桜のつぼみも膨らみかけた頃、源氏は久々に参内した。この日は帝の代が変わってから、そして源氏が左大臣になってから初めての官奏であった。

 官奏は政治とはいってもほとんど儀式であった。職事公卿となった左大臣の源氏は、紫宸殿の玉座の前で太政官奏を読み上げる。それでよしとなったら、大臣公卿の署名のあとに帝が直接「可」の字を書き給うて儀は終わる。ところが今は、その字を実際に書くのは関白だ。帝は関白の意のままに、形だけ筆をとるにすぎない。

 この間、帝は終始整然としていた。霊が鎮まっている間は、紛れもない一天万乗の天子にふさわしい貫禄を備えた若い帝王となる。だが、時折の発作はまだ断続的に続いていた。

 そうして春の終わり頃、更衣となって入内したが今はすでに女御となっていた一条大納言の娘が里邸の一条邸に下がってきた。だが、それにしてもまだ産み月というわけでもないので、早すぎる里下がりであった。

「娘も帝を恐れ申し上げて……」

 大納言は宮中の渡廊での立ち話で、源氏に対して言葉を濁しながらも小声で言った。帝は正気のときは理想的な夫君で、大納言の娘との間に子までなしたが、ひとたび発作が起きると別人におなりになるという。狂暴性はないにしろ顔つきが若者から急に老人になってしまうので、麗景殿付きの女房たちも気味悪がって里がちであるということであった。

「そんなわけで人手が足りないということなのだそうで、時には殿舎の中に帝がたったお一人でおられることもおありになるとか。この間も蔵人が参上すると、帝はなんと名宝の大水龍の笛を小刀で削っておいでになったとか、あるいは神璽の箱を開けようとまでなさったとか」

 そのとき、足音と衣擦れの音がした。

「シッ!」

 慌てて源氏は、大納言の話を制した。立ち話で帝お噂など、たとえ左大臣だとしても許されるものではない。案の定、やってきたのは一番性質たちの悪い小一条右大臣であった。

「おお、左府殿。それに亜相殿も。仗座が始まりますぞ」

 それを聞いて上卿は自分だと源氏は言ってやりたかったが、右大臣は気味悪く笑っていた。まるで自分が上卿気取りだ。

 それにしても危機一髪であった。

 あのような内容の話をしているところを、右大臣に直接聞かれたりしたら一大事であった。

 そのとき、源氏と大納言の間に羽蟻の群れが飛び込んできた。羽蟻の発生は、都ならちょうど賀茂の祭の頃の年中行事である。だが、この年は異常であった。宮中でも無気味なほど、羽蟻が大量発生している。

 議は大嘗祭のことで、その間も公卿たちは羽蟻との戦いに終始していた。すでに悠紀国は近江、主基国は播磨と卜定ぼくじょうされていた。これも源氏が自邸で公務を執っている間に、小一条右大臣が上卿となって議を開いて発表されており、源氏は事後承諾するしかなかった。

 羽蟻は帝のお常御殿の麗景殿からその北東の淑景舎――桐壷にかけて、そして綾奇殿と宜陽殿との間の敷政門近辺、大内裏の東の入り口の公卿たちの通用門である陽明門辺りなどが異常大量発生の現場であった。特に麗景殿などは、まるで柱も床も埋め尽くさんばかりの大発生であった。

 ほかに、宮中の上空を大量のかもめが北をさして飛んでいったりもしたので、人々は何か悪いことの前兆ではないかと噂していた。


 そんな噂をよそに、源氏は議のあとで太政官にてしばし放心していた。

 何もかもが変わってしまった。内裏も、この朝堂院も建物自体は昔からの姿のままだが、本当に源氏が若い頃のものそのものかというと、実際は立て替えられたものだ。変わらぬ姿と実は変わっているという事実に、源氏は今昔の感を抱かずにはいられなかった。

 そのとき、瓦の屋根が音をたてた。石畳の床が揺れる。柱のきしむ音も響きわたり、中にはには砂ぼこりが上がっていた。

「地震だッ!」

 官人たちが、慌てて殿舎から飛び出していった。だが、揺れそのものはすぐに収まった。余震は何日も続いたが、須磨にいた時の大震災の経験を持つ源氏にとって、このような地震は地震の内には入らなかった。それでも、あの播磨を中心とした大震災を直接知らない若い人たちは大騒ぎであった。


 そして夏の盛りの頃、またもや源氏の頭痛の種になるような事件が発生した。南都の東大寺と興福寺が所領争いを起こし、ついには僧たちの乱闘事件にまで発展したのである。つまり、人々の魂を救うはずの宗教者が、互いに大量殺戮を行うというゆゆしき事態であった。

 だが、源氏にとっても他人事ではなかった。なにしろ源氏は東大寺俗別当の職をも兼任しており、場合によっては自分が南都に下る必要も生じるのではないかと懸念されたが、それは必要がないようでひと安心であった。

 しばらくは公卿による大嘗会についての議も一時中断されて南都への使いの発遺や関係者の召還と尋問などで時間が費やされたが、秋になる頃にはそれも鎮火していった。


 その頃、またもや真夜中に地震が起き、揺れ自体はたいしたことなかったが、こう地震が続くとさすがに世情も不安定になっていった。

 そのようなこともあって、改元が発表された。源氏の生涯で八度目の改元である。無論、決めたのは関白太政大臣である。その関白も最近は病に伏せっていたが快復したようで宮中でも見かけるようになり、そのような時必ず隣には小一条右大臣がいた。


 折しも、空に白虹がかかった。それも右大臣の顔を見た直後であったから、どうしても源氏は不愉快な記憶と結び付けてしまう。

 今では老人の小一条右大臣がまだ左兵衛佐という身分の小賢しい若者であった頃の顔が、源氏の中に蘇ってしまったのだ。


 ――白虹日を貫く。太子之これづ……。


 『史記』雛陽伝の一説だが、このような言葉を通りすがりに若者だった今の右大臣に皮肉たっぷりに言われた直後、源氏は今は尼となっている尚侍かんの君との密通がばれて須磨に見を引くことになった。あれからもう三十年の時がたっているのに、今さらながらにそのようなことを源氏は思い出す。

 そしてその右大臣の顔を見た直後に、実際に白虹が天を貫いているのを源氏は目にしてしまったわけである。

 あの頃の源氏とも、また『史記』の中の燕の丹太子とも違って今は何らやましいことはしていない源氏であったにもかかわらず、なぜか不吉な予感をぬぐいきることができなかった。


 いよいよ大嘗祭が近づいてきた。それに先立って、鴨川での帝の御禊ごけいも行わなければならない。

 なにしろこのたびは、帝は宮中をお出ましになって鴨川まで行幸されるのだ。その途中でまた発作をお起こしになったらと、公卿たちは気が気でなかった。

 だが御禊は、大嘗会には必要不可欠の行事である。ところが当日、帝は公卿たちの心配をよそに、何ごともなく御禊を終えられた。人々の間で噂となったのは、帝には外祖父に当たる亡き九条前右大臣の霊が帝をお守り申し上げたのだということであった。

 源氏がほっと胸をなでおろしていた時に、明石の御方が西ノ対から一通のふみを持って源氏のもとへやって来た。

 女の方から主のいる寝殿に渡ってくるなど、よほどの非常事態である証拠だ。その文は明石の御方に宛てた、兄の左兵衛尉からであった。

 内容は四宮に会わせてほしいということで、左兵衛尉は源氏に一喝されたことによって今度は矛先を妹に向けてきたらしい。

 しかもその文の署名は多田左馬助と連判であった。何をたくらんでいるのか……源氏はため息をつくとともに、白虹の不安の出所はここかもしれないと背筋を寒くした。

 もはや御子も十分成長していることだし、やはり四宮には宮中に戻ってもらった方がいいのではないかと源氏は思いはじめていた。


 そんな矢先、大納言の一条邸で女御である大納言の娘が無事に帝の第一皇子を出産したとの知らせがあった。

 亡き中宮や先帝にとっては初孫となる。孫の顔を見ずに逝ってしまったお二方のことを考えると同時に、源氏はその皇子の将来にも思いを馳せた。

 すでに五宮が立太子している以上、五宮が皇太弟であることは動かせない。だがその五宮が即位後、五宮に皇子がいたら次の東宮をめぐってひと悶着ありそうな種をはらんで生まれた皇子である。

 しかし源氏にはそんな先の不安よりも、もっと身近な心配事があった。左兵衛尉が何をたくらんでいるのか……。


 ――太子之を畏づ……


 そんな言葉が耳から離れない。


 そうこうしているうちに、大嘗祭の当日が来た。

 そしてその翌日から節会せちえが始まる。

 まず北野の齋院から神供が一度南下して、朱雀大路を北上しつつ列をなして内裏へと向かう。そして悠紀節会、主基節会と続き、圧巻の豊明節会とよあかりのせちえとなった。

 豊楽院にて吉野国栖奏、久米舞、古志舞、悠紀・主基両国風俗舞、そして常の新嘗祭にもある五節舞と無事に行事は続いた。

 帝は豊楽院にお移りになり、おそばに伺候していたのは左大臣である源氏をはじめ先帝の四宮、物の怪となった前民部卿の血をひく一宮、さらに源氏の同母弟の大蔵卿宮などであった。

 この大嘗祭による叙位で、一条大納言の弟の頭中将が従三位に叙せられた。まだ参議にはなっておらず中将蔵人のままの非参議の三位であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る