ。
「治癒系の魔法とか得意だったし、医学系とか目指すの? それともエンジニアとか?」
「いや……理系は就職が安定してるからって理由だけで、特にこれをやりたいとかは無いんだ」
あと、医学系に行けるほど頭も良くない。
それにこれは最近の悩み事でもある。志望大学すらマトモに決まっていない。いや、時期尚早だろうか。
「進君、やっぱり理系なんだねー。生物? 物理?」
とここで、部屋の端っこから教授も会話に入ってきた。仕事とは言え、直ぐ側で喋られると寂しいか。
「物理です。化学もやりますけど」
化学は生物と物理の中間にあるような科目だ。一年生のうちに生物基礎と物理基礎をやる。二年生になると物理と生物に分かれて、半年だけで化学基礎を終わらせて、そして化学に入る。
「どういう学部いきたいの? 学部というか、学科」
「機械工かな……ってなんとなく思ってますけど……。就職が安定してるので」
「あー……」
教授は「うーん」と何かを悩む。
「惑わすつもりはないけどね、やめたほうがいいよ」
そして、悩む必要が無かったほどにキッパリと言った。
だが、直ぐに言い換える。
「あ、変な意味じゃないよ。機械工って実は蛇口につける浄水器とか製薬とか、一見関係ないような分野でもかなり使われているから、就職が良いんだよ」
本職で大学の教授をやっているだけあって、シンプルに為になる話だった。
進も有り難く受け取るのだが、向かいで初花が「へー、すご」と進よりも反応が良い。
「就職が良いっていう理由だけなら、機械にこだわる必要は無いんだよ。電気系でも良いし、化学系だって有る」
だから
「もう少し、ゆっくり考えても良いんじゃないかなあ。ミスマッチが起きたら大変だし。それに、そのうちに興味が湧く事が出来るかもしれないから。三年の夏まではまだ大丈夫だよ。最悪、大学に入ったあとだって考えられる……っていうか、大学に入ったあとから考える人ばかりだしね」
大人からの助言に、悩める高校一年生はただ素直に頷くしかなかった。学校から進路希望調査を渡されて、とりあえず適当に書いて決めただけの事に、こだわる必要も無いかもしれない。
「教授はなんで魔法の専門家に?」
初花が聞いた。先人の例を聞き出すのに丁度良いと思って、初花が気を遣った。
「本当は農学が専門なんだけどね。実家が農家だからさ。魔法の研究は、知識が結構役立つし、面白くて始めたんだよね〜。大した理由はないよ」
教授はのほほんと答えた。
有り難い話を聞いたあとに、結局割と適当な決め方をしていたと聞くと、拍子抜けだ。
「初花ちゃんは? えっと、社会学だっけ。どうやって決めたの?」
進は初花に聞いた。まだ彼女のほうが真面目に決めていそうだと勝手に予想する。
「えぇっと、魔導庁の生活支援課に入ろうと思って」
妖怪とか魔法使いの生活を守る所だ。妖怪によっては現代日本に馴染めない者も居るため、それをどうにか助ける事などをしている。
「ああ、だから社会系なんだ。目標がハッキリしてるな……」
「そんなことないよ。何となく決めたことだから」
妖怪退治の仕事は、社会に馴染めなくてどうしようもない、本来なら退治する必要のない妖怪まで退治せざるをえなかった。
つまり、一方的な社会の都合だ。
「妖怪も、退治しなくて済むならそれに越した事は無いから」
そう言う初花の顔は、どこか優しい。
「……。初花ちゃん、ちょっと変わった?」
以前まで、もっと厳格で強く凛々しいイメージがあった。だが、近頃はそんな印象も抱かない。
「え、そう? どこが?」
「前は、もっと義務感──みたいなのが強かった気がする」
一瞬、微妙な沈黙が訪れた。
純粋に強く、どんな仕事も完璧にこなす。他人にも厳しいが自分には更に何倍も厳しい。そんな人だった。
「前は……日戸家だから、強くなって、戦うのが仕事だって思ってたの。でも、ちょっと疲れちゃったかな」
目を細めた。
初花がそれを言うのが、あと何年か早ければもう少し美冬とも上手くやれたのかもしれない、なんて意味のないことを思った。
噂をすればなんとやら、手元においてあったスマホが震えた。
画面には「美冬」の文字がある。
狐の聴覚は良いと聞くが、まさか時空まで超えるのか、なんて考えてしまった。
初花に一言断ってから、電話に出る。
『ほうぼう!!』
第一声が、これだった。
電話は、美冬の声以外にも聞き慣れた近所のスーパーの曲が流れている。
「え、なに……?」
『ほうぼうが売ってるんですよっ! 東京だとレア物なんですっ』
「ああ、うん……」
『それで、夜は生姜焼きって言ってたじゃないですか? 予定変更で良いですか??』
まさかそのためだけに電話してきたのか……と何となく呆れた。
特に、進は基本的に何でも良い性格なので、当然許諾する。そもそも、作ってもらう身で文句は言えない。
『ああ、それと、そこに初花居ますか』
そして急に声のトーンが下る。察しが鋭く、進が返答に迷ったたった1秒で『換わってください』と初花が居ることを前提で話を進められる。
首を傾げる初花に「みふが、換われって……」とスマホを手渡す。
初花はスマホを耳に当て、一言「もしもし、文化祭以来だっけ」と挨拶する。
だが、美冬はまともにそれに答えず、ただ一言だけ言い放った。
『ご主人様に色目使ったら、呪います』
そして、要件はそれだけだから、
初花は苦笑いしながら、進にスマホを返却した。
進が美冬との話を終わると、進がまず「なんか変なこと言ってなかった?」と心配するのだが、初花の返答はまた違っていた。
「すごく、愛されてるね……」
以前同じことを別の人物に言われた時のことを思い出し、美冬には説教が必要だと判断した。
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