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本当にここは辺境であるというのが、源氏の実感だった。土の色まで違って見える。彼にとって筑紫とは玄海灘の向こうにあるという、言語も風俗も違う
だが紛れもなく、源氏がいるのは日の本の
「権帥殿、ご到着ーッ!」
車を護衛してきた検非違使の役人が大声で叫ぶと、すぐに門は開けられた。
そこを通り抜けて源氏がさらに驚いたことに、門の内側は都と同じ都城となっていた。車が進んでいるのは、都ならさしずめ二条大路に当たる所であろうか。都と同じとはいっても民家や官人公卿の邸宅が軒を連ねているわけではなく、大路と大路の間はたいていは空き地か森となっており、屋敷は所々に点在しているに過ぎなかった。
それでも長旅で田舎の景色ばかりを見てきた源氏にとって、意外な光景であった。
頭では古来より「
やがてさらに驚いたことに、行く手に左側に堂々たる官庁が見えてきた。朱塗りの柱に緑の瓦屋根の二層の南門がそびえ、その左右は築地塀になっている。その中の一段高いところには、中門が回廊にはさまれて立っていた。
これらの漢風建築群は規模こそ都よりは少し小さいが、都の大内裏の朝堂院そのもので、源氏はまるで都に逆戻りしたのではないかと頭がクラッとさえした。
この大宰府の政庁は平安の都よりもはるかに古くから。奈良の都の時代からあったはずのものである。それにしては建材も何も真新しかった。
源氏はそこで思い出したが、たしかかつて伊予の国の海賊がこの大宰府の政庁を残らず焼き払ったという知らせを受けたことがあった。今の建物はその後に新築されたものだろう。だから新しいのだ。
車は南門の前で止まり、そのまま車の中で少し待たされた。その間、車の供の役人が門番と何か話しており、門番はすぐに中へと入っていった。しばらくしてから門は開かれ、都の官人と同じ束帯を着て笏を持ち、冠を着けたものがでてきた。浅緋の袍はそのものが殿上人であることを示している。
その官人は車の後ろまで来て、立ったまま源氏のいる中に向かって身をかがめた。
「大宰少弐筑前守でござる。権帥殿には榎寺に入って頂きます」
源氏は権帥とはいえそれは名目で実際は流人なのだから、どうやらこの大宰府政庁――都府楼には入れてもらえないらしい。
ましてや彼は今、僧形である。行き先は寺というのは、当然かもしれない。
車はそのまま都府楼の南門を背にして、大路を南下しはじめた。これが朱雀大路なのだろう。都のそれとは規模の面で比べようもないが、それでもこの地としては十分な都ぶりであった。ここもまた都と同様に山に囲まれた盆地であるが、周囲の山は都ほど高くはない。東西と西の方角は山が切れて平地が続き、ひときわ高い山といえば、不思議なことに内裏から見た比叡山と同じ方角に、比叡山によく似た少し小ぶりの山が居座っていた。
「榎寺とは近いのか」
源氏は供の一人に尋ねてみた。
「われわれも初めてなのでよくは分かりませぬが、少弐殿は菅公のおられたところと申されておりました」
車の外から、そう返事はあった。
源氏は今やその菅公と同じ境遇でこの地に来ている。年もひとつ違うだけだ。今、車が進んでいるのは菅公が歩いた道、源氏が見ているのは菅公も見ていた景色である。しかも、菅公がいた配所にこれから住むのである。
源氏が若い頃は火雷天神――すなわち雷公としてただ恐怖の対象でしかなかった菅公に対し、源氏はまたもや親近感をひしひしと感じていた。
榎寺は小さな寺であった。須磨での暮らしの経験があるだけのそれほど不都合は感じはしなかったが、あの時は家司がいて身の回りの世話をしてくれた。だが今は世話役の二人の稚児がついているだけである。それも、田舎の寺の稚児では世話にも限界があって、勢い源氏は身の回りのことは自分でしなければならないという生まれて初めての経験をすることになった。
この寺には住持の僧が一人いるが、年も源氏と同じくらいの腰の低い人であくまで源氏を貴人として扱ってくれた。
寺に入って最初の夜、しばらくはその住持の僧と話をしていた。僧は都のことをほんの少し聞きたがったが、源氏がここに来たいきさつなどについては全く触れることなく、あとは仏典の話などをしていた。
その僧が自室に戻ると、源氏はあらためて悲しみと寂しさがこみ上げてきた。これまでは旅路とあって変化のある毎日であったが、ついに到達点に達した。これからはずっとここで暮らすのである。いよいよ都とは隔世の感を持った。源氏はとうとう、独りになってしまった。遠い西の空で、あらためて源氏は思いを都へとはせた。
翌日から、新しい生活が始まった。
毎日が読経と写経、そして寺の僧と聖教について語り合う日々であった。周囲の山々の新緑は日ごとにその色を濃くし、季節は確実に夏へと移行していった。食事は寺のものだから質素ではあったが、それでも都よりいちだんと新鮮な素材であることには驚いた。海の幸も豊富である。生活は思ったより快適であった。それでも、都を思い出さないといえば嘘になる。
――去年の今夜、清涼に侍し……
菅公が寝泊まりをしていたという部屋で暮らす源氏にとって、菅公の心がそのまま自分の心であった。
――都府楼は
だが、観世音寺の鐘の音は菅公が聞いていたのと同じ音色で確実に毎日この寺まで聞こえてくるが、残念ながら都府楼の瓦は海賊の乱の後に再建されたものだから、菅公が見ていたものではない。
その都府楼には今、史生を含めて五十人ほどの官人がおり、そのうち大半は都からの派遣であった。
「拙僧が若い頃にはまだ菅公を直接存じ上げているご老人もおられましたが、今ではみな死に絶えてしまいましたよ」
そんなことを、寺の僧は言っていた。それでもこの地では今でも菅公を慕っている人が多いというのが、数日をこの地で暮らした源氏の実感だった。都では雷神、祟りをなす御霊として恐れられている存在が、ここでは神と崇められている。
朝廷に対する怨霊となったどころか、この地に伝わる伝説によると菅公はここに来てからも朝廷と国家の安泰を祈り続け、南の方に見える天拝山という山に登って鎮護国家の大祈祷までしたという。それに天が感じ入って、彼は「天満大自在天神」の称号を天から授かったともいわれている。
都人は、都を追われた菅公の無念さ、悔しさ、恨みの方に思いを致し、それだけに祟り神の印象を持ってしまう。おそらく源氏に対しても、残された人々は源氏が今ごろは都を恨み、失意のどん底にあると想像しているであろう。だが今の源氏には菅公の心情がよく分かる。菅公と同じ境遇で、同じ道を歩んで、同じ場所に来た源氏も、決して都を恨んではいなかったからである。
「天満宮に行ってみられるといい」
僧は源氏に、そのように勧めてくれた。流人とはいえ、大宰府を出ない限り行動は自由である。
都城の西北のはずれの宝満山の、
僧形なので拝殿には上がれないが、その社頭の土の上に座って源氏は額づいた。そして、今の自分の身の上をも静かに考えてみた。自分も朝廷を恨んではいないが、かといって菅公のように鎮護国家の祈りが自分にできるだろうか……それも自信がない。
参拝を終えてから、源氏は庭を散策してみた。拝殿に向かって右側の一本の木を、供をしてきた稚児が指差す。
「この梅は、菅公ば慕って都から飛んできたとです」
すでに、そのような伝説までできているらしい。今は梅とはいっても緑の葉が枝から吹き出て木を覆っているが、それを見ながら源氏は自分にとってのこの梅に当たるものは何だろうかと思った。何が自分を慕って都から飛んできてくれるだろうかと、ふと考えてしまったのである。
須磨の時は、都に最愛の女がいた。淡路島との間の海峡を二条邸の池に見立て、それでも隣に紫の上がいないことを悲しんだ。ここから見れば須磨など都のすぐそばなのに、それでも紫の上と遠く離れていると実感していた。
だが、今は違う。今は彼女はとてもそばにいる。なぜなら彼女は今、源氏の心の中にいるからだ。心の中から時折話しかけてくれる。
そしてその父――源氏にとっては生涯の親友だった男、須磨までわざわざ訪ねてきてくれた男も、今では源氏の心の中でだけに生きている。
その父娘の存在だけが源氏の心の支えだった。
そんな面影に支えられながらも、最果ての地で源氏は日々を暮らしていた。その間、全く都を思わなかったと言えば嘘になる。
そもそも都と全くかけ離れた土民の地、あるいは逆に全く同じ環境ならばまだ楽だと言えた。須磨が前者で、明石が後者だった。しかしここは、中途半端に都に似ている。それがつらくもあった。都のことで気にかかることも、まだまだ多々ある。明石の御方、薫、姫、女三宮とその宮が生んだ中の姫、若君……忘れよう、とあえて源氏は自分に言い聞かせていた。彼は、ここで生まれ変わるつもりでいたからだ。
政庁の大弐や少弐は任期が終われば都に戻るし、その時は莫大な富とともに帰洛するはずだ。しかし自分は、終生この地にいることになる……そのことを思うにつけ、都を思って辛くなることもあるにせよ、今の源氏はこれまでにない心の安らぎを得ているのも不思議だが事実ではあった。
ここへ来てよかったと思うことすらある。もしかしてここでの生活こそが、自分が今まで求め続けていたものではないかという気さえするのである。
あれほど願い続けてなかなかかなえられなかった仏門に入ることもかなった。これ以上何を願おう。
時は静かに、ゆっくりと流れていった。それは都における出来事を、一つ一つゆっくりと思い出してみるのにも十分な時間であった。
都では、何一つ満たされていなかった。今はこの辺境の地の静寂な時間の中で、ようやく本来の自分を取り戻したようだ。ずいぶん長い道のりではあったが、ようやく心落ち着ける生活を手に入れたのだ。
朝、起きて、自分の手で格子を上げる。遠くの天拝山の緑が目に飛び込んでくる。何とすがすがしく、生命を感じさせてくれる緑であろうか。間もなく、蝉が鳴きだす季節になる。
生涯の終わりにこのような理想的な境遇に出会えたことを、源氏はひたすらみ仏に感謝していた。
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