第76話 これで少しは起きました?
美冬は、テーブルにだらけながら時計を眺めていた。
午後9時半。
無音の部屋だ。
テレビやスマホとかの、そういった音が鬱陶しくて、ただ無音の部屋で、ただぼーっとしていた。
だが狐の聴覚は、たとえ部屋の音を消しても、あらゆる音を拾ってしまう。
正しい意味での無音や静寂は訪れてくれない。ただ、意識の外に置いてやる他ない。
今頃、
彼女はそう考えて、体中が重くなる錯覚を覚えた。
美冬は、香椎満里奈のことをあまり良く知らない。交流はあったが、興味と言う興味があまり無く、生活の中で意識したことがなかった。
進と香椎満里奈という二人がどういう関係性なのかは、わからない。
ため息を吐く。
よく知らない人の為に自分は心を乱されているのだと考えると、妙に滑稽に思えた。だが、進も絡んでいるとなると、そうも言えなかった。
誰とも知らぬモノに自分の主の意識が向けられているのだと考えると、納得がいかない。
そして、酷い恐怖を覚える。
去年みたいなことは、もう嫌だ。
無音だった意識の中に、聞き慣れた足音が聴こえてくる。
起き上がり、玄関まで急ぐ。
まだかまだかと待って、足音が近付いて、やっと扉が開く。
帰ってきた進は、酷く疲れた顔をしていた。
おかえりなさいを言って、夕飯は出来ているから、何時でも良いという連絡事項めいた事を話す。
昼から何も食べてないからと、すぐに夕飯だ。早速とはいいつつ、もう9時半だから十分遅い時間だ。
作ってあったものは、フライパンの中にある。ガスコンロの火をつけて、温め直す。
「今日は、ガパオライスを作ってみたんです。ひき肉とピーマンは麻婆豆腐に使えますし、バジルはパスタに使い回せますから、ちょっと安上がりです」
美冬がいつもどおりを装ってそう言っている間、進の方はブレザーを脱ぎ捨てて、テーブルにだらけている。
彼は「へぇぇぇ」と、返事のようでいてうめき声のような、謎の声を出している。
あとは、目玉焼きを焼くだけだ。こればかりは、直前に作らなければならない。
横目で、未だにテーブルに突っ伏したまま動かない主を見やる。
いつもなら、ご飯をよそったり、箸などを用意させたりと手伝わせるのだが、今日ばかりは許してやる。
目玉焼きが出来上がったら、どんぶりを2つ用意し、ご飯を敷き詰めその上にガパオライスの具を載せ、そして目玉焼きを載せる。
ナンプラーを使わない、日本的なガパオライスの完成だ。
それをテーブルまで運ぶ。
「ご飯ですよ〜」
「……はっ。半分寝てた……」
「相当疲れてるんですね……」
料理は運んだが、スプーンをまだ運んでいない。
台所へとんぼ返りだ。
「あ、ごめん」
それに気付いて進は立ち上がろうとするが、美冬は止めた。今更だ。
さっさとスプーンを取りに行って、戻る。
ふと、眠そうな主を見て、座る前に彼の目前に止まった。
グイッと顔を覗き込み、不意打ちで軽くキスする。
「これで少しは起きました?」
見下ろして言う。事実、進は目を丸くしていた。
「冷める前に食べましょ」
何もなかったと言う風にして、テーブルの前に座る。
いつもどおりを繕うにも、なかなかに苦労する。未だに気持ちはモヤモヤとしたまま、いただきますを言った。
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