第73話 重いって、思いませんか。
美冬の引き攣るほどに見開いた目が、進を捉えている。
ハイライトはなく、黒く、そこに一片の光はない。
体は微動だにせず、ただ表情は虚無を貫く。
だだ、進の話を聞き終えた彼女の言葉は、機械音声のごとく無機質だった。
「そうですか」
言って、黙った。
黙ったまま、主を見続けた。
ローテーブルを挟んで、向かい合って座っている。いつもの構図だ。
しかし今日に限って、彼は萎縮していない。
彼もまた、淡々と説明と報告をするだけだった。
最初家に帰ってきたとき、ファストフードみたいな匂いと、コーヒーの匂いと、知ってる女の匂いを感じ取った。
そして、全て主の方から説明した。
仕事を手伝うよう頼まれたことも。
「それで、女と会ってたわけですよね」
自分から正直に話したことは評価しよう。だが、問題は多々あるし、特にこれは重大だ。
「美冬の許可なしに? 連絡も無く?」
言うと、彼はバツが悪そうに、必死に目を逸らした。
なるほどつまり、悪いことをした気はあるらしい。それでいて、澄ました顔をしていたのか。
「つい最近言ったばかりですよね? 浮気はだめですよ、って」
「え……っと、だから浮気じゃ──」
「はい? 他の女と会っただけで浮気ですよ。ご主人様は美冬以外の女に近づいちゃだめですよ」
進は諦めたように黙った。
「こういうやり取り、前から何度もしてますよね。アサノさんのときとか、初花の時とか。そろそろ学んでいただけませんか。この3カ月間で通算何回やったか、数えましょうか」
「え、遠慮しておきます」
「パッと思いつくだけで9回ですよ。小さいのも混ぜたら何回になると思いますか?」
「結局数えるのかよ。……え、まって、そんなに多くない!」
「美夏と菊花の件も含めてですよ。何言ってるんですか」
「いやだって美夏はアイツから一方的なだけだし、菊花は普通に考えてノーカンじゃ?」
「女なら全部同じことです。勝手に菊花と連絡先交換してたことは忘れてませんから」
いくら抗議しようとも、彼女は耳を貸さない。
否、進にとっての抗議は、彼女にとっては寧ろ逆だった。
根本的に認識が違う。
美冬は、今一度それを認識した上で、さらに言葉を練る。
「ご主人様が、美冬の知らないところで、他の女と会うだけで嫌なんです」
これだって自分の口からではなく、彼の方から気付いて欲しかった。
「ほんとは、学校で、あのスガヤって人と喋ってるんだって考えてるだけで、嫌になるんです。美冬の知らないところで、見てないところで、ご主人様が何をしてるとか、誰とどんな話をしてるとか……。嫌なんです。美冬以外の誰も見てほしくない……」
一つ言い出すだけで、ボロボロと出てくる。
最近、この思考は大きくなるばかりだ。
原因は、わかりきっている。
進は、険しい表情をしながら黙っていた。
何も言い返さない、というよりも、何も言い返してくれない。
「重いって、思いませんか。美冬のこと」
「別に……」
自覚はある。
だから、彼の言葉を聞いたところで、ああ、気を使ってるんだ、としか思えない。
「満里奈のこと、どう思ってたんですか。好きだったんですか、あの人の事」
ここまで来て、引き下がれなかった。
数日引きずっていて、まるで仕組まれた様にタイミングがやってくる。
引き寄せの法則と言うのだろう、こういう事を。
「なんで。なんでそういう話になる……」
進は、本当に困惑していた。
話の流れでの中でも、これに繋がる話は無かったように思えた。
だが、美冬の中では、これがずっと渦巻いていた。
まるで、初花の時から一切変わっていない。
夏休みに思った事も、何もかも。
主が誰か他の者のところへ行ってしまう恐怖が、有る。
酷く過去に縛られる。
「美夏と高千穂が喋っていたのを、聞いたんです。ご主人様が、満里奈の事が好きだったって」
「アイツらが勝手に言ってた事でしょ。それに、今は関係ない事だし……」
進はすぐに否定とも取れる言葉を言った。
まるで脊髄反射の様に。
「関係ない……?」
関係ないはずが無い。
結局、彼は何もわかっていない。
だから、同じような事をこうして繰り返していたのか。
それがわかってきて、悲しさと虚しさと怒りが、思考を支配していく。
バンッと大きな音を立ててテーブルを叩き、立ち上がっていた。
気付いたら、主を見下ろす形になって、何が辛くて、泣けてくる。
「美冬が知らないところで……知らないうちに、ご主人様が他の誰かの事を好きになってて……! じゃあ! 美冬はどうすればいいんですか!」
彼は性根からの孤独好きな癖に、変なところで寂しがり屋だ。だから、孤独と寂しさを埋めてくれる誰かを求めている。
今は自分だから、それで良い。
だが、自分でなくてもその役目は果たせてしまう。
だから、美冬は許せない。
他の誰かが進に近づくことも、進が他の誰かに近づくことも。
この役目は、自分だけでいい。
「好きだったのって、中2の終わりから、中3の夏辺りですか」
ほとんど確信みたいな、目星だ。
丁度その頃は、お互いに離れていた時期だった。顔を合わせれば喧嘩ばかりして、いつしか会うのも嫌になっていたような時期だ。
面倒くさくて扱い難い狐より、もっと愛嬌があって可愛らしい人間のほうが良かったのだろう、と。
「別に、好きとかどうとか、そういうのじゃ無かったし……」
彼の言い方は、間接的に認めたようなものだ。
「それで、美冬が居たから諦めたんですか」
「諦めるも何も……」
進は、疲れた表情をしつつ溜息を吐いた。
もううんざり、そんな風に見える。
「たかが中学生の好きだ腫れただの話なんて、いちいち覚えてないし、今更どうこうする話じゃないし……。今とこれからをどうすんの、って話したほうがまだ良いと思うよ……」
「まだ去年の話じゃないですか。それにご主人様はまだ高1で、中学生に毛が生えた程度です。それで、今から未来の話をしようだなんて言われたって……。ただ誤魔化してるだけじゃないですか……」
涙で歪んだ視界で、主の顔を捉える。さっさとこんな話は終わらせたい、そう思ってそうな顔だ。
自分はこんなだから、面倒くさがられるんだ、そう思って尚更、辛くなる。
リニア的に、主が離れていく様な気がする。
「ごめん、今、みふが何をどう考えてるのか、いまいちわからない。察せる程のアタマもないし……」
そう言いながら目を背ける。
「……。だから……」
だから、
この先の言葉が、出てこない。
心臓の辺りでつっかえてしまって、喉にすら届かない。
簡単なことで、心と頭ではわかっているのに、言葉にならない。
苦しくて、頭を両手で抑えて、髪をクシャッと掴む。
何度も頭を左右に動かして、だめで、気持ち悪くなる。
しゃがみ込む。
自分が近くにいないと、彼はどんどん離れていってしまう。離れたくないのに。死ぬ程に、彼を想っているのに。
だが、想っているから、彼の気持ちを台無しにしたくない。無下にしたくない。
それでも、自分は彼の全てでありたい。
自己矛盾が、体中をグチャグチャにしていく。
呼吸が止まっているのか、むしろ過呼吸なのか、それすらもわからなくなっていく。
嫌だ。主があの香椎満里奈が好きであったなら。自分のせいで彼は諦めたのなら。
そして、今度こそ離れてしまったら。
思い出す。
何もかも、終わってなかった。
初花とのことでさんざん揉めたのに、何もわかっていなかった。
何となくの誤魔化しだけで、わかった気になっていた。
自分は、主にとって、その程度か。
「みふ……」
背中に、手のひらを感じる。
今は要らない。そういう慰めみたいなものは、不要だ。邪魔くさい、鬱陶しい。
何も要らない。言葉も、体も。
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